第37話「託された魔導書」
宿をあとにして帰路に就く道すがら、いつもと違う空気を吸っている気分で、無言が流れて町の喧騒だけが聞こえた。行き交う人々の靴音や話し声。カフェの横を通れば新聞紙を広げる中年がいて、眉間にしわを寄せながら小さい文字を追いかけている。パン屋の前では香ばしさに誘われた人たちが並んで、今か今かと自分の番を待ち、傍を幼い子供たちが列車の形をした木の模型を持って遊んでいた。
「……平和な国だねえ、本当に」
「ああ。問題なんて何もないって感じだよな」
一見は、たしかに平和だ。しかしウェイリッジで起きたような事件もある。王都も安全そうに見えて騒がしさの種になる出来事もあるのだろうと思うと、誰もが幸せに感じているふうに見えて少し不思議な気持ちだった。
「にしても、オレたちが魔女の代理人たあ、なんか実感湧かねえな。つうか、そもそも魔女にこんなに早く会えるとも思ってなかったしよ」
ネックレスを摘まんでじっくり見る。明るい場所では魔力の輝きは目立たず、ただの高価な装飾品のようだ。
「光栄なことではあるけど、ちょっと心配もあるよね。ソフィアさんたちが昔はどんな人だったのか聞いたあとだから、私たちで務まるかどうか、って」
優秀な、誰もが認める魔女の代理人。老人が想って涙を浮かべるほどの人たちのように自分たちができるのか。そんなグレアの不安に、マリオが頭をぽんぽん撫でながら「やってみるのがいちばん早い」と答えた。
「誰でも最初は赤ん坊だ。似合うかどうかも分からねえ服を着て、似合ってもねえ飾りをつけて外を歩く。それは大人になってからも変わらねえ、知らないから知るんだよ。そうして何が正しくて何が悪くて、何が最善かの選択が出来るようになって、一人前になる。そんときになって初めて、務まるかどうかの答えが出るってもんだろ?」
マリオンはポケットにある髑髏のネックレスを握り締める。
「オレがガキの頃、親父はよく自分の仕事を手伝わせた。もちろん嫌がったよ、小難しいことはしたくねえって。でも『知らないままではいけないよ』って、何度も諭された。なんだっけな……『損をするとき、もし無知ならば百の損をする。知識があれば十の損をする。お前なら、どっちのほうがマシだと思う?』って」
何も知らないままであれば利用され、知っているのなら駆け引きをされる。そんな話を何度も聞かされてうんざりはしていたが、それもそうだと思うところもあった。それは今でも彼女の中に根付いている。
「魔女がオレたちにわざわざ無茶ぶりするために頼んだとも思えないし、大丈夫さ。そう心配すんな、なんかあってもオレだってついてる」
「……は、それもそうだね。ありがとう、マリオン」
気付けばリヴェール孤児院の門前まで来ていた。庭で遊んでいた子供たちが、指差して「帰ってきた!」と喜んで駆け寄ってくる。
「ねえねえ、グレアお姉ちゃん、それなーに?」
「みんなへのお土産だよ」
興味津々に箱の中を見せてほしそうにする子供たちに「シルヴィさんとお話があるから、そのあとでね」と諭して、二人は玄関の近くで掃き掃除をしていたシルヴィに「ただいま」と声を掛ける。彼女はすぐに、二人の違和感に気付いた。
「……まあ。まあまあ、驚いたわ」
口もとを手で押さえて、目に涙を浮かべてしまい、指で拭ったあと彼女たちに「さあさあ、話があるみたいだから中へ入ってちょうだい」と掃除を中断してすぐに応接室へ連れて行った。なにしろ首に見覚えのあるネックレスをしているのだから。
「えーっと、何から話したものかな」
グレアがテーブルにケーキの箱を置き、腕を組む。
「実は言っていなかったんだけど、魔女様の大事な魔導書を開いてしまって……それで色々あって、魔女の代理人を務めることになったんだ」
「ええ、ええ。分かります、そのネックレスを見ただけで」
懐かしき日々が蘇る。シルヴィは孤児院が創設される以前から、孤児たちの面倒を見ていたことがある。しかし、そのせいか非常に貧しく、非常に働き者であったため、ソフィアが誘う形で今に至るまで働き続けている。
彼女にとってソフィア・スケアクロウズとリズベット・コールドマンは、かけがえのない友人であると共に、なにより尊敬する雇い主でもあった。その二人がいつまでも大切に身に着けていたネックレスは印象的で思い出深い。
そんなシルヴィだから、魔女に任されたことがある。
「少し待っていて下さい」
そう言って彼女が部屋を出て、しばらくすると一冊の古ぼけた本を持ってくる。何度も開いて閉じてを繰り返した、歴史の感じる痛み具合をした大きめの手帳のような本だ。テーブルにそっと置かれたそれを、シルヴィは「ソフィア様が生前に使っていらしたものです」と言った。
「もし、そのネックレスを着ける者が現れたら渡してほしい、と魔女様から仰せつかっておりました。その方々はきっと、ソフィア様たちの跡を継げる人間だから、と。……ふふ、まさかそれがお二人とは思いませんでしたが」
心からの喜びを感じているシルヴィに、グレアが本に触れながら「これはいったい何の本なんだい?」と尋ねる。彼女は胸に手を当てて、遠い昔に思いを馳せるように窓の外を眺めて深呼吸をしてから──。
「それは、ソフィア様がつくられた〝魔導書の複製品〟です」




