第29話「湿っぽいのは柄じゃねえ」
◆
帝都中が騒然とする奇怪な現象。グレアはそれでも振り返らずに走った。何があっても無駄にしてはいけない想いを繋いでもらったら、やるべき事はただひとつ。今はまだ眠っているマリオンを叩き起こす事。それから────。
「はあっ……はあっ……やっと着いた……!」
膝に手をついて息も絶え絶えに自宅の前へ辿り着く。まだ平和なものだ。大聖堂で起きた事から始まって、既に帝都中が騒ぎを知っている程なのに、しんと静まり返った家を見てホッとする。ずぶ濡れのままあがったらきっと怒るだろうな、と思いながら寝室へ向かった。ベッドにはすうすうと穏やかな寝息を立てるマリオンがいる。
「ふふっ。暢気だな、君のために皆命懸けだってのにさ」
青白く輝く魂をマリオンの胸に当てる。ゆっくり沈んでいく。どこか神秘的で、あるべき場所へ帰ったような温かさをグレアは感じていた。
「……起きなよ。よく眠れたかい?」
呼吸のリズムが僅かに変わったのを見逃さずグレアが声を掛ける。
「わりぃ。オレのせいで迷惑かけちまって」
うっらす目を開けて、マリオンが小さな声を僅かに震わせた。
「いいんだ。君だけのせいじゃない、私だって馬鹿だった」
傍に座って、そっとマリオンの手を握った。温かくて、握り返されたときの柔らかさが彼女が生きている事を実感させてくれるのに、グレアは今すぐにでも泣きだしてしまいそうになるのを堪えた。
「今、みんなが頑張ってくれてる。……私のつまらない意地で君の想いなんて気にもしないで偉そうな事言ってごめん。あんな風に言っておきながら簡単に壊れそうになったんだ。皆が傍にいてくれなかったら、きっと諦めてた。でもね、一番の理由は君を助けたかったから。君に傍にいて欲しかった。君が傍にいてくれなきゃ駄目だったんだ。勝手に当たり前だと思ってた事が全然当たり前じゃなくて、なんて言ったらいいのか分からないけど、ずっと謝りたくて、本当に、助けられて良かった」
涙ぐんだ言葉にマリオンがフッと笑って、寝返りを打つ。伸ばした手が瞳から零れ落ちそうな涙を優しく拭った。
「泣くなよ。喧嘩する事くらいあるさ。オレは別に怒ってねえし、お前の気持ちだって分かってるよ。だけど、本当に怖かったんだ。オレだってお前に傍にいて欲しいから……。色んなもん失くしてきちまって、怖かったんだよ」
父親の死を目の当たりにして、誰も信用できなくなったマリオンが大切にしているのは今やグレアだけだ。彼女までも失ってしまったら。そんなリスクがタンジー・ウィルゼマンという男を通じて見えた。危険に対する嗅覚の強いマリオンは、どうしてもそれだけは避けたいと内心で密かに焦っていたのだ。
「話した事なかったけどよ。オレ、もう身内なんて誰も残っちゃいねえんだ。だから……いや、湿っぽいのはやっぱり柄じゃねえな」
がばっとベッドから起き上がって、床にどっしり足をつけて立つ。ぐぐっと伸びをして「んな事より、まずは仕事だ」と気合はバッチリだ。
救世主と呼ぶには程遠くとも、タンジー・ウィルゼマンの悪事を止める事はできる。まだ頑張ってくれている仲間からいるから。
「とにかく行ってみようぜ、何か手伝える事があるかもしれねえ」
「そうだね。ゆっくりしてたら何やってるんだって怒られちゃうかも」
クローゼットからコートを手に取ったマリオンが、グレアに投げ渡す。
「傘は玄関だ、それ以上濡れるのも寒いだろうし着てろ」
「ありがとう。君のおかげで今は心強い────」
笑顔の背後、窓の外に見えた何かにマリオンはぎょっとしてグレアの言葉が入ってこなかった。「あぶねえ!」と咄嗟に彼女を抱いて床に伏せなければ上半身がばらばらになっていたかもしれない。竜巻にでもやられたように窓と壁が吹き飛んで、人間のような形をした獣の姿の何者かが侵入する。
「……間に合わなかったか。どいつもこいつも、私の苦労も知らずに邪魔ばかりしてくれる。もう少しで完全に不老不死が私の手に入ったというのに」
狼のような外見に人間の体を足したような怪物が言葉を発して、それから緩やかにタンジー・ウィルゼマンの姿を取り戻していく。余裕ぶってはいるが、マリオンを失った彼はローズたちの激しい抵抗もあってかなりの消耗に顔色を暗くしていた。
「てめえ……! 他の奴らはどうした!?」
「さあ? しばらくは再起不能なんじゃないかね?」
やれやれと肩を竦めてどうでもよさそうに彼は言う。
「こんな事ならお前たちでなくても良かったが……。ここまで足を運んだのだ、他の連中を完全に始末してやりたいのも堪えて、一旦は土産を持ち帰る程度におさめて満足しておいてやるとしよう。さあ、どちらが私の糧になりたい?」
選ばせてやろうとでも言いたげな言葉に、二人は何も返さない。彼の言葉に従うつもりもなく、どちらかを差し出すくらいなら、自らが犠牲になるくらいなら最後まで抵抗しようという固い決意が瞳に宿っている。
「……返事がないなら適当に選ぶとしよう。どちらでも構わんのだからな」
「いいや、そりゃ無理みてえだぜ。最初から予想できてた話らしい」
首から提げていた魔女から預かった宝石を握り締めて、紐を引き千切って床に叩きつけ、マリオンは不敵に笑う。タンジーなど取るに足らない男。シトリンに比べればずっと大した事のない悪魔に過ぎない、と。
「……ッ!? まさか、やめろ!」
飛び掛かろうとしたタンジーに向かってグレアが咄嗟に体当たりをして転ばせる。待ってましたとばかりにマリオンは口を開く。
「闇行く者の果て、光届かぬ聖地。善悪あらざる魂の炉。蕩けて消える無の国よ、今再び門を開け!────オレたちの勝ちだ、タンジー・ウィルゼマン!」




