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迎え

「ん……」


 少女は冷たさに目を開けた。

というか他人と同じ寝具で眠るなんて初めての体験な割に、眠れたもんだなということに驚いた。走り回って躓いて倒れて、普段使わない筋肉を使って疲れていたのだろうと自分を納得させる。

 寝起きはいい方だ。目ヤニをさりげなくぬぐって、一体何が冷たいんだろうと状況を確認すべく腕で上体を起こせば、蒼白な顔をした青年が布団の上で正座していた。


「ん? おはよう」


 ……返事がない。

 冷たいであって、寒いではない。起きたのは掛け布団がなくなったからではない。

 鼻につくにおいがした。


「お――お父さん」

「……あー」


 原因を把握したので、余裕が生まれる。

 天気どう? と青年に訊ねる。

 天気? とこわごわ返ってくる。


「晴れて……る」

「台風一過か。じゃあ外で干せば乾くでしょう」


 え、と青年が言う。「ドライヤーがあるならもっと短時間で乾くだろうけど」ドライヤーなど、この小屋にそんなものあるはずがない。

 あったら昨晩出しているだろうし、そうじゃなかったらカセットコンロの直火で乾かせようとする意味がわからない。


「怒らないの?」

「怒るわけないでしょう。ここはお前の家で、それはお前の布団なんだから。あたしはただ一晩厄介になっただけの人間よ。何を怒ることがあるっての」

「おとうさあああん」


 急に大きな図体で抱きつかれたほうがよっぽど迷惑だった。他人の体温を忌避して生活してきたのだから本当にたまらない。やめてまじで、まじで。と二度繰り返してようやく青年が離れた。


「おれ漏らして怒られなかったのはじめてだ」

「雨の日はちょっと大変だけど、夜尿症にはいろんな原因がある。あんまり考えすぎると悪化するぞ」


 青年が、じわじわ、水彩絵の具が濡らした画用紙に広がるような速度で笑った。


「お父さん今日も一緒に寝ようよ」

「お前が車椅子って切り札握ってる限りあたしどうしようもないのよお?」

「えへへへ」

「なんで笑うのかわからないよお。ね、起きるの手伝ってくれる」

「うん。ご飯食べてて。干してくるね」


 テーブルがない家だったので、壁にもたれかかり、ふとももを机代わりにして菓子パンを食べた。コップもなくて、二リットルの水がそのままペットボトルごと渡された。

 喫茶店で働いているということだったが――ホールかキッチンか、あるいはその両方をしているのかもしれないが、発想を持たなものだろうかと思う。食を楽しもうという発想。

 別に客を想定せずとも、一人ででも手間はかけられる。かけた手間は習慣になり、愛着になる。

 なんとなく青年の性格の一端が見えた気がした。少女は菓子パンの袋をビニール袋に入れ、袋を閉じた。

 この家にはゴミ箱もない。回収車も来ないだろうし、どうやってゴミを捨てているのやら。


「お父さん何やってるの? 体操?」

「おう、おかえり」


 壁にもたれたまま、右足を両腕に抱えて、右に左にとテンポよく倒していく少女を、青年は不思議そうに見ていた。


「ん、まあどんだけこうやってても足が動くわけないんだけどね? 同じ体勢のままだと血流が悪くなるから、一日に何回かこうやって動かすんだ。本当は二人でやるもんなんだけど」

「おれ、やろうか?」

「……えーと」

「わかんないけど、やり方、教えてくれたら多分できるから。ね?」


 ちゃんとした介護士が見たら食後にやるんじゃないと怒りそうだと思いながら、しかし誰も止める人間はいなかったので、青年に任せることにした。足関節、膝、股関節。ワンセット大体二十秒から三十秒で、呼吸ができる程度、強すぎないように。


「お父さんはなんで脚、動かないの? 生まれつき?」

「んーん。事故」

「そっかあ」


 痛かったね、と膝小僧を撫でられ、いろんな拒絶の言葉や、青年を傷つける言葉が浮かんだが、どれも口にせず結局「うん」とだけ答えた。

 成長途上の肢体と声変わりの低音さえ気にしなければ、本当に年下の子ども――流石に実子と接したことはないのでそれにはたとえられない――のような相手だった。

 怒るだけ無駄というか、怒る対象ではない。

 怒りは正しく伝わらなくては意味がない。


「うん、十分」

「わはっ。おれこれは得意」

「大したもんだねえ」

「お父さんはおれをすぐ褒めてくれる。照れるなあ」

「嘘つけお前。燃費良すぎでしょ」

「ほんとだって。こんなにうれしいのは久しぶりなんだ」


 得意だなんておもねったところで、毎日やるとなったら嫌になるもんなんだよ。

 そういうもんだよ。それが義務や仕事でもない限りはさ。

 内心だけでつぶやきながら少女は、フラットに立ち上がった青年を見上げる。


「ヌードモデルやってるんだっけ。立派な体ね」

「山で暮らしてるとみんなこうなるよ」

「そ、そう……? あー、いや。あのさ。格闘技とかやってるの……?」

「いいや?」

「ふうん……」


 少女がそう嘆息、するかしないかのタイミングだった。

 コンコン、と。

 ノックの音がした。

 少女の目からも、青年が警戒態勢に入ったのがわかった。きっと普段、この家に来客は来ないのだ。

 規則正しいノックのはざまに、のんびりとした男の声がした。


「お迎えにあがりました、鶴子さん」

「ねえ」


 少女は青年の、張り詰めた背中をつついた。


「開けて。ドア」

「お父さん……」

「言うこと、聞いて?」


 その方が平和的に終わるから、と重ねる前に、青年が玄関に向かった。

 嵐が終わった朝。

 そこには、日光を浴びる男が立っていた。

 新しい車椅子とともに、つやつやとした顔で立っていた。


「誰だお前」


 青年の声は、警戒を通り越して殺意を持っていた。

 青年は知らないだろうが、少女は知っていた。

 そいつは、百八十を超える身長に趣味の筋トレで付けた筋肉がのって、蔑称のつもりでゴリラと呼べば尊称と受け止めて照れるような、おかしい男なのだった。

 金色に脱色してテキトーにひとつくくりにした髪、切れ長の一重まぶたがいかにも昔やんちゃしてましたといった風情を漂わせているが、その実「わたしテレビでよく出る『昔はワルかったけど今は丸くなったんですよへへへ』とかいう人種が大嫌いなんですよね。『いい子ちゃんごっこするの疲れたー』とか言う女も全員殴りたいです」と極端な倫理観を持った人間であることを知っている。

男が、真面目に高校に通う傍ら自動車免許を取り、卒業したのちにある富豪の専属運転手として就職したことを、青年は知らなくとも、少女は知っている。

 青年のことは何も知らないが、その男のことは、少女は知っていたのだ。


「島原」


 島原と、ごく簡単な口調で呼んで、「遅くないか?」と間髪入れずに問う。

 少女。

 青年。

 男。

 三人が一堂に会した。

 島原は青年を無視して家に押し入り、土足厳禁の部屋にどんと、抱えていた車椅子を置いた。

 そして青年の制止と実力行使を物理的に無視して、少女を抱きかかえ、そこに乗せた。


「鶴子さま、ご無事で何よりです」


 男が恭しく頭を下げた。


「おっせーぞ、島原」


 少女はその頭を平手ではたいた。滑るように男の斜め右側前方に車椅子で乗り付けた少女も、長身を折り曲げ頭を少女の叩きやすい位置に持っていく男も、何もかもが自然な動作だった。

 こういうやりとりをもう何年もやってきたんだろうな、と。

 人心に疎い青年でさえ、そう感じるほどに。


「GPSくらいつけてんだろ知ってんだよ」

「いやいやそんな……鶴子さまが現役のころはともかく、隠居されるにあたってまでそんなものつける理由なんかないでしょう。ハハ、自意識過剰でらっしゃる」

「いーやお前なら、むしろあたしが寝てる隙に体内に埋め込んでるっつってもいまさら驚かないとも。ジッサイ、所在地そのほか諸々把握したうえで少女と青年の一晩のアバンチュールとか、思ってわざと泳がしてただろお前」

「いやいやこれはこれはハハ」


 少女は鼻を鳴らす。


「で? 警察には?」

「はい。お嬢様、おっと失礼、元お嬢様がこちらにくるのは当日の三日後に変更していた、それを知らなかった犯行グループが嵐に合わせて別荘に強盗に入ったのだと言いくるめました。善良な小市民なので公的機関に嘘を吐くのがわたし、心苦しくて心苦しくて」

「……まあいい。この脚で警察署はごめんだ」

「健常者でも嫌ですけどねえ警察署は。意気揚々と行くのはコナン君くらいじゃないですか?」

「それで、何か言うことはないの?」

「はい、ご無事で何よりです鶴子さん。まあ混乱に乗じてそのまま失踪くらいはするんじゃないかなと思ってましたが、ここ直線距離にすると別荘から五百メートルくらいですよ。家出にしては近いですね」

「お前は知らなかったかな!? おれ車椅子でな! あの日は嵐でな! 土地勘もなかったんだなこれが!」


 お父さんが怒った……と、本来、少女と島原の間に入るはずのない、二人のちょうど真ん中くらいの年齢の青年が口をはさんだ。

 青年はどうやら、突然現れた割に鶴子と気安い軽口の応酬をする島原を警戒しているようだ。体全体に力が入っていて、かばうように鶴子の前に出た。


「お父さん、この人だれ?」

「ん? ああ怖いおじさん」


 一瞬にして青年の警戒度が増した。

 島原は、まるではじめて青年に気づいたかのようなそぶりで、「わたしはまだ二十代ですが……」といいながら襟元を正すようなジェスチャーをした。完全におちょくっている。

 少女は聞かないといけなかったが、島原なら、青年が格闘技をたしなんでいるかそうでないかなど、一目でわかる。青年とは対照的に、彼に何の警戒心も持っていない


「申し遅れました。私めは島原。ここにいらっしゃる――」


 再び恭しいしぐさで、島原が少女を指す。


「宗教団体ハルバル教で、かつて『聖女』と祭り上げられていた春藤鶴子さまの、お世話係のようなものです」


 青年の青い目が見開かれた。青い目で、少女を見た。

 しかし、どんな目で見たって少女が少女なことに変わりはない。少女の過去だって、何一つ変わらないのだ。


 そんな目で見られたところで。




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