第3話
「紗耶、おはよう」
うとうとしていたらしい。
携帯の着信音ではっと目が覚めた。
私が返信する前に続けてメールが入る。
「これから無菌室に入るよ。携帯、大事に持っていくから」
私は「ずっとついてる。心はちゃんとあなたの傍に」と短く返信を送った。
それに対する返信は少し時間が経ってから入った。
無菌室に入って落ち着いたときのことだ。
昨夜の醜態に対しての「ごめんね」と。
けれど、しばらくしてからまた彼の我がままな言葉が続く。
「まだ仕事に出る時間じゃないよね。それまで相手してて。治療は寛解っていうらしいよ。予定では一週間」
「気分は? どうなの?」
「うん、すごく気分が悪い。吐き気がしてるし、朝起きたらさ、シーツに髪の毛がバラバラ落ちてた」
「衛さん」
「情けないよ、ほんとに。なんで僕が?」
私はやっぱりどう言って彼を慰めていいかわからなかった。
「ねえ、今電話してもいい? 君の声を生で聞きたい」
彼が望むなら。
ううん、私も彼の声が聞きたいから。
だから答えた「うん」と。
「ああ、紗耶の声だ。君の声を聞いてると落ち着くな。大好きだよ、君の声も君自身も」
「私もよ。私も衛さんが好きよ」
「本当に?」
「ええ、本当」
「でも、君はすぐに僕のこと嫌いになるじゃない」
「だって……」
だって、しかたないじゃない。
私たちの関係はいけない関係なんだもの。
この関係にのめりこむわけにはいかない。
だから、本当は別れなくてはならないって思ってしまうから。
好きだけど、その気持ちに嘘はないけれど、でもそんな特殊な関係が私の心を時々ひどく不安定にさせてしまうのよ。
その気持ちは彼にはわからない。
「君には僕の気持ちなんてわからないんだね」
彼のその言葉にカッとしたけれど、彼を怒らせたくないから言葉を飲み込んだ。
それでも私は「わかるわよ」と返した。
「だったら、僕を抱きしめて」
「抱きしめてるわよ」
「違う。心だけでなく、裸で僕をちゃんと抱きしめて」
「そんな…」
「できないくせに。そんなの本当に僕の気持ちをわかったとは言えないよ!」
「………」
私が黙っていたら彼は電話を切ってしまった。
私は切れた携帯を呆然として見つめた。
それからのろのろとした動作で会社へと出かける用意をした。
「あっ…」
家を一歩出たら、太陽の眩しさに一瞬目がくらんだ。
見上げた空は抜けるような青さで庭先では忘れな草がその空の青さを映したように鮮烈に私の目に入ってきた。
私を忘れないで。
私たちの愛は真実。
忘れないで私を。
私はそのとき、忘れな草の花の声を聞いたと思った。
それは同時に彼の気持ちに他ならないとも。
忘れな草に誓って。
空の青さに誓って。
私は彼をこれより永遠に愛すると。