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朱に交われば赤くなる3.5―Misaki Tsuyama―

 


「玄ー! そろそろ切り上げろ! 昼飯食いに行くぞー!」



 保健室のドアを開け、俺はそう叫んだ。


 球技大会真っ只中。

 朝一に自分のクラスの試合を終え、その後に審判やタイムキーパーをこなして、ようやく一息つける。


 試合が終わった後、節操のない友人は女の子に誘われて、ふらりといなくなった。

 行き先は保健室だろうな、と分かったのは、自分もそっち側の人間だからだ。


 球技大会の日はすぐ対応できるように、グラウンドか体育館に保健の先生がいる。つまり、保健室は実質空き教室だ。


 奥のベッドから物音がする。

 閉め切られたカーテンがあいて、端正な顔立ちの男子生徒が一人、俺を睨んだ。



「岬、声でかい。普通のボリュームで聞こえ……」



 大胆に開いた胸元と、外れかけたベルトが何とも生々しい。

 友人――狼谷玄は、いつもの如く俺に不服を垂れようとして、途中で言い淀んだ。


 彼の視線は下の方、それも随分下に釘付けになっている。

 それを辿って、思わず声を上げた。



「あれ!? 白さん、何でこんなとこに?」



 そこにいたのは、冷蔵庫の前でちんまりとしゃがみ込むクラスメートだ。

 彼女――白 羊は、玄と同じ文化委員を務めていて、そのおかげで顔と名前がきちんと一致している。


 まさか先客がいるとは。

 玄も珍しくかなり驚いた様子で、呆然と彼女を見つめていた。



「え、と……」



 か細い声が狭い空間に響く。

 白さんはこわごわと顔を上げると、その視線をこちらに向けた。


 彼女の鼻にはティッシュがねじ込まれていて、根元が真っ赤に染まっている。

 鼻血? 何で? まあそれはいいとして、その赤さに負けないくらい、彼女の頬は恥ずかしそうに火照っていた。


 ……いや、情報過多すぎんだろ、この状況よ。


 黙って白さんを見下ろしていると、彼女の瞳がきらきらと揺れる。

 真ん丸の綺麗な目に涙の雫を溜めて、瞳を潤ませていた。


 その瞬間、かっと体が熱くなり、俺は咄嗟に目を逸らす。



「あー……」



 何だ? 何で今、ぐっときた?

 彼女のものが伝染したのだろうか。顔が火照って仕方ない。



「保冷剤ね。うん、ちゃんと冷やした方がいいよ。こっちおいで?」


「えっ、」



 早口でまくし立て、俺は冷蔵庫を開けた。

 そして保冷剤を雑に一つ掴み取り、彼女の右手を引く。


 そのまま白さんを立ち上がらせて、彼女の頭が自分の肩にも及ばないことを知った。

 小柄だとは思っていたが、こうして近くで見ると女の子って本当にささやかだと思う。



「岬」



 ドアに手を掛けたところで、背後から名前を呼ばれた。

 ああ、まずい。すっかり玄のこと忘れてた。


 振り返ると玄は既に制服を整えていて、何事もなかったかのようなイケメン、いっちょ上がり、だ。


 白さんはどこか怯えたような色の瞳で、それを見ていた。

 あの時、玄じゃなくて俺を見てて良かったと思う。はだけた状態のあいつを彼女が見たら、多分卒倒ものだ。


 いいところを邪魔されて機嫌が悪いのか、玄は眉間に皺を刻んでいる。



「邪魔して悪かったって! じゃ、ごゆっくり!」



 俺は一方的にそう宣言すると、今度こそ彼女の手を引いて保健室を後にした。



「あ、あの、津山くん……」



 廊下を歩いていると、白さんが口を開いた。


 顔を見るとさっきの劣情を思い出してしまいそうで、俺は前を向いたまま、努めて明るく声を出す。



「いやー、びっくりしたでしょ! 災難だったね!」



 なぜだか、さっきから心臓が早鐘を打って落ち着かない。

 黙っているとそれが彼女にバレてしまうのではないか、とそんなわけはないのに焦ってしまう自分がいた。



「あいつね、いつもあんなんだから白さんも早く忘れた方がいいよ。多分気にしてないから大丈夫」



 玄の機嫌が悪かったのも、恐らく俺に対してだろうし――とそこまで考えてから気付く。


 いや、いつもはあんなに怒らないはずだ。

 だからこそ俺は無神経に飛び込んでいけるわけだし、玄だってそれをされて俺とつるむのをやめるわけでもない。


 ああ、そうか。

 ようやく俺は一つ、狼谷玄という男の特徴を忘れていたことに気が付いた。


 玄とは中学の頃に知り合ったが、その時から彼は人間関係においてどこか無頓智だった。

 特定の誰かとずっと一緒にいるということもなく、のらりくらりと、まるで猫のように自由な人間だったのだ。


 高校に入ってからは同じクラスだということもあって、よくつるむようになった。

 俺が一方的に押しかけたり遊びに連れ出したりするのが主だが、断るのが面倒なのか、大体付き合ってくれる。


 そんな彼が毎日決まって飲んでいるのは、購買で売っているイチゴミルクだ。

 放課後によく寄るカフェで頼むのも、ベリークリームラテ。


 ピアスは一年の頃から今までずっと同じものをつけているし、リュックなんて中学の頃のやつをそのまま使っている。


 意外と物を大切にするタイプなのか、と最初は失礼なことを思ったが、多分違う。

 玄は気に入ったものが見つかれば、それだけを愛用し続けるタチなんだと思う。


 だから、人間関係においてもきっと、そうなのだ。

 唯一無二を見つけた時、彼はそこにしか目が向かなくなるのだと思う。


 俺はふと自分の手に伝わる熱を思い出して、なるほどな、と苦笑した。



「だから学校はやめとけって言ってんのに……強情だわ」



 こういうことになっちゃうでしょうが。


 彼自身、まだ掴みきれていないのだろう。

 実際、本当にそうなのかは分からないし、白黒つけるには早すぎる。


 でも何より、あの時の彼の表情が物語っていた。


 ――その子に触るな、と。


 適当な空き教室に入って、白さんを座らせる。

 その向かいに自分も腰を下ろしてから、俺は煩悩を振り払うように口角を上げた。



「白さん、ティッシュ替えようか」



 そう提案したのは、何もふざけていたわけではない。

 事実、彼女の鼻に入り込んでいるティッシュは先の方まで赤く染まっていた。


 ただ、自分の中に燻る甘ったるいものを捨てたくて、わざと彼女の鼻に手を伸ばした。



「いやいやいや自分でやるから大丈夫だよ!?」


「俺、保健委員だから安心して!」


「そういう問題じゃなくて……!」



 本気で慌てる白さんに、ぶは、と吹き出してしまう。



「や、ごめ、冗談……さすがに自分でやって?」


「い、言われなくてもやりますッ!」



 頬を膨らませ、自身のジャージのポケットからティッシュを取り出す彼女。

 間抜けなティッシュの鼻栓と相まって、非常に愉快なことになっている。


 そういう仕草をしたら普通、可愛いもんなんじゃないの? 何でブサイクになるの?


 一体、どうして自分はこんな色気もない女の子に欲情していたのか。

 ちゃんちゃらおかしくなってしまって、散々笑い倒した。



「鼻血って……高校生にもなってティッシュ鼻につっこんでるって……」


「津山くん!? 怒るよ!?」



 口でそう対抗しながらも、ちゃっかり新しいティッシュで栓をするのがまた可笑しい。

 必死に緩みそうになる頬を噛み締めて、俺は問うた。



「ごめんって。何でそうなったの?」


「え、えっと、とにかく相手のコートに返さなきゃと思って……」



 言い訳を聞いてまた腹筋が崩壊した。どうやら彼女は運動がてんで駄目らしい。



「いや最高すぎるでしょ……天才?」


「津山くんっ!!」


「普通もうちょっと恥じらうよね、鼻血出たらさ……」



 鼻栓をしたまま、きょっとーんとした顔でいられるなんて、ある意味図太いと思う。


 白さんはクラスでも地味で目立たない方だし、おどおどしてる印象があった。

 だけどこうして話してみると、だいぶイメージと違う。


 女の子らしくか弱くて、庇護欲をそそる顔をするのかと思えば、ちょっとズボラで意外と物怖じしなくて。


 笑いすぎて苦しい、と呟くと、聞かせるつもりはなかったのに彼女はしっかり不機嫌そうな顔をしていた。


 そろそろ可哀想になってきたから、ちゃんと冷やしてあげることにする。



「ど、どうしたの?」



 突然距離を詰めた俺に、彼女は目を瞬かせた。



「うん。ちょっと、冷やした方がいいかなあと思って」


「でも、さっき自分でやってって……」


「あはは。それはそれ、これはこれ」



 彼女に手を伸ばして、さっきよりも近くで目が合う。


 白くて滑らかそうな肌だ。頬はほんのりとピンク色で、小さい唇が愛らしい。


 特別美人というわけでも、可愛いというわけでもない。自分でも、なぜあそこまで惹き込まれたのか分からなかった。



「白さんさ」


「うん?」


「玄と友達って、前に言ってたよね」



 彼女が静かに頷く。

 横髪がふわりと揺れて、香るはずもない匂いがしそうだった。


 白さんは髪を下の方で二つに括っていて、その毛先を根元で止めている。ヒツジヘア、というらしい。

 彼女の下の名前が「羊」であるのとかけて、クラスのみんなは密かに「ヒツジちゃん」と呼んでいたりする。



「あんまり玄の言うこと鵜呑みにしない方がいいよ。ほら、白さん真面目だから」



 俺が言いつつ笑うと、彼女の目が揺れた気がした。

 それに何となく気まずくなって、顔を伏せる。



「知ってるとは思うけど、あいつ女関係だらしないし、結構ゲスいし?」


「……うん」


「もし、万が一、白さんが玄を――ってなったら、辛いのは白さんだと思うから」



 白さんは真面目だ。そして、普通だ。

 俺とか玄みたいに、ろくでもないクズを真剣に相手できるような子じゃない。


 玄もそうだとは思うけど、俺も一応、自分がクズだという自覚はある。


 そして関係を持つのは、決まって向こうから誘ってくる女の子だけだ。

 白さんみたいに真面目な子を取って食おうとか、そういう趣味はない。



「だから、深入りしない方がいいよ」



 君はこっち側に来ていい女の子じゃない。

 何も、自ら溺れる必要なんてないんだから。



「岬」



 ドアの開く音がして、俺は小さく息を吐いた。



「……思ったより早かったね、玄」



 白さんの手に保冷剤を預けて、椅子に脱力する。


 保健室を出る前に見た様子からして、あのまま続きをするとは思えなかった。


 とはいえ玄は女の子に優しいから、また今度ね、とか適当に甘い台詞を吐いてキスでもして、逃げてきたんだろう。

 そんな光景を今まで腐るほど見てきた。



「何した?」



 ああ、これは怒ってる。怒ってるというか、いらついてる。

 それは勿論分かった上で、玄の顔に視線を移した。


 刹那、彼の瞳の奥に今まで見たこともない色を見つけて、思わず息を呑む。



「こわ。何もしてないって……手当てして、ちょっと仲良く話してただけ!」


「羊ちゃん」



 聞けよ!

 俺が言い終わるのとほぼ同時に、玄は白さんに呼び掛けた。



「ほんと? 何もされてない?」



 彼女は玄の顔を見ると、明らかに表情を硬くした。

 無理もない。もはや殺気すら感じられるほどどす黒いものが、彼の目を乗っ取っていたからだ。


 白さんが小刻みに頷く。

 それを見た玄は途端に目尻を和らげ、安堵したかのように口元を緩めた。



「自分だって女の子とイチャイチャしてたのに、よく言う……」


「岬は手が早いから」


「まーじで玄には言われたくない、それ」



 本当にタチが悪い。

 あんなに見せつけておいて、いざ白さんがいなくなると全力で追いかけてくるって。



「だって、さっきも手ぇ繋いでたでしょ」


「え? いやまあ、繋いだ、けど……」


「ほら」


「手だよ!? 手だけで!?」



 散々やることやってるくせに、何言ってんの!?

 白さんの前なのに、つい口が滑ってそう返してしまう。


 玄は不服そうな表情から一変、穏やかな目を白さんに向けた。



「……羊ちゃんは、別」



 少し既視感を覚えて、そういえばと記憶を辿る。



『岬、この子はだめ』



 以前にも、玄にそうやって釘を刺されたことがあった。

 その時は友達と言い切っていたが、俺はそんな気がしなかったのだ。


 玄は俺の横を通り過ぎると、白さんの前で立ち止まる。

 そして彼女の手を取って、半ば強引に立ち上がらせた。



「か、狼谷くん?」



 案の定、白さんは戸惑っている。



「……こっち、来て」



 玄は俺には目もくれず、そのまま彼女を連れ出してしまった。

 急に静かになった教室に、一人取り残される。


 友達だとか、そういう対象じゃないとか、散々言ってたけどさ。



「……いや、あんなの完全に嫉妬でしょ」



 だって彼が迷わず掴んだのは、俺が握った彼女の「右手」だったんだから。

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