第30話「夢を見る時間は終わり」
床からぼこぼこと泡立つように噴き出す黒い影は、建物全体を染めっていく。床も壁も、砕け散ったガラスの破片さえ呑み込んで。それがタンジー・ウィルゼマンを殺すただひとつの方法、深淵の門が開いた事による事象だった。これには咄嗟に手助けをしたグレアも驚かされていた。
ただ建物を呑み込んだだけではない。どこまでも広がった黒が月明かりに照らされて、タンジー・ウィルゼマンに纏わりつく幾本もの腕を不気味に映る。彼は必至にもがいていたが、徐々に漆黒へ沈んでいく。
「くそっ、くそっ……! なぜ、いつ、どこに魔法陣があった……!?」
「ハッ。見えてるもんが全てじゃねえだろうが」
足下を指差して、堂々と立ったマリオンが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「一階の天井だよ。最初からてめえの考えなんざ見透かされてたのさ。眠ったままのオレにでも記憶は刻める。魔法陣の使い方さえ頭に叩き込んでいりゃあ、いざって時の切り札になるって分かってたんだよ、シトリンたちは」
真正面から挑めば、タンジー・ウィルゼマンではシトリン・デッドマンという大悪魔には程遠い。マリオンの魂を取り込まないうちに近づく事は必ず避ける事は予見されていた。だからこそ打たれた緊急の一手。もしも状況が自分たちでは手に負えないところまで陥ったら、グレアかマリオンのどちらかが必ずタンジーを討てるように。
彼女の言葉でグレアもハッとした。いつどこで魔法陣が刻まれたのか、なぜ詠唱まで分かっているのか。その答えは遡った記憶にある。
「そうか、あのときにはもう……」
仕掛けられた罠に気付いてマリオンのところへ戻ったとき、やってきたシトリンが何度も彼女の身体に触れていた事を思い出す。グレアに触れて描く魔法陣と必要な詠唱の記憶を刻んだのと同じ事を、眠ったままのマリオンに仕掛けていた。目を覚ましたときの最悪の状況に備えて。
『私に出来ない事はありません。しかし、一人ではできない準備もあります』
タンジー・ウィルゼマンを探す間にローズたちが深淵の門を開く準備をするのだと思っていた言葉はそうではない。すべては今この瞬間のための準備だ。布石を敷いたローズと魔法陣が発動する仕掛けを施すシトリン。それらを隠し通すために、真向勝負を挑んだかのように見せかけた。グレアには何も伝えずに。
『ボクたちは平気さ。実を言うと全部分かってたから』
大怪我を負ったはずのシャルルが後ろめたく言った事が脳裏をよぎって、思わず笑みが零れる。あれは全部、わかっていて何も言えなかった事への歯痒さから来ていたのだろう、と。だが、それで良かったのだ。
タンジーはずる賢く、勘が鋭い。全員が役者であったなら即座に気付かれたかもしれないが、問題の当事者となって表立つ事になるグレアが何も知らされていなかった事で、追い詰められた演出に彼は騙された。
「こ、小娘どもが、よくも私を……! おおおおぉぉおおおぉぉ……!! シトリン・デッドマン、やはりお前は……だが、思い通りにはさせんぞ、道連れにしてやる、マリオン・ウィンター!」
全身が沈められていくのに抵抗して突き出した手から黒い煙が放たれる。瞬時にマリオンに纏わりついた煙は彼女を縛り上げる縄のようになり、彼がモノを掴む仕草で拳を握り締めて引っ張ると、身体の自由がきかずに倒れ込んでタンジーの元へ引きずられていく。
「うおっ……!? これはやべえ……!」
「駄目だ、マリオン! 君を行かせたりするものか!」
引きずられていくマリオンの両足を掴んで踏ん張ったが、想像以上に強力なタンジーの力を前に時間稼ぎ程度にしかならず、グレアごとずるずる引っ張られた。彼に捕まれば共に深淵に呑み込まれていく事になる。無だけが広がる、何も残らない空間へ引きずり込まれれば全てが終わりだ。
「は、ハハハハハ! どちらも来るか、構わんぞ私は!」
本来、深淵の門が開かれたとき、伸びる無数の手が捉えるのは世界の異物だけだ。悪魔と呼ばれる存在だけを捕まえて虚無へと葬り去る最終手段。だが例外はもちろんある。彼がその手に捕まえてさえいれば、芋づる式に次々と呑み込まれていく。マリオンが沈めば、彼女を掴んだままのグレアも当然の如く道連れにされる。
────せめて、ああ、せめて! あの大悪魔に一矢報いねば気が済まない! ここまで自分を追い詰めてくれた人間共に報復しなくては気が済まない! なんとしてでも、なんとしてでもだ! まさしく心の叫びが手繰り寄せる執念が、タンジー・ウィルゼマンをしぶとく留まらせた。
あと一歩。もう一歩で────。
「終わりにしましょう、ウィルゼマン。ここで詰みです」
引き寄せようとした腕が掴んだのはマリオンではない。間に割って入ってきた誰かの足だ。目を見開いた彼が「あ……」と声を漏らすほど目を白黒させて驚いたのは、そこに立っていたのがシトリンだったからだ。
「夢を見るのはおしまい。……私たちが私たちの居場所へ還る時です」




