第7話 不要な愚物
「おお、これがウンディーネ。さすがは、水の妖精。美しいじゃないか」
歓喜の笑みを浮かべる男。
シルフィを囲む人間たちの中から一歩前に出た彼は、他の人間たちと違って重武装ではない。
一人だけ装いが違うことから、この集団のリーダーは彼であることが分かる。
その名は、パインと言った。
「ジロジロ見ないでくれますか。不快です」
「これは申し訳ない。しかし、私たちもウンディーネを見るのは初めてなもので」
にこやかに笑うパイン。
しかし、彼の目はシルフィのことを、同等の存在ではなく、無機質な何か……商品を見るような目で見ていた。
それを敏感に悟るシルフィは、眉を顰める。
「私は人間を見るのは久しぶりであってもよく見てきたので、目新しさもないですね。さっさと消えてくれますか?」
パインだけならまだしも、大勢の武装した人間たちと共に押し寄せる。
穏やかな理由でないことは明白である。
シルフィの言葉にとげとげしさが宿るのも当然だろう。
「随分ととげとげしい。やはり、先の大戦で我々人類に敗北したことを引きずっているのですかな?」
「いえ、別に。私はそれほど魔族全体に奉公しようなんてことは思っていませんでしたし、魔王に忠誠心もありません。ですが……」
正直に言って、シルフィにとって人魔大戦の勝敗なんてどうでもよかった。
もちろん、彼女は魔族に属するのだから、人間が世界の支配者になるのはあまりいいこととは言えない。
しかし、だからと言って魔族が……魔王軍が大きな顔をするようになるのも、彼女としては煩わしかった。
魔王に盲目的に仕えることもせず、距離をとっていた彼女。
それでも、最終的に彼女が魔王軍に与した理由は、一つしかない。
「あの人を殺した人類を、好きになれるはずもありません」
あの男がいたからこそ、シルフィは魔王軍に……いや、彼の下に付いたのだ。
彼がいなければ、おそらくあの大戦にも参戦することはなかっただろう。
「……? 何のことをおっしゃっているか。先の大戦にあなたも参戦していたようですが……まさか、ヘルヘイムの戦いにも?」
パインの目が驚愕に見開かれる。
それに対し、シルフィは表情を変えない。
「それが何か?」
「お、おお……それは凄い! あの最も熾烈な戦いを生き延びた魔族と、こうして出会えるとは!」
驚きの声を漏らすのも当然だ。
ヘルヘイムの戦い。
第四次人魔大戦の最終局面に勃発した、最も熾烈で苛烈な局地戦闘である。
規模の大きさで言えば、レミア会戦などもある。
数十万と数十万の軍勢がぶつかり合った戦いだ。
一方で、ヘルヘイムの戦いは、人類の数は非常に多かったが、魔王軍は数千人規模である。
こちらも大きな戦いだが、上記のレミア会戦よりは劣る。
それでも、知名度という意味、そして第四次人魔大戦の勝敗を決めたという意味では、ヘルヘイムの戦いの方がはるかに大きかった。
「あの戦いで、第四次人魔大戦の趨勢が決定づけられた。そう、あの者の死によって、人類はようやく支配者としてしかるべき地位に上り詰めたのです」
パインは興奮のままに、その名を口にする。
あの戦争が終結してから千年。
それでもなお、人類は史上最悪の大罪人として、名を残している。
「あの人類最悪の裏切り者、ラモン・マークナイトの死によって」
「…………」
シルフィがピクリと肩を跳ねさせるも、パインはまったく気づいていない。
ラモン・マークナイト。
人間であるのにもかかわらず、魔王軍に与し、あまつさえ人類に多大な被害を与えた忌むべき存在。
そのヘルヘイムの戦いでの魔王軍最高指揮官であり、その戦いで【戦死したとされている】男である。
「人類を裏切り、魔王軍最高指揮官にまで上り詰めた、恐るべき化け物。同じ人間とは思えません。私では、とてもじゃないができないことでしょう。本来なら、その力で魔族を撃滅するべきだったのに……そう考えると、死んで当然の男だったのでしょうなあ」
ラモンの為したことは、人類にとってとてつもなく不利益なことだが、しかし彼のキャリアは輝かしいものだろう。
今、人類が魔族を軽視して蔑視しているように、逆もしかり。
魔族は人類を下に見ている。
そんな中で、自分たちの上に人間が立ち、それに従うようになるなんてことは、本来だとありえないことだ。
もちろん、腹にいろいろな考えを抱えていた者も多くいただろう。
だが、少なくともヘルヘイムの戦いは、その戦闘の前に【絶対に負ける戦いである】という理由から、ラモンは志願者のみ参戦させたという。
死地に赴くと分かっていながらも彼の背中についていった魔族たちは、彼を人間と侮り下に見ることはなかったのだろう。
そのカリスマ性は素晴らしいものだが、一人間としては、彼の存在はあまりにも悍ましい。
だからこその、パインの言葉である。
しかし、それは最後まで彼の背中についていき、そして生き残ったシルフィの前では、決して言ってはいけない言葉だった。
「ああ、ダメね……」
「はい?」
「あの人は報復を望まない。そう思っていたから、私は彼を失ってからも、人類に復讐することなく、ひっそりと隠れて暮らしていたのだけれど」
「ええ。ですが、あなたがガキを一人助けたことによって、その隠れた湖も露見しました。愚かですねぇ。もともと、ウンディーネがいるであろうと推測していたので、すぐに動かすことができましたが。もしそのようなことをしなければ、まだしばらくは安寧の生活を送ることができたはずなのに」
ウンディーネがいるという噂は、ずっとあった。
数十年同じ場所にいれば、確固とした証拠がなくとも、噂程度なら広まる可能性もあるだろう。
ウンディーネは等しく見目麗しい。
しかも、ウンディーネの涙と呼ばれる液体は、まさしく人智を超えた効果を発揮するとされている。
これらのことから、ウンディーネの価値というのは非常に高いのだ。
希少性も相まって、噂程度でも領内に存在しているとするならば、捜索しないはずがなかった。
「そんなこと、どうでもいいわね」
小さく呟くシルフィ。
ああ、そうだ。
どうして自分の居場所が悟られたかなんて、どうでもいいことだ。
問題は、目の前の男が言ったこと。
「人類に対する怒りがなかったわけではないわ。それを押し隠して、ひっそりと生きてきた。あの人が作った、歪とはいえ平和な世界を崩したくなかったから」
「……先ほどから、ブツブツと何を言っているのです?」
怪訝そうに眉を歪めるパイン。
会話が成り立っていない。
シルフィは独り言をつぶやいている。
絶望的な状況で、頭がおかしくなったのか?
……いや、違う。
「ああ、でもやっぱり……」
シルフィの目が、鈍く光った。
「――――――人類は、不要な愚物です」
ドン! と音が鳴る。
それは、大気が悲鳴を上げた音。
強烈な衝撃に、空間が耐えられなかった。
直後、重厚な鎧を身にまとった人間たちが、宙を飛んだ。
高い。あまりにも高い。
木々をも超える高さまで打ち上げられ……そして、受け身を取ることすらできずに地面に叩きつけられる。
強固な鎧をまとっているからといって、その衝撃までは吸収しきれない。
彼らはうめき声をあげて、地面をのたうち回る。
「……は?」
呆然と振り返るのはパインだ。
彼だけ……そう、彼だけ無事だった。
宙に打ち上げられることも、地面に叩きつけられることもなかった。
だから、無傷。
よかった。運が良かった。
……そんなはずがない。
攻撃が当たらなかったわけではない。
わざと、外されたのだ。
「愚物。ウンディーネを相手に、水のある場所で余裕ぶるとは自殺行為にほかなりません。自殺なら勝手に他所でしてほしいものですが、今私は気分が非常に悪いので、お手伝いして差し上げます」
うねうねと、湖の水が意思を持つように蠢く。
先ほどの衝撃は、この水を使っていたものか、とパインは冷静な部分で納得する。
パラパラと小雨が降ってくるのは、その名残だろう。
しかし、それが自分に向けられている。
深水のように冷たい殺気をぶつけられ、パインは大量の汗を噴き出させる。
あんな攻撃をまともに受ければ、自分の身体はバラバラになりかねない。
「ま、待て……!」
「待ちません」
慌てて背を向けて逃げ出すパイン。
もちろん、シルフィがそれを見逃すはずも、また彼のことを侮辱されて許すはずもなく、水を操って彼の背中を撃とうとして……。
「こ、こいつを見ろ! 本当に私を殺していいのか!? 巻き添えになるぞ!」
「お、お姉ちゃん……」
パインは、逃げたわけではなかった。
無理やり引きずってきたのは、少し前にシルフィが街に返してやった子供だった。
涙を目に浮かべながら、助けを求めてくる。
「……人質ですか。何とも安直なことです」
「だが、効果がある。だからこそ、古くから使われてきた手法なんですよ」
とてもおかしな光景だ。
人間が人間を人質にとり、魔族を脅している。
人魔大戦のころなら、考えられない光景。
ほとんどの魔族にとって、この人質は効果を為さないだろう。
憎い人類の子供の命なんて、知ったことではない。
しかし、このウンディーネは自分の居場所が露見することも考慮しつつ、子供を助けた。
効果はあると見込み、パインは念のために連れてきていたのだった。
「さて、このガキを傷つけたくないのであれば、大人しくしてもらいましょうか」
「……はあ」
一つため息。
ああ、こういう人質作戦は、割とよくあることだ。
千年も生きているシルフィからすると、使い古された作戦だということができるだろう。
だが、パインの言う通り、効果があるからこそ現代でも使われる常套手段なのである。
しかし、彼は大きな勘違いをしているようだ。
「さんざんにやってくれましたね。それはもう、本当に……! 領主様に何といえばいいかわかりませんよ。ウンディーネとして、我ら人類に奉仕してもらうしかありませんねぇ」
「困りましたね」
率直に自分の意見を口に出す。
なにも取り繕うことはない。
それを聞いて、パインは狂喜の笑みを浮かべる。
「そうでしょう、そうでしょう! しょせんは魔族! 人類に屈服する悍ましい種族でしかないのです。無駄に抵抗せず、大人しくしていれば、余計な苦痛は与えませ――――――!」
「いえ、困ったのは、あなたの馬鹿さ加減です。彼よりひどいのではありませんか? いえ、あの人と比べるのは、さすがにおかしすぎますね」
さらりとラモンをディスりつつ、シルフィはパインの言葉を遮る。
聞くに値しない雑音だ。
「……は? 何を言って……」
ポカンと口を開けるパイン。
絶望していたのではなかったのか?
打つ手がなかったのではないのか?
そんな彼に呆れたような嘆息をし、湖の水をギュルリと集束させる。
「私はヘルヘイムの戦いで、あの【赤鬼】の下で戦ったウンディーネです。その子供を害する隙も与えず、あなただけを仕留めることなんて、容易です」
次の瞬間、子供を盾にするパインの顔面に、強烈な水のレーザーが直撃するのであった。