第19話「最初の親友」
何も言わずティナがどんどん仕事に没頭するのは気分転換だ。悔んだり悲しんだりする暇があるのなら、忙しくしていたほうがすっきりする。彼女のそんな意図を汲んで、マリオンもグレアも、酒場にいる男たちもお祭り騒ぎを楽しんだ。
夕方まで続き、汗水を流してティナ自身も陽気に振舞った。もう忘れよう、そうしよう。新しい日は必ず来るから。
「──にしてもよォ。あんな貴族にだけはなりたかねえや」
振り返れば、なんとも卑しい男だったとマリオンは口先を尖らせた。
「あんなのに親父は騙されちまったんだと思うと、やりきれねえよ」
「世の中ってのはそういうものさ、マリオン」
ウィスキーをあおり、グレアは夕焼け色に染まる町を窓越しに眺める。
「良いものにばかり触れてきた人間は悪いものに対する嗅覚が鈍るものなんだ。たとえばそれがどんなに不安な要素を孕んでいたとしても……期待しちゃうんだよ、そこにあるはずのない善意って奴をね」
町を行き交う人々の明るい表情。何も知らず平凡に生きる幸せをあるがままに受け入れる日々。そんなごく当たり前の中に狡猾な蛇は潜んでいる。自分たちの腹を満たせる哀れな兎を、目をギラつかせて探しているのだ。
「君のお父様は、きっと優しすぎたんだろう」
「かもな。オレは……でも、そんな親父の背中が好きだった」
「だから君も優しく育ったわけだ」
「ハ、参考にしてるつもりはねえけどな」
ぐいっとビールを飲み干して口もとを拭う。いつの間にかマリオンは酔って頬を薄紅に染めている。こうなると彼女は、いくらかしおらしくなって、ゆっくり長い時間をかけながら話をするようになるのだ。
「ガキの頃、オレは親父のことが誇りだった。よく言われたよ、『他人を信じなさい。そうすることで、お前も信じてもらえるから』って……。だけど結果はどうだ? 相手には『こいつはいいカモだ』って、クソみてえな信頼を寄せられただけだ。おかげで心がぽっきり折れちまって、それきりさ。残される側の気持ちなんか考える余裕もなくなってた」
旅に出て、ひたすら泣いた夜もある。やり直す時間さえあれば、死ぬほど追い詰められる理由さえなければ。
「オレ自身はそう感じてるつもりはないけど、トラウマなのかもな。首を吊った親父の、あの悔しそうな顔が忘れられない」
首を吊った父親を最初に発見したのはマリオンだ。朝起きて、いつものように朝の挨拶にと部屋の扉を開けた瞬間の衝撃が、いまだに胸の中に杭として突き刺さったまま。思い出すだけでも恐ろしく、悲しく、寂しい出来事。
「家族に残されたのは両手にあるだけの端金と、大切な家族を失ったって事実。時間が経てば世間の記憶からは薄れて、今じゃ何もなかったみたいになっちまってよ。……誰かから忘れられるってのは怖い。だからオレは不老不死になって、ずっと誰かの記憶に残りながら旅を続けたい。そいつが今のオレの夢って奴の原型よ。死ねば全部なくなっちまうのが嫌なんだ」
世間のしがらみに囚われることなく、いつまでも。怖いものなんて何もない、そんな人生。ときどき訪れる鬱々とした気分にさよならを告げる手段。他の誰に理解は得られなくても構わなかった。
「……うわさの魔女ってのは、いったいどこにいるんだかなあ」
酒の飲み過ぎか、喧騒の中でもマリオンはぐうぐうと寝息を立て始める。食器を片付けていたティナが「まあ。またこんなところで寝ちゃって」と呆れ笑い、部屋に運ぶのを手伝ってほしいとグレアに言った。
「飲み過ぎるといつもこうなのよ、ごめんね」
「いえいえ。私は面白くて好きですよ、彼女のこういうところ」
酔い潰れて眠ったままのマリオンをティナといっしょに部屋まで連れて、ベッドに放り出すように寝かせる。ふうっ、とティナが汗を腕で拭う。
「ティナさんは強いですね。あんなに辛いことがあったのに」
「まあね。悲しいし悔しいけど、ここにはみんながいるから」
ヴィンボルド伯爵の言葉は嬉しいものがあった。告白されたときの気持ちが今も胸の中に残っているのが、ちくりと痛む。けれど彼女は前を向けるのに、マリオンや酒場にいる人々、そしてグレアたちがいるおかげだと言った。
「私、もともと結婚願望なんてなかったけど、この宿がなくなってしまうのは寂しいでしょ? ヴィンボルド伯爵は商売も上手だったから、私なんかを見初めてくれるような良い人ならきっと力になってくれる、相談に乗ってくれるって思ってたの。でも違った。本当は、ただ冷たいだけの、自分だけが全ての人だった」
心底がっかりする。自分には人を見る目がなかった、と。
「昔からマリオンにもよく言われてたのよね。『お前はすぐに人を信用しすぎだ』って。でも、私はそれでいいの。そのぶんみんなが来てくれるからね。……この子にはそんな友達もずっといなかった」
「ティナさんだって、彼女にはいい友達だと思いますけど」
ぷっ、と小さく噴き出して彼女はやんわり首を横にふる。
「たしかに友達だけど、マリオンが深く心を開いてくれるほどじゃなかったわ。あなたがいっしょに来てからずっと楽しそうで安心したくらいよ。よほど気に入られたんでしょうね。……ね、どれくらい旅をする予定なの?」
「うーん。さあ、私にもわかりません」
グレアは少しだけ照れながら頬を指で掻き──。
「だけど彼女が誘ってくれるなら、私もいっしょにいたいとは思ってます。旅に出てからの──最初の親友なので」




