能ある鷹は爪を隠す6.5―Gen Kamiya―
暗くなってきた空の下、インターホンを押す。
数十秒待っても反応がないので、もう一度押してみた。ドアは開かない。ため息をつく。
「おい、いるんだろ。お前が会いたいっつったんだろうが」
アパートの一室、さほど分厚くもない簡素な造りのドア。
その向こうからどたどたと慌ただしい物音が聞こえて、勢い良く開いた。
「玄? 嘘、ほんとに来てくれたの……?」
目を見開く奈々に、意図せず眉根が寄る。
「だから、お前がそう言った」
「玄……!」
玄関から飛び出してきた彼女を咄嗟に避けた。
抱き着こうとでもしていたのか、細い腕が手持ち無沙汰に揺れる。
「……何で? そういうことじゃないの……? 私を選んでくれたんでしょう?」
「違う」
「じゃあ何で!?」
子供のように縋る奈々に、俺は淡々と告げた。
「お前との約束は守った。俺はちゃんと証明した。だからお前も割り切って」
クリスマスだなんて、よくもクソみたいな期限を設けてくれたものだ。元々今日のために準備も何もかもしていたというのに、本末転倒である。
そうはいっても、彼女にとって――奈々にとって、この日はクリスマスでも何でもないのだから仕方ない。
「もう来年からは、一緒にいてやれない」
断言すると、華奢な肩が跳ねる。
十二月二十五日。彼女の父親は、家を出たという。
冷え切った部屋の中、奈々は一人、その日のうちに帰って来るかも分からない母親を待ち続けたと。
彼女の日常が明確に崩れ始めたのは、その日だったようだ。当たり散らす母親に抵抗もできず、塞ぎ込むようになり、一時期不登校だったことも聞いた。
同情だったのか。それはもう、今となっては分からない。
奈々から諸々打ち明けられた時、放っておけないと思ったのは確かだ。あるいは自分と重ねていたのかもしれない。
奈々と出会ってから初めて迎えた去年のクリスマス、彼女は俺に電話を寄越した。その声は酷く震えていて、不安と恐怖に押し潰されそうで。
彼女の家には何度も入ったことがある。今にも消えてしまいそうなほど不安定なその声色に、慌てて電話を繋げたまま彼女の家へ向かった。道中、何度も「大丈夫」と繰り返しながら。
部屋の中には、一人ぽつんと膝を抱えて縮こまる彼女がいて、この時期になると決まって精神的に参ってしまうことを知った。
その日の晩は、泣きっぱなしの彼女の隣から離れず、そのまま朝を迎えた。
『玄。その日、少しでいいから……会いたい。本当に少し。それで、最後にするから……』
あの言葉が本心からであったというのは、流石に身に染みていた。結局こうして来てしまっているのだから、俺も大概だ。
しかし、それも最後にしなければならない。
「俺はもうお前とは会わないし、連絡もしない。今日も、この後は一緒にいられない」
今も奈々の顔はやつれていて、目が赤い。朝から泣き腫らしていたのだろう。
彼女にとって酷なことを宣告している自覚はある。その痛みがどれほどなのか、一年共に過ごしてきて全く理解できないわけじゃない。
だから俺は、彼女の言葉を忠実に守った。
『本当にあの子が大事なら、指一本、触れないで……!』
どこまで本気なのかは知らない。ましてや、応える義理もない。
奈々の目を盗んでいくらでも、羊ちゃんに触れることはできたことだろう。
でも俺は。俺も、奈々と同等の痛みを背負わなければならない。
それが今まで自分勝手に人を切り捨ててきた自分自身への戒めであり、贖罪だ。奈々をこうさせてしまったのも、ある種、俺の責任なのかもしれない。
だから今日、全て終わらせる。
こんな程度で償いきれるとは到底思えないが、せめて約束は守れる人間でいたいと思った。
「奈々」
俺たちは好き合ってなんかいなかった。
その場限りの熱を埋め合う関係で、一人と一人を足したら二人になる。それだけのことのために、何度も名前を呼んだ気がした。
「お前は、俺のこと、好きじゃない」
「……何、言って」
「俺を好きなんじゃなくて、支えが――寄り添える人間が、欲しかっただけ」
多分、俺もそうなんだ。今なら分かる。
「きっと俺が俺じゃなくなったら、『違う』って言うよ。お前は」
俺が言うと、奈々は息を呑んだ気がした。
「どうして、」
どうして分かったの。彼女の唇が、そう動く。
目まぐるしい変化に、自分だって目が回りそうだ。
冷酷で非情な自分と、温厚で柔和な自分。その全部が「俺」で、どれでもいい、嫌いになれない、と羊ちゃんは言った。
「あの子も、同じこと……言ってた」
「……そう」
結局、奈々が羊ちゃんとどういう話をしたのかは聞けずじまいだった。
それでも何となく、羊ちゃんが俺を信じてくれるという確証だけが色濃くあって。
自惚れじゃない。妄想でもない。彼女は、白羊は、そういう人間だ。
「奈々は、さ」
虚ろな目をした少女に問いたい。
「奈々は、俺のために死ねる?」
突拍子のない質問に、彼女は眉をひそめた。
驚いて返す言葉もないのか、俺の意図を探るかのように瞳をじっと覗き込んでくる。
「俺は、羊ちゃんのためなら死ねるよ」
比喩じゃない。誇張しているわけでもない。我ながらくさいが、本気でそう思っている。
『死ぬとか言わないで』
あの日、俺の手を掴んだ彼女の言葉を思い出す。
死なないよ、と。彼女の前では取り繕ったが、あながち嘘でもなかった。
また彼女に怒られてしまうだろうか。自分を犠牲にするのはやめろと、大切にしなさいと、怒鳴られてしまうだろうか。
でも、それでもいい。俺は彼女に怒られている時、どうしようもなく愛されている気がするから。
「多分、『好き』って、そういうことなんだと思う」
少なくとも、俺の「好き」はそういうことだ。人それぞれ違うにしたって、そうでありたいと思う。
「……奈々も、本当に好きになったら分かるよ」
あるいは、自分なりの「好き」を見つけるかもしれない。
まだ見つけていないだけ。それが俺じゃなくて、俺だと錯覚していただけ。
背を向ける。そのまま歩き出した俺を、奈々は咎めなかった。
「玄」
階段を下りる直前、芯のある声が飛んでくる。
「ばいばい」
そこに「また」のニュアンスは含まれていなくて、俺は振り返らずにその場を後にした。
***
「一つ、お前に頼みたいことがある」
俺の言葉に、坂井は眉をひそめた。
そんな彼の様子を観察しながら、更に続ける。
「……お前、羊ちゃんのこと好きだろ」
「は、」
「見てりゃ分かる。視線がうっとうしい」
今さっき教室を出てから、ずっと後ろに気配を感じていた。別に見られて、聞かれて困ることなんて何一つないが、気付いていないと思われるのも癪だ。
ここ最近、坂井はずっと羊ちゃんのことを目で追っていた。それはきっと、本当に意識して見ていなければ気が付かないであろう変化。でも分かる。俺は彼女やその周囲を、それこそ穴が開くくらい見ていたから。
以前の俺なら――彼女と付き合い始めの俺なら、間違いなく坂井を絞めていた。どす黒い感情に支配されて、本能のまま手を下していただろう。
でも、今の俺は、前の俺じゃない。彼女が与えてくれる愛情を、俺が受け止めて欲しい愛情を、きちんとコントロールできている。
「……それで? 俺に、諦めろって言いたいの?」
肯定の言葉。普段の坂井とは少し違う雰囲気。開き直った、ともいうべきか。
「俺はクリスマスまでに――クリスマスに、けじめつけてくる。だから、お前もけじめつけてくんない?」
諦めろ。まあ確かに、そういうことなのかもしれない。
このまま野放しにしておくほど俺は心が広くないし、普通に嫉妬もしている。
だって、もうどうあがいても手放してやれない。俺は多分、死ぬまで彼女への想いに囚われるのだろう。
彼女だってそれを許容してくれているから、尚更手放す理由はない。
そうなれば、他の男がいくら羊ちゃんを好きだと言ったところで、実る余地はないわけで。
牽制、束縛とも違う。事実だ。俺はただ単に、事実を述べている。
「さっき聞いてたろ。十七時に駅前。そこからの一時間やるから、全部終わらして」
「……意味が分からない」
「じゃあいい。今すぐここでその気持ち、捨てろ」
容赦なく言い放つ。
恋というものを知った俺は、無慈悲ではないつもりだ。そう簡単に割り切ることができない気持ち、だからこそせめて本人にぶつけて消化しろと言っている。
「快速」
「え?」
「そこから快速乗って、終点までが大体一時間だから。羊ちゃんのこと、送ってくんね?」
自分でも、らしくないことをしていると思う。
彼女と一緒に過ごす時間は温かくて、優しくて、ささくれだった心が少しずつ癒されていくような心地だった。
いつの間にか絆されて、笑ってしまって、時折涙が出るほど愛おしい。
だから、多分。俺は前よりもっとずっと、人に優しくなれた。
「本気?」
坂井が俯いて問う。表情は見えないが、その声は僅かに震えていた。
「羊ちゃんのことで本気じゃなかったことなんてない」
「……そっか」
俺もらしくないが、坂井だってらしくない。
そのらしさを振り切ってまで生まれた気持ちは、嘘偽りのないものだと信じている。
「分かった」
坂井が緩慢に顔を上げ、瞳を揺らす。引き結ばれた唇がささやかに弧を描いて、「人のいい笑顔」を形作る。
彼は今、自身の中の獰猛な欲望に蓋をして、仮面を被った。今、ここで、明確な線引きをした。
その温厚な笑顔が崩れたのは、列車から降りてきた彼が俺を見つけた時だった。
笑顔なことに相違はなかったものの、そこには悔しさ、切なさ、やるせなさ――しっかりと傷を負った、「男」の顔があった。
「玄くん、……どう、して」
純真な瞳が俺を捉える。
みるみるうちに目を潤ませて眉尻を下げた彼女に、酷く胸が痛んだ。
「羊ちゃん」
ああ、俺は本当にどうしようもない人間だね。また羊ちゃんを不安にさせて、泣かせて、どこまでも不甲斐ない。
それでも俺は、どうしたって願ってしまうんだ。
君の瞳に映りたい。君の隣を歩きたい。たった一人、君の手を取る男でいたいと。
「俺、色々と彼氏失格だけど……ちゃんと、けじめはつけてきた」
「……うん」
「話したいこと、沢山あるんだ。聞いてくれる?」
怖い。未だに彼女に嫌われてしまうのが、愛想を尽かされてしまうのがとてつもなく怖い。もしかしたらとっくに呆れられているのかもしれない。
でも、もう、それでいい。また一からやり直すまでだ。
何度押し返されても、俺はこの気持ちを、永遠に伝え続けるんだろう。
「……手、繋いでもいい?」
小さく頷いた彼女の手を、そっと握る。触れた体温に、泣きそうになった。
俺はずっと、この温度を待っていた。もうずっと。
陳腐な熱じゃない。表面的な触れ合いでもない。心の内側から触れ合うような優しい愛情が、こんなに満たされた気持ちになるのを、教えてくれたのは羊ちゃんだった。
繋いだ手に、少しだけ力をこめる。
離さない。そんな独りよがりよりも、離したくない、と。穏やかな願望だけが胸中に広がった。




