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「お父さん」

 作者が死んでも放映されるアニメを国民的アニメと呼ぶのかな?


 ドラえもん、クレヨンしんちゃんを立て続けに見つめながら、少女はそんなことを思った。

 野原しんのすけは自分と同じ五歳で、作者はどういう気持ちでその年齢を設定したのだろうと思いを馳せる。この物語の中ではしんのすけは、親に扶養されている傍ら、幼稚園の同級生たちと遊び、女子大生に懸想し、シニカルに大人をからかう。

 そうなのだ。五歳って、もう割と何でもできる年なのだ。

 少女自身、実感として、去年よりも昨日よりも自分という認識をはっきり感じることができる。大人だと言い張るつもりはないが、大人が思っているより子どもでもない。両親は、特に母は少女のことを、まだまだ子どもの枠に収めたがっているけれど、日ごとにその縛りが窮屈に感じられる。


「おねえちゃん、見てえ」


 ――こいつにもあるのだろうかしら、そういう、「自負」が。


 一歳下の妹は幾分か舌っ足らずで、去年の四歳だった自分よりも幼く感じられる。知能テストも当時の少年の平均を超えていないそうだ。英会話、柔道、スイミング、そろばん、バイオリンよりも、画用紙にクレヨンで絵を描く方がよっぽど楽しいらしい。

 先がとがっているのが危ないから、色鉛筆もまだ使えない妹。

 小さな手が握った画用紙を受け取る。


「陽菜は絵がうまい」


 これは本当。見たままをそのままトレースする、少女の教師譲りの画法よりよっぽど味があって、パースも色使いもめちゃくちゃなのに何故か目を惹く。


「あたし漫画家なるのよ」

「なれるなれる。それで国民的アニメ目指したらいい」

「国民的アニメ」

「陽菜が生きた証を残すの」

「意味わかんない! 陽菜生きてるもーん」

 姉の言うことを理解できないという顔で拗ねてそっぽを向いた妹の顔を、時間と共に成長したであろうあの子の顔を、少女はここ数年一度も見ずに過ごしていた。

 いや。

 九年だ。


   ◆


 せき込んで、目を開ける。う、と声が漏れた。

 土というか、泥の味は久しぶりだった。

 雨にゆるんだ土壌が車椅子をからめとり、速度を出していたこともあって呆気なくこけた。

 打ち付けられた左半身、衣服はもちろん髪から眼鏡、靴の中にまで泥がしみこむ。あちこち擦り傷や打撲はしたようだが捻挫以上の負傷がなさそうなのが幸いだった。


 車椅子の人間が、捻挫の有無で状況が好転するかどうかはともかくとして。


 いま、何時だ。

 腕時計をしなくなったのはもうずいぶん昔のことだが、慣れない山の中で何かよすがになるものが欲しかった。

 木々はすっかり色を暗くし、風雨にしなって清涼さよりも原初の恐怖心が勝る。土砂崩れの心配も少ししている。

 こういう時に携帯端末があれば便利なのだろうと思う。最近の機種だと山中でも電波が通じると小耳にはさんだ。そんなもの、あたしが所持して一体誰が得をすると鼻で笑った過去の自分に、未来、台風が迫る山でにっちもさっちもいかなくなったお前が必要とするのだと言い聞かせたい。

 傘も持たず、九年間回し続けたブランドの車椅子を雨に邪魔されながら操って、薄暗い山道を走った。まったく現在地がわからない。

 遭難したのか、と独り言ちる。誰にも返事されない言葉は空虚にすうっと消えた。

 ここには何もない。

 肉親がいない、帰るべき家も目標もない。

 最後に妹を見たのはいつぶりだろう。つかの間、気を失っていたらしい。

 腕二本で上体を起こし、真っ先に眼鏡を……比較的汚れの少ない肌着代わりの半袖で拭く。

 かけなおした眼鏡は乾いた泥で白っぽい筋が入っていたが、すぐに雨に打たれて流れた。舌打ちをして、ようやく口の中の泥を吐いた。


 雨空が光って、人影に気づいた。


 半拍遅れて雷の音が聞こえたが、少女は人影を見た。見上げた。「島原か?」

 もう一度、空間が光った。


「――……」


 合羽姿の青年だった。木の根が張り比較的泥に足を取られにくいところから少女を見下ろしていた。

 弱まる気配のない雨脚に打たれる眼鏡でも、青年の顔が整っていることはわかった。不意に青年が近づいてきたからだ。迷う気配のない健脚はまっすぐに少女に向いていた。

 車椅子が近くに転がっている。起こしてくれるのかと期待したが青年はそっちには見向きもしなかった。

少女の目をじっと見ていたから、少女もまた青年の目を見ることになった。

 感情が読み取れなかった。

 人の顔色をうかがうことには長けている自負がある。相手の言葉の裏を読むことも。青年の青い目は嗜虐性も同情心もなく、かといって無関心なものを見ているわけでもない。

 お前は誰だ? と聞いて、まったく同じ質問を返されると、少しだけ面倒くさい。


 だってこの状況、殺人鬼みたいだろこいつ。

 嵐の夜の殺人鬼。

 迂闊なこと言ったら殺されるんじゃねえの? 

 知らない人間と見つめあう。

 この場合、沈黙は無駄だ。


「――助けてちょうだい」

「いいよ」


 間髪入れずに返ってきたのは、かすれ気味の低音だった。「足が動かないから、車椅子を起こして、それにのせて。あとで謝礼はする」即答で助力すると明言されたのが不気味で、少し早口で状況を説明し車椅子を指す。少女のすぐわきを通り過ぎていった青年により、呆気なく車椅子は復活した。


「お父さんは、歩けねえの?」


 電動車椅子の勝手はよくわかっていない風だったが、のせてくれるだけでいいという少女の指示に従って青年は抱えた少女をゆっくりおろした。

 壊れていなかったことを確認して、少し安心した隙間を縫うようなテンポで青年が言ったので、歩けねえの? よりも痛烈な部分に対する反応が遅れた。


「……誰って?」

「お父さん」

「あたしが?」


 少女は名乗っていないし、仮に青年が少女の本名を知っていたとしてどうこねくりまわしても「お」「と」「う」「さ」「ん」の言葉は出てこない。

 というか、二回聞いたが、ニュアンスがどうもやっぱり父親の呼称だった。


「誰の」

「おれの」

「おまえ……の、おかあさん……」

「いやお父さん」

「あたしが?」

「そうだよ?」


 そうだよじゃねえんだわ。

 そんなわけがねえんだわ。


「あた、あたしは……」


 お前とは初対面だ。

 十四歳だ。

 お前みたいな青い目はしていない……。

 そんな風に少女はいくらでも、謎の呼称を否定する言葉を持っていたのだが、うっかり。


「精巣はないし、こないだから子宮もない……」


 少女の現在の環境を決定した原因を、口走っていた。






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