第1話「自由な旅へ」
誰もが不思議に感じる話だった。グレア・レンヒルトは公爵家令嬢としての立ち振る舞いを拒み、自由気ままに生きようとして、次期皇帝との婚約にも消極的。誰のために生きるのかと問えば『自分のため』と迷いなく答えた。
お茶会は好きだったし人との付き合いが苦手なわけでもない。だが聞き分けもない。特に家族に対しては耳を傾けたりしなかった。公爵家の血筋がどうだと言われるのが心の底から嫌いで、世界中を旅して周るのが夢。いつでもそんな話を周囲に聞かせていて、ついには婚約を蹴った相手である皇太子の耳に届くようにまでなった。
しかし彼女が責め立てられるようなことは一切なかった。
「本当に行ってしまうのか、グレア。考え直すなら今だぞ」
父親の言葉は命令に近い。高圧的で、まさしく家門のために生きるといった、公爵家当主らしい考え方。グレアとはまるで違う。
「それはすみませんね、家門を守るのが私の幸せじゃないもので。まあ、ご安心ください。旅先で御厄介になるような真似は致しませんから。たとえ死んでも」
「グレア……いや、野暮なことは言うまい」
言っても聞かない娘だとは分かっていたが、ここまで頑なであれば致し方ないと諦める。考え方に違いはあれど決して自分を曲げようとしないのは父親譲りだ。彼もよく理解していて、もう見送るしかできなかった。
「二度と顔を見せるな。それが条件だ」
「わかっています。殿下にはよろしくお伝えください」
嫌われてもいい。自分の人生を豊かにしてくれるわけでもない人々のために、わざわざ時間を使う理由はない。旅行鞄に最低限の着替えを詰め、小さい布袋にぎっちり詰めた金と銀の硬貨を持ち、愛読書の小説を一冊持って長年暮らした屋敷に別れを告げる。
レンヒルト令嬢と呼ばれるのは嫌いだ。特に誰かの役に立ったわけでもないのに、メイドたちが頭を下げてくる理由が分からない。ただレンヒルトの家の子というだけで地位を持つのは、ひどく退屈で傲慢に思えた。
もっと誰かの役に立ちたい。そのうえで人々に敬われるのなら納得もいく。そして輪を広げ、自由な生き方をする。楽な方法なんてものはないと覚悟を決めて、あまり目立たないように男装をして駅を目指しながら町を歩いた。
町の景色は見慣れたもののはずだが、これから離れようと思うと新鮮に感じられる。行き交う人々の服装も、表情も、まるで遠い場所にあるのを眺めているかの不思議な感覚。足取りは軽く、心は躍る。ついに自由だ、と。
ふと良い香りがして足を止めた。町のパン屋は気さくで人々の生活の中心にある。朝食は決まってベーグルに目玉焼きと、ちょっとだけ分厚いベーコンで贅沢に。屋敷ではもっと良い料理が並んだが、だからといって興味が湧かないはずもなく彼女はふらふら足を運ぶ。
「いらっしゃいませ、何に致しますか?」
「え。あぁ……ベーグルのチキンサンドとコーヒーを」
「ご用意しますので少々お待ちくださいね」
のんびり待って香りを楽しむ。しばらく待って出来上がったチキンサンドとコーヒーを受け取り、銀貨を一枚渡して食べながら歩く。駅までそう遠くなかったおかげか、列車が来るまでをベンチに座って過ごす。
(うーん、楽しい。まだ出発すらしてないのに、ものを食べながら歩くなんて以前なら考えられもしなかったんだけど悪くないね)
撫でるような優しい風に真っ黒い髪が仄かに揺れる。葡萄色の瞳が遠くから汽笛を鳴らしてやってくる列車を見つけて、彼女は嬉しそうに口端をあげた。とうとう旅が始まるのだ。誰の指図もない、自由気ままな旅が。
「足下にお気を付けください。どうぞ」
切符を受け取り、代金を支払って乗り込む。適当に空いている席を見つけて窓際に腰掛け、数分経ってからゆっくり動き出した列車の揺れに密かな期待を寄せて景色を眺めた。
ヴァルゴナ帝国の都市は大きく、レンヒルト公爵家も遠く離れてみれば屋敷など小さくてどこにあるかもはっきり分からない。大体どのあたりにあるのだろうと認識できるだけ。興味を失くせば未練も感じない。ただひとつ言えるのは、とても栄えていて整った街並みの美しさには名残惜しく惹かれるものがあった。
「失礼。前の席、いいかい?」
声を掛けられて見上げる。一本に束ねた青藍の長い髪が馬の尾のように揺れた。グレアを見つめる向日葵もかくやの明るい瞳がやんわりとした温かさを醸す。
「構いませんよ。ああ、鞄を退けましょうか」
他に席も空いていたし、誰も座らないと思って対面の座席に大きな鞄を置いてしまっていた。少し急いで避けると女性は「ありがとう」と礼を言ってどっかり腰掛けて足を組む。
「……煙草、吸っても?」
女性は口に煙草を咥えている。火はついておらず、ベルトで締めているぶかぶかのパンツのポケットからマッチを取り出してグレアにみせた。改めてよくみれば、少しくたびれたフリルシャツに少し眺めのブーツを履いている姿が凛とした顔立ちに似合っていて、どこか海賊的な雰囲気を持たせている特徴的な風貌だった。
列車内で煙草を吸うのは帝国内ではよくあることだった。とくに人の少ない列車では火災の危険がどうといった意識など持ち合わせていない者が多い。
グレアはそういった危機感の無さを嫌っていたが、旅の始めにわざわざ誰かと喧嘩をすることもないだろうと「お好きなように」、渋々そうやって返事をした。窓を開けて顔に煤がつくほうが嫌だったからだ。
「なんだ、嫌なら素直に言ってくれればいいのに」
女性はマッチを戻し、咥えていた煙草も折ってポケットに捻じ込んだ。それほど嫌な顔は浮かべなかったつもりだが気付かれてしまったらしい。
「気を悪くしたのでしたら謝ります」
「いやあ、オレは正直者のほうが好きって話さ」
決してグレアを悪く思ったわけではない。彼女が嫌がるのにも理由があるのだから、わざわざ自分本位に考えることはしないと女性は言った。
「自己紹介してなかったな。マリオン・ウィンターだ、よろしく」