第23話「人は間違うものだから」
邸宅の門は開きっぱなしで、玄関の扉も施錠されていない。邸内には、廊下のあちこちでメイドや執事が倒れている。心配はなく、近寄ればすうすうと寝息を立てているのが聞こえた。
「こちらです、グレア様。彼も分かっているはずです」
シトリンに案内されて向かったのは二階の応接室。来るのを待っていたタンジーが、ソファに寝そべって「やあ、また会えましたね」と爽やかな笑みを浮かべながら手で対面のソファを指す。
「どうせ居場所くらいはバレているものだと思っていましたが、こんなにも早く来てくれるとは。少し話でもしましょう、紅茶とクッキーでも」
パチンと指を鳴らせば、テーブルの上で黒い煙がふわっと舞って、ティーポットとカップが現れる。傍には美味しそうな匂いを漂わせるクッキーもある。グレアが警戒すると、彼は「これには何も入ってませんよ」とくすくす笑う。
そんなものを信用できるかと言おうとしたが、隣でよだれをするっと垂らしそうになったシトリンが「じゃあ頂きます」と、なんの躊躇もなく対面に座ってさっそくクッキーに手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと! いいんですか、シトリンさん!」
「何言ってるんですか、何も入ってないと仰ったでしょう」
制止もきかずにバリバリ食べ始めるのをタンジーは可笑しそうにしながらカップに三人分の紅茶を注ぐ。
「実にあなたらしい。それも立場の余裕という奴ですか」
「甘いものに目がないだけです。ところで、」
口端についたくずを指でつまみ、皿に落とす。
「敬語やめてもらえませんか。気持ち悪いですよ、慣れない事して」
「……お前は言動に容赦がないな。嫌いではないが」
紅茶を飲みながら、互いに睨み合った。
「マリオン・ウィンターの魂を返して下さいませんか」
「駄目だよ、もちろん」
想定していた返事だ。驚きもしない。
「マリオン・ウィンターの体を手に入れるためには、彼女の魂と私の魂を馴染ませる必要がある。それをいまさら返すなんて不可能だよ。なにしろもう半分近くまで混ざっているんだ、引き剥がすのは難しいと思うが?」
「……思っていたよりペースが速いですね。何をしたんです?」
彼は首を横に振って、哀れむような視線をカップの紅茶に落とす。
「弱っていたんだよ、魂そのものがね。まるで何かに傷付けられたみたいに」
話を聞いていたグレアが俯く。胸がちくりとした。
「私が行ったのはあくまで精神と肉体の乖離を容易にするために油を差しただけの事。眠った後で引き剥がすつもりだったが、あの小娘が急いで自宅へ戻ったと思うと、さっさと疲れて眠ってしまったから少々干渉はしたがね」
シトリンと同じく夢の中に入り込み、心の弱っているマリオンを唆した。グレアと喧嘩した事を聞き出して、お前は愛されなくなったのだ、二度と彼女は戻らない。ただ何もかも忘れて今は夢の世界で好きに生きればいい。そこでなら自分の望んだものが全て手に入るから、と。
「口車に乗せるのは簡単だった。彼女は私の言葉を信じて、今頃は夢の中のグレア嬢と楽しい時間を過ごしている頃だろうさ。私と混ざり合えば永遠に幸せを見せてやれる。……奪うのは簡単だが与えるのは難しい。突き放したものを取り戻すのは簡単じゃない。今のお前たちに彼女を連れ戻す資格があるのか?」
グレアには答えられなかった。自分から突き放してしまったのだ、都合よく連れ戻して彼女は喜ぶだろうか。一瞬、このままの方が良いのではという考えが頭を過った。
「……人は間違うものです、ウィルゼマン」
クッキーを食べるのをやめてシトリンが言った。
「だからこそ正しくあろうとする。正そうとする。……もちろん、生きているうちに元通りに行かない人たちもいますが、グレア様とマリオン様には無限とも言える時間がある。連れ戻さなければ、その機会さえやってこない。だからこそ私たちは取り戻しに来たんですよ」
立ち上がって服を指でつまみ、クッキーくずを払いながら、冷たい眼差しでタンジーを見下ろす。
「私たち悪魔が最も忌避すべきは嘘を吐く事です。たかが人間如きと言える相手ならば私も目を瞑りましょう。でも……ローズ様のご友人に手を出すというのなら話は別。他人を騙して魅了して、身勝手に奪うというのなら覚悟してもらいます」
普段とは違う、明確に立場を示す態度と声色。何ひとつ興味なさげに緩やかな雰囲気を纏ったシトリン・デッドマンとは異なった、本来の悪魔としての姿。彼女の威圧感に初めてタンジーが引きつった表情を浮かべた。
「は、ハハハ! だとしても私はいまさら引き返すつもりはないぞ、シトリン! 全てを手に入れるためには多少の強引さも必要なのだ!」
「ただの傲慢を偉そうに語らないで下さい。これが同胞とは思いたくない」
彼女は首を横に振ってため息をつく。
「返してもらいましょう、あなたが言うように多少の強引でね」




