批判と、誹謗中傷の違い
批判は良いけど、誹謗中傷はだめ。
そんな意見を見るたびに、馬鹿らしいことを言っていると思う。
批判とは、良いところと悪いところを見分けて、判定することだ。
悪いことだけ探して指摘をするのは、批判ではない。
つまり「誹謗中傷はだめ」と一概に否定している時点で、それは批判ではない。誹謗中傷に対する、誹謗中傷だ。
批判というのなら、誹謗中傷の「良いところ」も探さなくてはいけない。
誹謗中傷の良いところって、なんだろう。
まず第一に、誹謗中傷のない世の中を考えてみる。
みんな、相手を傷つけるようなことは口にせず、一見平和な世の中だ。
思ったこと。言葉にできない不快感。理由を説明できないが間違っていると思ったこと。
そういうことは、口にしない。万人が万人に対してごまをする世界。
個人ではなく、集団によって統治される独裁政治。
口の上手いやつだけが生き残り、口下手が駆逐される世界。
少なくとも私は、そういう世界で暮らしたいとは思わない。
「面白かったです」という感想しか来ない世界になった瞬間に「面白かったです」の言葉は無力になる。
「つまらない」「もう書くな」「止めちまえ」「チンパンジーでも、もっと面白いものが書ける」
そんなゴミカスみたいな感想の中に「私は面白いと思いました」が混ざっているから、うれしいわけであって。
悲しい気持ちになる。
その気持ちはよくわかります。でもさ、それって心が弱いから悲しいんじゃないの?
私たちは、あなたの承認欲求を満たすための道具じゃないんだよ。
あなたに人格があるように、私たちにも人格がある。
あなたの言葉を否定する人がいたとして、それにいちいち絶望するのは、それは「どうしてみんな、私に共感してくれないの」と言っているのと同じ。
自己中心的が、過ぎると思う。何事もやり過ぎは良くない。
と、まあこんな感じかな。
じゃあ次に、誹謗中傷の悪いところを考えてみよう。
誹謗中傷の何が悪いかっていうと、基本的に「中傷」つまり「傷つける」ということだと思う。
「私はつまらないと思いました」
これだけなら、ただの無能な感想だ。こちらとしても「あ、そうですか」で済む。
でもこれが
「こんなつまらない作品を書く作者は、馬鹿」
となると、話が変わる。明らかに「攻撃」の意図がある。
ハンムラビ法典にも「殴られたら殴り返せ」って書いてある。多分これが、あまり良くないことだと思う。
結局のところその否定が誹謗中傷になるかは、相手を傷つけたかどうかで決まる。
逆に言うと、直接攻撃をしなくても、それは誹謗中傷につながる可能性がある。
例えば、みんなの目に留まるような場所に「この作品はつまらない」と書く。
その文字列を見た多くの人は「へえそうなのか」と考える。
つまり、意図してその作品の評判を下げてるわけで、明らかに攻撃の意思がある。
だからある意味で、これも誹謗中傷と言って良いのだろう。
誹謗中傷の何が悪いのか。という話に戻ろう。
要するに、大半の誹謗中傷は「必要のない攻撃」であることが多いのだ。
道を歩いていたら、向かってくる人が「なんとなくむかついた」から殴った。
みたいな感じ。
別に迷惑をかけられたわけでもない。
歩いていたら、一方的に泥をかけられた。あなたは怒っても良い。悪いのは、明らかに泥をかけてきた側です。
あなたには、抗議をする権利がある。
さて。
この順番で並べられると、親近効果が働いて、誹謗中傷に否定的な意見に聞こえたかも知れませんが、私としては「どっちでも良い(というか興味ない)」という立ち位置です。
ディベートだったら、どちら側に立っても戦える自信があります。(勝てるかどうかは知らんけど)
でも一言、何も考えず「誹謗中傷は悪だ!」と叫んでいる人たちを見ると、やはりどうしても言いたくなることが。
「お前ら、考える頭を持っていないのか?」
まあこれも、誹謗中傷になるので口には出しませんが。
後書きを、本当に後になってから書くのは初めてなのですが……
半日ぐらいたって、冷静になって読み返してみました。
うん。なんか変なことを書いてるなっていう自覚はあります。
私個人の考えをまとめると
「誹謗中傷は悪いことじゃないのでは?」
ということになります。
今回のエッセイではちょっと無理のある理屈で書いてあったけど、考え直してみてもやっぱり
「批判も誹謗中傷も同じようなもの」
という考えは、変わりませんでした。
だから「批判はいいけど誹謗中傷はダメ」というのは、詭弁でしかないな。と。
むしろ個人的には、あれがダメ、これがダメと、細かくいってくる人のほうが嫌い。
根拠の有無とか、感情的とか、そういうのは個人の問題だし、そういうのができる人とできない人もいる。
能力の高い人を基準にすると、社会的に死ぬ人が出てくるんじゃないでしょうか。
なんて、思いました。