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朱に交われば赤くなる5

 


「羊、帰ろ〜」



 いつものように声を掛けてくるカナちゃん。

 私は荷物をまとめながら、「ごめん」と軽く手を合わせた。



「今日ちょっと用事あって……先に帰ってていいよ」


「ちょっとなら全然待つよ?」


「ううん、結構かかりそうだから。ごめんね」



 再度謝った私に、カナちゃんは残念そうに肩をすくめる。



「そっかあ。じゃあまた明日ね」


「うん、ばいばい」



 少し申し訳ない気持ちになりつつも、手を振ってへらりと笑った。


 今日は委員会もないし、先生に雑用を任されたわけでもない。

 狼谷くんに英語を見てもらう日なのだ。



『ああ、白。狼谷に英語教えてもらえばいいんじゃないか』



 担任の(もり)先生があんなことを言うから、本当に彼に教えを乞う形になってしまった。

 狼谷くんも狼谷くんだ。まさか二つ返事で了承するなんて。


 こんなの八つ当たりなんだけどなあ。

 そう思いながらも、やはり誰かのせいにしないと平常心を保てない。



「羊ちゃん」



 ずっしりと重い鞄を肩にかけようとしたところで、横から呼ばれた。


 狼谷くんの顔を真正面から見るのは未だに苦手だ。

 なんというか、気恥ずかしくて、むずむずする。


 でもこの前に「ちゃんと見る」と約束してしまったし、破ったら私はきっと針を飲まなきゃいけないし。


 半ば諦めのような感情でゆっくりと彼を見上げると目が合って、体温が一気に上昇していくような気がした。



「あ、と、図書室、行こっか」



 誤魔化すようにそう言ってから、反射的に目を逸らしてしまう。

 やっちゃった、と内心焦ったけれど、狼谷くんは特に咎めるわけでもなく「そうだね」と頷くだけだった。



「あの、ごめんね。わざわざ時間割いてもらっちゃって……」



 図書室へ向かう道すがら、私は沈黙に耐えられずそう切り出した。


 狼谷くんは部活に所属していないけれど、放課後はいつも誰かと遊びに行ったり、それこそ女の子とデートしたりっていうのを聞いたことがある。


 他人に勉強を教えるなんて退屈な時間の使い方だろうな。しかも相手は私だし。



「気にしなくていいよ。むしろ俺が言ったんだから」



 やっぱり優しいと思う。

 だって言い出したのは先生だし、狼谷くんはそれに同意しただけで。


 ――いや、そうだっけ?


 思い返すと、確かにきっかけは先生の提案だった。

 でも何だかんだで私は断りきれなかったし、狼谷くんもなぜか意欲的だったし。


 まあそうだとしても、彼の時間を取らせてもらっているのには違いない。



「狼谷くん、今日はよろしくお願いします」


「はは。何それ、かしこまっちゃって。やめてよ」



 ちょっとだけ困ったように眉尻を下げた狼谷くんは、「狼谷先生って呼んでもいいよ」とおちゃらけてみせた。



「狼谷先生、お願いします!」



 ようやく会話のテンポが掴めてきて、私はそのおふざけに乗っかる。


 すると、ずっと隣を歩いていた狼谷くんが突然立ち止まった。



「どうしたの? 忘れ物?」



 振り返って問う。

 彼は私の顔を呆けたようにただ黙って見つめ、それから我に返ったように口元を押さえた。



「……いや、ごめん。何でもないよ」



 そして再び私の横に並ぶと、



「先生か……」



 と、どこか考え込むような口ぶりでそう呟いた。







 静かな空間に、本のページを捲る音が時折響く。

 周りは読書をしている人がほとんどだ。まだテスト期間じゃないから、よほど心配性じゃない限り本格的に勉強する人はいないだろう。


 図書室は私語厳禁というわけでもなくて、ぽつぽつと話すくらいなら黙認されている。


 私と狼谷くんは机を挟んで向かい合わせに座った。



「羊ちゃん、この前の小テストって何点だったの」



 開口一番、狼谷くんはそう聞いてきた。

 教科書を取り出そうとしていた私は、「え」と思わぬ質問に固まる。



「できればテスト用紙見せて欲しいんだよね。どこが苦手なのか分からないから」


「あ、えーと、そうだよね……」



 正論だ。ド正論だ。

 でも余裕で赤点のテストなんて、見せたらなんて言われるんだろう……。


 かといって教えてもらう手前、見せないわけにもいかない。

 私は渋々ファイルからテスト用紙を抜き出して、狼谷くんに差し出した。



「どうぞ……」



 彼は受け取って、それからまじまじと用紙を見ると、



「ひどいね」


「か、狼谷くん……!」



 身も蓋もない。そしてそんな評価をもらって非常に情けない。


 狼谷くんは「冗談だよ」と軽く口元を緩めた。



「でも、本当に意外。羊ちゃんって頭いいと思ってた」


「全然だよ……いつもテスト前必死だもん……」



 小さい頃からよく言われる。私は真面目だけど、要領が悪い。


 気を抜けば補習まっしぐらだから、いつも何とか食らいついてようやく人並みくらいの成績に落ち着いている。



「まあ単語は暗記でどうにかなるとして、文法だと思うよ。英文の捉え方っていうか」



 なんてことないように告げる狼谷くんに、私は首を傾げた。



「これから受験もあるし、今のうちに固めた方がいいと思う。まだ間に合うよ」



 受験、という単語に思わず顔をしかめる。

 高校に入る時は推薦でどうにかしたタチだから、正直試験で勝負するのは気が滅入ってしまう。



「狼谷くん偉いねえ……受験とか、まだ考えたくないよ」



 やっぱり人って見かけによらないし、噂にもよらないなあ。

 私より狼谷くんの方がよっぽど将来のことちゃんと考えていると思う。



「狼谷くんは進路決めてるの?」



 特に意味があったわけでも、興味があったわけでもなく。

 話の流れで聞いてみただけだった。



「……決めてないよ。羊ちゃんは?」


「私も全然決めてない。やりたいこととかもあんまりよく分かってないし……」



 専門学校に進む子なんかはもう将来の夢も目標も決まっていて、羨ましいなと思う。



「羊ちゃんさ。英文読む時、一語ずつ読んでたりしない?」



 そろそろ本題に移るべきだと判断したのか、狼谷くんはテスト用紙の英文を指さした。



「え、うん……みんなそうじゃないの?」


「一語一語止まりながら読むよりも、文の構造理解して全体的に読んだ方が絶対いいよ。例えばこれ。主語がどこまでか分かる?」


「うーんと、ここ、かな?」


「そう。ここまでが主語で、これが述語ね。だから最初は『主語がこうなったんだな』っていうアバウトな認識で素早く目を通すと、長文も時間足りなくならないと思う」



 シャーペンで斜線を引いた狼谷くんの手元を見ながら、彼の話に耳を傾ける。



「この問題間違えてるから、もっかい解いてみよ。これの主語と述語はどうなってる?」


「えっと、ここで区切れるから……そっか、こっちが動詞だったんだ」



 なるほど、と頷きながら英文を訳していく。


 間違えた問題を一通り解き直して、それから教科書の英文に目を通した。



「……すごい、何かいつもよりすらすら読める……」


「もっと言うと、脳内で日本語に変換する作業抜いて、英語のままで内容分かるようになれば速読できるよ」



 淡々と説明する狼谷くんに、私は心の底から感動した。

 さっきまで英文を読むのが苦痛だったのに、今は少しだけ楽しいかもしれない。



「狼谷くん、すごい……何者……?」



 先生の解説よりも百倍分かりやすい。

 というか、基礎的な部分を根底から覆してくれたような感じがする。



「わ〜……ほんとに魔法みたいだよ、やっぱり狼谷くん魔法使いなのかなあ……」


「やっぱりって何」



 はは、と彼が肩を揺らした。

 久しぶりに無防備な笑顔を見て、心が安らぐ。



「羊ちゃん真面目だから、頑張れば絶対伸びるよ。苦手な教科そのままにしとくのもったいない」



 英語は大丈夫そうだね、と付け足して、狼谷くんは頬杖をついた。



「あと不安なのある?」


「数学かな……」



 聞かれるまま答えてしまったけれど、本来英語を教えてもらうっていうことだったはずで。



「じゃあ数学やろっか」


「うう……申し訳ないです……」



 さっきから何となく感じてはいた。

 狼谷くんは恐らく、英語に限らず成績が良いに違いない。説明の仕方とか、話し方とか、頭のいい人のそれだった。



「えっと、この問題がずっと答え合わなくて」


「ちょっと待ってね」



 狼谷くんは自分のノートを取り出すとぱらぱらと捲って、机に開いたまま置いた。

 それを視界に入れて、私は思わず目を見開く。



「狼谷くんのノート、綺麗……」



 女子のノートならまだしも、男子でこんなに洗練されたノートを作る人は珍しい。

 あまりにも意外で、凝視してしまった。



「そうかな。普通だよ」


「いやいや、頭いい人のノートって感じするよ!」



 なんてこった。狼谷くんがこんなにハイスペックだったなんて。

 今まで不真面目だとか散々思っていたのが本当にいたたまれない。



「ああ……ここだね。プラスがマイナスになってる」


「ほんとだ! 凡ミスだったかー……」



 何題かこなした後、狼谷くんが答え合わせをしてくれた。



「うん、全部合ってる」


「良かった……」



 ふう、と息を吐いて椅子にもたれかかる。

 狼谷くんも軽く伸びをして、瞼を閉じていた。


 それをぼんやりと眺めながら、私は口を開く。



「狼谷くん」


「ん?」


「すっごい失礼なこと言ってもいい?」



 私の言葉に彼はそっと目を開けて、不思議そうにこちらを窺っていた。



「私ね。これまで狼谷くんのこと、怖い人だなあって思ってた。不真面目で、トラブルメーカーで、近寄らない方がいい人だって」



 今も若干、一ミリくらい思ってるかもだけど。

 まあそれはこの際置いておいて、続けることにする。



「でも全然そんなことなかったや。優しくて、几帳面で、繊細で、普通の人だったんだなって。ううん、普通ってよりも、いい人だったんだなって」



 面倒みがいいというか、多分困っている人を見たら放っておけないタイプなんじゃないかと思う。

 私のことも結局手伝ってくれたり、気遣ってくれたり、そういうことが多々あった。



「だから、ごめんね。最初の方とか、狼谷くんに『苦手でしょ?』って聞かれて、本当は苦手だったのに嘘ついちゃった」



 それでね、と私は言い募る。



「いまもう一回、聞いてくれないかな。そしたら私、今度はちゃんと本心で『そんなことない』って言えるから」



 顔を上げると、狼谷くんと目が合った。

 彼は脱力姿勢からすっかり戻っていて、私の顔に視線を向けたまま固まっている。



「あ、あと前に狼谷くん自分のことクズって言ってたけど、あの時ちゃんと否定しなくてごめんね。狼谷くんはクズじゃないよ」



 そこまでまくし立てて、一度酸素を取り込んだ。


 うん。これで全部負い目というか、やましいことはなくなった。

 ちゃんと彼への認識を改めよう。そして一年間、上手くやれるように頑張ろう。


 一人で勝手に完結して意気込んでいると、向かいから小さい呟きが聞こえた。



「……面と向かって俺のこと『いい人』とか言うの、羊ちゃんくらいだよ」



 それがどこか自嘲気味な響きをはらんでいて、少し不安になる。

 彼は大きく息を吐き出して、ゆるく首を振った。



「クズだよ、俺は。どうしようもないクズ」



 そんなことを言わないで欲しい。

 でも彼のその言葉は呪詛のようにがんじがらめで、彼自身を縛っていた。



「そんなことないよ」



 自分の口から出たのは薄っぺらい否定の決まり文句で、意図せず眉根を寄せる。



「……何でそう思うの」


「だって、」



 だって、本当にクズだったら自分のことをそんな風に言わないもの。



「ポスター貼る時、曲がらないように真っ直ぐ丁寧にしてるのとか、黒板消す時に白い筋が残らないように綺麗に消してるのとか……」



 彼の人柄が出る部分。

 誤魔化しようもない、優しい人の動作。



「……あとは?」


「ドリブルの時、ボールを優しく扱ってるのとか」


「他は?」


「紙パック、いつも隅々までぺったんこにしてから捨ててるのとか」



 あれ、何だろうこれは。どうして尋問みたいになってるんだろう。


 いつの間にか狼谷くんは愉しそうに目を細めていて、身を乗り出している。



「うん。それから?」



 ほんの少し、高い声。

 私は必死に記憶を辿りながら、彼のことを思い出した。



「あ。あと、笑うとえくぼができてあどけなくなる、かな」



 そう述べると、彼は「もう関係ないじゃん」と愉快そうに声を震わせる。



「と、とにかくね。狼谷くんは悪い人じゃないよ。いい人なの」



 いや、これもおかしい。どうして本人の前で本人のことをプレゼンしてるんだろうか。


 ここまで来ると言い訳じみてきて、何だかなあと首を捻った。



「ほんと、羊ちゃんさ」



 今の今まで笑っていた狼谷くんは、突然俯いて頭を押さえる。



「……たまんなくなるから、やめて」



 何だか彼の機嫌を損ねてしまったらしい。

 浅い理由をつらつらと挙げ続けたのがやっぱりよくなかったんだろうか。



「ご、ごめんね……」


「いいよ」



 お許しをもらってほっと胸を撫で下ろす。



「俺、まだまだ自分のこといい人だって思えないから、俺のいいところ見つけたらまた教えて?」


「分かった……!」



 重要な役割を任されてしまった! 狼谷くんの自己肯定感を高めるためにも、どうにか貢献しないと!


 拳を握り締めて決意に燃える。狼谷くんはそんな私を横目に、



「ほんと、たまんないな……」



 と、再び憂いを帯びた声色でそう零した。

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