朱に交われば赤くなる3
「あー、汗ふきシート忘れた」
球技大会当日。
朝のホームルームを終えて教室から体育館へ移動しようという時、あかりちゃんがそう言って肩をすくめた。
「私持ってきたから貸すよ」
「助かる〜〜〜ありがと」
私の申し出に眉尻を下げて軽く手を合わせた彼女に、苦笑する。
「岬、早くして」
廊下を出たところで、狼谷くんのそんな声が飛んできた。
反射的に背筋が伸びて、彼の横を大人しく通り過ぎようと試みていると。
「……あ、」
つとこちらに視線を向けた狼谷くんと、しっかり目が合ってしまった。
私が彼を見ている時はいつもばつの悪い思いをしている気がする。
この前の鋭い視線を思い出して少し緊張した。あれから彼とはまともに話していない。
「おはよ」
「あ、お、おはよう……」
狼谷くんは人当たりのいい笑みを浮かべて、それから私の返事を聞くとすぐに目を逸らした。
……あれ?
あまりにも通常運転すぎる彼の様子に、私は呆気に取られる。
「はーいお待たせ! 行こっか玄!」
「暑い……くっつくな……」
津山くんが狼谷くんの肩を組んで、二人が揃って歩き出す。
その背中を眺めていると、横から脇腹をつつかれた。
「ねえちょっとちょっと。いつから狼谷くんと挨拶するほど仲良くなったの?」
カナちゃんが訝しげな顔で聞いてくる。
私は思わずため息をついて、前から横に視線を移した。
「前も言った通りだよ。友達だからね……別に特別仲良いわけじゃなくて」
「いや、だってあんなイケイケのスクールカースト上位層が私たちに挨拶するなんて天変地異でしょ」
そんなんで勝手に天変地異を起こされたらたまったもんじゃない……。
カナちゃんの発言にそんな感想を抱いていると、あかりちゃんが口を挟む。
「私たちっていうよりかは羊にだけだったけどね。羊以外はちらりとも見てなかったよ、あれ」
「あれって言わないの! 指もささない!」
怖いものなしなのかな!?
あかりちゃんの人差し指を叩き落として、ようやく一息ついた。
確かに狼谷くんとは委員会が同じだから、他の人より関わる機会が多いし仲は良い――と、思う。
ただ本当にそれだけというか、それ以上でも以下でもない。
私は友達で、カナちゃんとあかりちゃんはクラスメート。それだけの違いだ。
公園での会話はびっくりしたけれど、狼谷くんは女の子の扱いに慣れているし、揶揄われたのかもしれない。
現に、彼の周りには毎日女の子が絶えないし、さっきだって何事もなかったかのように挨拶されたわけだし。
狼谷くんの日常は変わらない。私も然り、だ。
元々立っているラインが違うと思う。大袈裟に言ってしまうと、住む世界が違う。
だから私たちは、平行線というまで険悪ではないけれど、ねじれの位置のように、ずっと交わることはないんだと思う。
「あ! みんな揃ったねー! 今日は頑張ろ!」
体育館に着いて早々、九栗さんが私たちに手を振って快活に笑った。
「私たちの試合は三番目だから、ちょっとだけウォーミングアップしよっか」
彼女の言葉に頷いて、軽く体を動かしてから周囲を見回す。
朝一の試合がこれから始まるようだ。人が集まってきて、喧騒が大きくなっていく。
「あ、男子のバスケって一番最初か! 応援しなきゃだね!」
「どうりで女子が多いわけだわ……」
グラウンドでは男子サッカー、格技室では女子卓球、そして体育館では男子バスケと女子バレーが行われる。
クラス対抗というのもあって、試合がない時は自分のクラスの他の試合を応援しに行くのが定石だ。
「すいませーん、ちょっと通りますねー」
あかりちゃんが人だかりをものともせず進んでいく。
狼谷くんと津山くんが出るからか、前の方は女子ですっかり埋まっていた。
「ここら辺なら何とか見えそうだね。羊、見える?」
「うん、大丈夫だよ」
どうして名指しされたんだろう、と一瞬首を捻ったけれど、みんなの肩の高さが目に入ってすぐに理解する。
あかりちゃんと九栗さんはスポーツをやっているというのもあるのか、背は高い方だ。
カナちゃんと私は比較的小柄だけれど、私の方が背は低い。
「それではただいまより、第一試合、一年一組対二年三組の試合を始めます」
響き渡った審判の声に、空気が変わった。
整列していた男子たちが散らばって、コートの真ん中に津山くんと一年生の男子が一人。ジャンプボールだ。
ボールは津山くんの押しに倣って相手側に降下し、試合が始まった。
「やば! 津山先輩かっこよすぎ!」
「普段にこにこしてるのにめっちゃ真剣だよ、ギャップ萌え……」
近くの女子の会話が耳に届いて、津山くんの人気もすごいんだなあと実感する。
恐らく彼女たちは一年生だ。違う学年にも知れ渡っているなんて、本当に有名人。
男子の試合は迫力があるし、聞こえてくる音も荒々しい。
見ているこっちが手に汗握ることもしばしばだ。
下の学年と当たった時は勝てることが多いし、あまり心配はしない。
今のところ順調に試合が運んでいるようで、津山くんが既にゴールを決めていた。
「さっきからあの一年の子、津山くんとボール取り合ってるよね」
カナちゃんがそう呟くので、私は「どの子?」と顔を寄せる。
「ほら、あのガタイがいい子。さっきからずっと――あっ、」
「あっ」
ホイッスルが鳴った。
まさにその一年生の子がシュートを決めたところだ。
そこから流れが少しずつ変わってきて、津山くんたちは動きづらそうにしていた。
「あ〜、やな流れだねこれ。外野の一年も盛り上がっちゃってるし」
あかりちゃんが言うように、相手のクラスの応援にはかなり熱が入っているようだ。
上級生に勝てることは中々ないから、興奮するのはよく分かる。
「あ! も〜、何やってんの津山! また決められちゃったよ」
九栗さんが珍しく語気を荒げて拳を握る。
「これで同点かあ……時間もあんまりないし……」
不安げに零すカナちゃんに、九栗さんが「あ」と声を上げた。
「女子の第一試合もう終わったみたい。次の次だから、そろそろ戻った方がいいかも」
「ほんとだ。行こうか」
頷くカナちゃんに、あかりちゃんも渋々といった様子で体を動かす。
コートでは一年生の子がドリブルで上手くボールを運んでいる。
それをしなやかな動きで遮ったのは、狼谷くんだった。
「羊?」
ボールが彼の手に吸い付く。物凄いスピードで駆けているはずなのに、重々しい音が聞こえない。
狼谷くんが立ち止まった。ゴールにはまだ少し遠い。
「玄! こっち!」
津山くんが声を張り上げる。
狼谷くんの目が動いて、タイマーを捉えたのが分かった。
――迷ってるんだ。
今パスを出しても、時間的にシュートまで持ち込めるか怪しい。
でも彼のいるところからシュートを打つのはハードルが高い。
『俺のこと、ちゃんと見てくれる?』
うん。ちゃんと、見るよ。……見てるよ。
「狼谷くん! シュート――――!」
私の声が、雑音の中を割っていった。
瞬間、狼谷くんはこちらを見て、それからすぐに視線を前に戻した。
彼の手からボールが放たれる。
飛んで、飛んで、――輪をくぐった。
「しゃ――――っ!」
誰ともなしに歓声が上がって、試合終了のホイッスルが鳴る。
「玄! まじナイッシュー!」
津山くんが狼谷くんの髪を掻き回しながら豪快に笑った。
狼谷くんは迷惑そうにそれを払い除けて、それから――
急に自分のしたことに実感がわいて、頬が火照った。
狼谷くんがこちらを向くのが分かったので、目が合う前に踵を返してその場を離れる。
「……羊があんなおっきい声出すの、初めて聞いた」
「うん……自分でもびっくりしてる……」
きょとーん、という効果音が正しいだろう。
目を見開いているカナちゃんに、私は俯いた。
「あはは、声出しばっちりだね。よし、私たちも張り切ってこー!」
九栗さんはそう言って、私の肩を軽く叩いた。
***
「いやー、体張るねえ。羊も」
カナちゃんの言葉に、私は自分の鼻をつまみながら眉根を寄せた。
「張りたくて張ったわけじゃないもん……」
「冗談だって。早く保健室行っといで」
ティッシュ足りる? と私の顔を覗き込むカナちゃんに頷いて、そろそろと立ち上がる。
廊下を歩いて目的の場所に着いたところで、ドアに手をかけた。
保健室は普段あまり来ないから、ちょっと緊張する。
僅かにドアを開けた時、私はそのまま固まった。
「ちょっと……誰か来たらどうすんの」
「来ないって」
「あっ、やだもう……」
何か絶対に怪我をしていない方がいらっしゃる――――!?
ただならぬ雰囲気に、完全に思考が止まってしまった。
どうしよう、こういう時どうすればいいんだろう!?
端的に言えば打撲をして、ついでに鼻血が出たので保冷剤をもらえば済む話だ。
入口のすぐ近くに置いてある冷蔵庫から、さっと取ってしまえばいい。
音を立てないように慎重に中に入り、ドアをゆっくり閉める。
冷蔵庫の前に屈んで、ここを無音で突破するのはかなり難しいな、と尻込みしていた時だった。
「玄……もっと、して」
どっ、と心臓が一際大きく波打った。
女の子の甘えるような声。
彼女は確かにその名前を呼んで、応えるのは優しい「彼」の言葉だった。
「なに……嫌だったんじゃないの?」
間違いない。狼谷くんだ。
さっきまで走り回って、汗を流していた狼谷くんだ。
彼が女の子とそういうことをしているのは勿論分かっているし、それが当たり前だと思っていた。
ただ、こうして直接聞いてしまうのとではやはり訳が違う。
「興奮してるんだ? 誰かに、聞かれるかもしれないって?」
「ばかっ、違う……」
全く関係ない自分まで恥ずかしくて堪らない。
生々しくて、酷くて、顔は熱いのに背筋は凍ったようだ。
狼谷くんはこういうことを、しているんだ。
侮蔑ではない。再認識だ。
多分、私の理解がまだ十分じゃなかっただけ。
「玄ー! そろそろ切り上げろ! 昼飯食いに行くぞー!」
突然、ドアが勢い良く開いた。
心臓が口から出るんじゃないかと思うほど驚いて、肩が派手に跳ねる。
津山くんの呼び掛けに、奥から布の擦れる音がした。
「岬、声でかい。普通のボリュームで聞こえ……」
狼谷くんの声が、そこで途切れる。
「あれ!? 白さん、何でこんなとこに?」
津山くんはドアを開けたまま奥に視線を向けていたからか、私には気付かなかったようだ。
質問に答えようにも、上手く言葉が出てこない。
「え、と……」
恐る恐る顔を上げて津山くんを見上げる。
結果的に盗み聞きしてしまった罪悪感と、羞恥と、情けなさで頭がごちゃごちゃだ。
ただでさえボールを顔面で受けてじんじん痛むのに、どうしてこんな精神攻撃を食らわなきゃいけないんだろう。
そういえば鼻血を止めるためにティッシュの栓もしたままだし、本当にみっともなさすぎる。
「あー……」
私の恥ずかしさが伝染したのか、津山くんは僅かに頬を赤らめて頭を掻いた。
「保冷剤ね。うん、ちゃんと冷やした方がいいよ。こっちおいで?」
「えっ、」
津山くんは手早く保冷剤を取り出すと、しゃがみ込む私の手を取って立ち上がらせる。
「岬」
保健室を立ち去ろうとした私たちに、後ろから狼谷くんの声が飛んできた。
怖いもの見たさで振り返ると、狼谷くんはとっくのとうにベッドから離れていて、視線はこちらにしっかりと向けられていた。
「邪魔して悪かったって! じゃ、ごゆっくり!」
津山くんは朗らかに告げると、今度こそ私を引っ張って保健室を後にした。
「あ、あの、津山くん……」
「いやー、びっくりしたでしょ! 災難だったね!」
廊下を歩きながら、彼はおちゃらけた様子で肩をすくめる。
右手は相変わらず繋がれたままで、触れた部分が酷く熱かった。
「あいつね、いつもあんなんだから白さんも早く忘れた方がいいよ。多分気にしてないから大丈夫」
私があの現場を見てしまったことを気にしていると思ったのか、津山くんはそう言い放つ。
「だから学校はやめとけって言ってんのに……強情だわ」
あっけらかんとした物言いに、私もようやく落ち着いてきた。
驚きはしたけれど、あれが彼の日常というわけだし、それを体感しただけだ。
空き教室に入ると、津山くんは私を座らせて、その向かいに自分も腰を下ろした。
「白さん、ティッシュ替えようか」
彼が言いつつ私の鼻に手を伸ばすので、思わず仰け反る。
「いやいやいや自分でやるから大丈夫だよ!?」
「俺、保健委員だから安心して!」
「そういう問題じゃなくて……!」
慌てて言い返すと、津山くんは耐えかねたように吹き出した。
「や、ごめ、冗談……さすがに自分でやって?」
「い、言われなくてもやりますッ!」
バカにされた! 多分だけどバカにされた!
憤慨しながら顔を背けてティッシュを取り出すと、散々笑い倒した津山くんが「はー」と息を吐いた。
「鼻血って……高校生にもなってティッシュ鼻につっこんでるって……」
「津山くん!? 怒るよ!?」
だってしょうがないじゃん、鼻血なんだから!
訳の分からない怒りを堪えながら、私は新しいティッシュで栓をする。
「ごめんって。何でそうなったの?」
「え、えっと、とにかく相手のコートに返さなきゃと思って……」
気持ちが前のめりになって、それにつられて体も前に出してしまった。ボールの落下点はもっと後ろだったのに。
それを正直に話すと、津山くんはまた盛大に笑い転げた。
「いや最高すぎるでしょ……天才?」
「津山くんっ!!」
「普通もうちょっと恥じらうよね、鼻血出たらさ……」
笑いすぎて苦しい、とお腹を押さえる彼に、私は口を曲げる。
津山くんは姿勢を正すと、椅子ごとこちらに近寄った。
「ど、どうしたの?」
「うん。ちょっと、冷やした方がいいかなあと思って」
彼が保冷剤を持っているのを思い出して、ああ、と納得する。
「でも、さっき自分でやってって……」
「あはは。それはそれ、これはこれ」
津山くんはそう言って、手を伸ばしてくる。
「白さんさ」
「うん?」
「玄と友達って、前に言ってたよね」
頷いて、私は彼の言葉の続きを待った。
「あんまり玄の言うこと鵜呑みにしない方がいいよ。ほら、白さん真面目だから」
津山くんが笑う。何の他意もなく。
「知ってるとは思うけど、あいつ女関係だらしないし、結構ゲスいし?」
「……うん」
「もし、万が一、白さんが玄を――ってなったら、辛いのは白さんだと思うから」
冗談のようなトーンだけれど、きっと冗談ではない。
これは多分、彼なりの心配なんだろうなと、そう思った。
「だから、深入りしない方がいいよ」
――そして、忠告でもある。
「岬」
津山くんの後ろでドアが開いた。
「……思ったより早かったね、玄」
私の手に保冷剤を握らせた津山くんが、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
狼谷くんはその様子を見るのもそこそこに、中へ入ってきた。
「何した?」
津山くん宛の質問だった。
狼谷くんの目は教室での穏やかなものではなくて、あの時の物騒なものに変わっている。
「こわ。何もしてないって……手当てして、ちょっと仲良く話してただけ!」
「羊ちゃん」
津山くんが言い終わるや否や、狼谷くんがこちらに視線を寄越した。
「ほんと? 何もされてない?」
その目で問い詰められると、私はイエスとしか言えなくなる。
私が頷いたのを確認して、狼谷くんはようやく眼光という名のナイフをしまった。
「自分だって女の子とイチャイチャしてたのに、よく言う……」
「岬は手が早いから」
「まーじで玄には言われたくない、それ」
不穏な会話が繰り広げられるのを聞き流していると、狼谷くんが珍しく不機嫌そうに述べる。
「だって、さっきも手ぇ繋いでたでしょ」
「え? いやまあ、繋いだ、けど……」
「ほら」
「手だよ!? 手だけで!?」
散々やることやってるくせに、何言ってんの!?
津山くんがそう言い返すと、狼谷くんは目を細めた。
「……羊ちゃんは、別」