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能ある鷹は爪を隠す5.5―Shinobu Sakai―

 


 落ち着いた雰囲気の京都の旅館。温かみのある照明が廊下を照らし、眠気を誘う。

 気持ち急ぎめに風呂から上がって、班長会議に出席した後、俺は自分の部屋へ戻ろうとその道を歩いていた。


 就寝までの自由時間は、修学旅行の醍醐味と言えるだろう。

 それにあたる今の時間帯、部屋間の行き来が黙認されていて、濡れた髪もそこそこに友達の元へ急ぐクラスメートと何度もすれ違った。


 皆一様に浮かれた表情で通り過ぎていく中、前方からやって来る小さい影に目が惹きつけられる。

 普段は結われている、色素の薄い柔らかそうな髪の毛。肩下で軽やかに揺れるそれとは対照的に、彼女は俯いていた。


 一歩、また一歩と距離が近付いていく。

 そのまま通り過ぎようとした刹那。ふと視線を移した先、きらきらと輝くものが視界に飛び込んできて、俺は反射的に彼女の肩に手を掛けた。



「どうしたの、大丈夫?」



 純粋な心配だった。

 穏やかに笑みを浮かべているのがデフォルトの、一クラスメート。何か問題でもあったのかと、学級委員として使命感に駆られていた。



「坂井、くん?」



 控えめな声が俺を呼ぶ。


 光を受け止めて揺れ動く丸い瞳。そこから一筋零れた透明の雫。紅潮した頬と白い首筋のコントラスト。

 彼女が顔を上げた瞬間、ずくりと下腹部が疼いて、息が止まった。



「あっ、ご、ごめんね! 何でもないよ」



 粗雑に涙を拭い、彼女は眉尻を下げて笑う。

 もったいない。そう思った。



「……坂井くん?」



 ただじっと彼女の顔を見つめ続ける俺に、目の前の瞳が不思議そうに問いかけてくる。



「ああ……ごめん。本当に大丈夫?」


「うん、大丈夫だよ。ありがとう」



 気丈に振舞う彼女に、それ以上踏み込むわけにもいかず。

 暴れ狂う心臓を抑えようと努めつつ、俺はそのまま部屋へと向かった。



「おわっ、」



 引き戸に手を掛けようとした時、ちょうど内側からそれが開く。

 声の主は津山で、明るい茶色の毛先が普段よりも大人しく落ち着いていた。



「ああ、ごめん」


「いや……坂井、湯あたりでもした? 顔赤くね?」



 首を傾げた津山が、言いつつ俺の顔を覗き込む。嘘を見破られたかのように心臓が跳ねた。



「え? そうかな。全然何ともないけど」



 平静を装い、口角を上げてそう返す。

 ふうん、と気の抜けた相槌を打って、津山が横をすり抜けた。



「あ、津山。他の部屋行くのはいいけど、消灯までにはちゃんと戻れよ」


「ほいほーい」



 相変わらず、ふわふわ、ひらひらと掴みどころのないクラスメートだ。自分とはかけ離れたキャラクター。少しだけ、ほんの少しだけ苦手である。


 ただ、もっと苦手なのは――



「水、飲む?」



 ぼさっと立ち尽くしていたからか、狼谷が部屋の奥からそんな言葉を投げてきた。

 津山と俺の会話を聞いていたんだろうか。一応気は遣ってくれているようだが、彼が立ち上がる気配はない。



「ああいや、ほんとに大丈夫。悪いな」


「あっそ」



 会話終了、だ。決して居心地が良いとは言えない沈黙が訪れる。


 俺はこの狼谷玄という男が、春から今までずっと苦手だ。とっつきにくい、というのは勿論そうだが、至って真面目に生きてきた自分からすると、彼の言動は理解に苦しむものが多すぎる。


 それとは別に、たったさっき、彼と居合わせたくない理由が増えた。


 彼と同じ文化委員を務める、控えめな女子生徒――白羊。彼女と狼谷は文化祭を機に付き合い始めた、ともっぱらの噂で、他人の色恋沙汰に興味がないと自負している俺でも知っている。


 そんな彼女とすれ違ったあの瞬間。彼女の泣き顔を見た、たった数秒間。

 今まで経験したこともない高揚感に襲われ、自分の性別をまざまざと思い知らされた。


 脳を直接殴られたような衝撃にも等しい。じくじくと甘い痛みが体を蝕んで、全身の血が熱く滾るのを感じた。



『心配しなくても傷一つつけないから、安心しろ』



 分かっている。彼女にはきちんと相手がいて、それをわきまえないほど自分は愚かではない。


 頭を振って、未だ燻る劣情を切り落とすように深く息を吐いた。





 ***





 がん、と物々しい音がした。

 担任との面談を終え、階段を下ったところで、下駄箱に人影を見つける。



「――じゃあ泣かすわ」



 ただならぬ空気。

 壁に身を隠して様子を窺えば、そこには二人の女子生徒がいた。詰られている方には見覚えがある。


 仲裁に入ろうか迷ったが、話を聞いている限りだとなかなかに際どい内容だ。第三者が介入して拗らせても困るので、ひとまず静観に徹することにした。


 結果的に、どちらかが手を出すようなこともなく、言い合いで終わったようで。

 一人立ち尽くす華奢な背中に、あまり気乗りはしないが声を掛けてみる。



「大丈夫?」



 振り返った彼女の顔は強張っていて、酷く怯えていたのだろう。

 最初こそ視線をさ迷わせながらどもっていたが、「ごめんね」とその唇が動いた。


 表情や声色を努めて「いつも通り」にしようとしているのが伝わってくる。

 こんな時にまで笑おうとしなくてもいいのに。歯痒さを感じて、ついつい口数が多くなってしまう。



「あはは、ありがとう……うん。でもまあ……こういうことも覚悟してなかったわけじゃないし」



 彼女がそう言った瞬間、自分の中で何かが焼き切れたような気がした。



「こういうことって……浮気されるってこと?」



 それはあまりにも不憫すぎやしないだろうか。


 彼女が狼谷と付き合い始めたと知った時は正直かなり驚いたが、当人たちがそれでいいのなら別段気にすることでもない。

 しかし、彼女はひたむきに狼谷を想っているというのに、狼谷がいい加減な態度では、あまりにも彼女が報われない。



「白さんはそれでいいの? 散々弄んでおいて捨てるとか、許せるの?」



 我ながら、何をこんなに熱くなっているんだろうと他人事のように考える。


 否、本当は薄々気付いていた。

 あの夜、彼女に抱いてしまった熱情を。消すに消せなかった火種を。


 でも、だからといって、どうすればいいというのか。

 彼女には付き合っている人がいて、俺は誰がどう見てもただのクラスメート。



「……俺、いつも白さんが泣いてるとこばっかり見てるような気がする」



 気のせい、なんだろうか。彼女の泣き顔が印象に強く残りすぎて、そう錯覚しているだけなのかもしれない。

 だけれど、あの日からずっと、獰猛な獣が自分の中に居座ってしまったように、彼女の涙を探している。離れない。記憶から、脳内から、消えてくれない。



「あんまり抱え込みすぎるのも良くないと思うよ。俺で良かったら相談くらいは乗るから」



 嗚呼、俺は一体いつからこんなに浅ましくなってしまったんだろう。





 ***





「バイト? 狼谷くんが?」



 前方から聞こえた声。それにつられるように顔を上げてしまったのは、気紛れなどではなく。


 振り返りながら白さんと会話をする西本さんは、「へーえ」と納得したように頷いた。



「どうりで最近あんまり一緒にいないなと思ったわ」



 二人の話題は最近の狼谷について、らしい。席が近いせいで、聞き耳を立てなくともその内容は耳に入ってくる。


 白さんは滅多に後ろを見ない。前の席に西本さんがいるというのが、一番大きな理由だろう。

 話に花を咲かせる彼女たちの様子をぼんやり眺めながら、いいな、と無意識にそう思った。


 こっちを向かないだろうか。俺の方を振り返って、また名前を呼んでくれないだろうか。

 綺麗な真ん丸の瞳に、もう一度映り込みたい。西本さんにばかり構ってないで、少しは俺の方も見てよ――と、八つ当たりのように考える。



「……邪魔だな」



 そう、邪魔だ。それがしっくりくる。

 白さんの視線を独占しているのは、いま間違いなく西本さんだ。行き帰りだってほぼ毎日一緒で、声を掛ける隙もない。



「坂井?」



 前の席の霧島が、ぽかんと俺を振り返っていた。



「邪魔って何? 俺のこと?」


「ああ、いや……数学の話。左項のx、どうやっても消えなくて邪魔だなあと思って」


「さっきの問題? あれ俺でも解けたけど。珍しいな」



 訝しむように眉根を寄せた霧島は、その前に座る友人に話しかけられて、俺との会話をあっさり終わらせる。



「じゃあ今日は久しぶりにどっか寄ってく?」


「えっ、行きたい行きたい!」



 無邪気で浮ついた声色だった。きっと眩しい笑顔を、前方の友人に向けているんだろう。


 ああ、狡いな。西本さん、どこまで彼女を独占するの。少しくらい俺に分けてよ。

 ――そう、多分、魔が差した。



「津山」



 ホームルームが終わった教室。早々と帰ろうとしていた彼を呼び止める。

 津山は驚いたように立ち止まって、「何?」と首を傾げた。



「この後、帰らないで玄関で待っててほしいって。西本さんが」


「えっ?」



 俺の言葉に、彼が柄にもなく頬を赤らめる。


 他人の色恋沙汰に興味はない。が、クラス内の相関図のようなものは脳内で出来上がっている。

 彼が西本さんを憎からず思っているのは、最近の言動からも比較的分かりやすく読み取れていた。



「えっ、わ、分かった。さんきゅ……」



 扱いやすくて大変助かる。どういたしまして、と返して、俺は理科室に向かった。

 西本さんとは同じ理科室掃除の当番が割り当たっていて、これを活かさない手はないと思ったのだ。



「西本さん」



 一通り掃除を終えて廊下に出ようとしていたところを、すかさず捕まえる。

 津山同様、首を傾げた西本さんに、俺はわざとらしく小声で告げた。



「白さんが、用事できたから先に帰っててって言ってた。なんか、玄関で西本さんのこと待ってる人いるらしいよ?」



 終始わけがわからない、といった様子で視線をさ迷わせていた彼女だったが、玄関で津山と出くわした時は、合点がいったように「もう、羊の馬鹿!」と顔を赤らめていた。

 その一部始終を見届けてから、俺は階段を上って教室へ戻る。


 壁に背を預け、爪先をぱたぱたと動かしながら、健気に友人を待つ彼女。

 まるで自分のことを待ってくれているかのような錯覚に陥って、頬が緩んだ。


 白さんと一緒に帰ることが叶ったわけだが、それすらもこんなに手順を踏まなければならないのか、と内心苦い。

 彼女がもう少し西本さんから離れてくれたら。自ら望んで、俺のところへ来てくれたら。



「……ここだけの話なんだけどさ」



 自分の中の悪魔が囁く。

 彼女の視界に映るのが、俺だけだったらいいのに。彼女を取り巻くもの、全てが邪魔だ。取り除いて、俺が手を引いてあげたい。



「ごめんね。話しにくいこと、わざわざありがとう」


「ううん。むしろごめん。何かあったら俺に言ってくれていいから」



 俺だけを頼って欲しいんだよ、白さん。





 ***





(しのぶ)、どうした?」



 体育の授業へ向かおうと、みんなが教室から出て行く。

 立ち止まった俺にそう問いかけた声。忘れ物したから先に行ってて、と適当に理由をつけて、踵を返した。



「ごめん、鍵かけるのちょっと待って」



 今まさに教室の施錠をしようとしていた体育委員に、俺は後ろから断りを入れる。



「ん? 忘れ物?」


「うん。あ、俺が鍵かけておくから行ってていいよ」


「おー、さんきゅー」



 貴重品袋を持って手を挙げた彼から鍵を受け取った。

 体育の際は、スマホや財布などを体育委員が全員分集めて、体育館へ持っていく。最初の頃こそ全員しっかり預けていたが、慣れてくると面倒で預けない人も多い。校内で盗難なんて、そうそう起きないだろうという慢心だ。


 でも俺は毎回しっかり預けている。だって、



「……ビンゴ」



 こういう悪い奴がいるかもしれないからね。


 白さんの鞄。内ポケットにしまわれたままの、スマートフォン。

 それを自分のブレザーのポケットにしまって、俺は教室を後にした。







 類は友を呼ぶ、というが、まさしくそうだろう。


 白さんに伝言をお願いしたい、と頼むと、九栗は何の疑いもせず頷いた。

 西本さんもそうだが、彼女の周りは人が良い。俺がこんな人間だなんて、つゆほども疑っていないのだから。


 教室清掃の当番が当たっていた俺は、机を運ぶ際に、さり気なく白さんの机の中に彼女のスマホを滑り込ませた。

 資料室の鍵は、「大学について色々調べたい」と言えば難なく借りられたし、思いのほか上手く事が運びすぎて怖くなったくらいだ。


 ただ一つ想定外だったのは、彼女が意外にも冷静沈着だったこと。しばらく大人しかったから、寝てしまったのかと思った。



「もうう、やだあ……」



 その声が聞こえた時、自分の中で急速に何かが燃えていくのを感じた。

 彼女を泣かせたのは他でもない、俺だ。俺がしたことで彼女が泣いている。


 罪悪感を抱くのが正解だったんだろうか。もう俺は、今このドアを開けるのが楽しみで楽しみで仕方ない。

 何度も脳内で繰り返し思い返したあの泣き顔を、もう一度見られる。


 興奮して、上手く鍵を開けられなかった。

 手際の悪さに自分でもじれったくなって、ようやくそれを開けた途端。



「白さん、どうしてここに――」


「坂井くんっ、ありがとう……!」



 必死に俺の袖を縋った、か弱い手。零れ落ちてしまいそうな瞳。

 赤く染まった頬や鼻先が扇情的に俺を煽って、危うく理性を飛ばしかけた。


 やっぱり、綺麗だ。それでいて艶めかしい。

 心臓が早鐘を打って、腰がぞくぞくと震える。


 彼女の話を聞くふりをしながら、懸命に昂ぶりを抑えた。


 森先生への文句を垂れる彼女は微塵も俺のことを疑っていないようで、九栗にすらその矛先は向けてくれなかった。

 それとなく話の流れを誘導すると、彼女は即座に否定する。



「そんな……! 朱南ちゃんがそんなことするわけないよ!」



 するかもしれないよ。ちょっとは疑ってよ。

 もっと不安になって。怯えて、泣いて、それで俺に縋って。


 ちょっと遠回しすぎただろうか。もっと分かりやすく、彼女の周りの人間を排除した方が効率的だったかもしれない。


 しかし流石の彼女も、直接的な言葉には堪えたようだった。

 ダメージの受け具合によって対応は変えようと思っていたが、その場で開かずにしまい込もうとしたときは少し焦った。

 俺の前で泣いてくれないと意味がない。俺の知らないところで傷ついて、他の人間を頼って欲しくない。



「私……私、そんなに何か、したかなあ……」



 俯いて声を震わせる彼女を、優しく慰める。

 弱り切って疑心暗鬼になって、わけがわからなくなったところに手を差し出す。そうすれば彼女も掴んでくれるかもしれない。



「大丈夫。俺は一応色々見ちゃった立場だし、話ならいくらでも聞けるし……白さんが悪くないのも、ちゃんと全部分かってる」



 君を分かってあげられるのは、助けてあげられるのは俺だけなんだと。ゆっくり暗示をかけるように説き伏せる。


 ああ、愚かだな。君がそんなに悲しい思いをしているのは俺のせいなのに、俺の言うことを真に受けて周りに怯えだしている。なんて愚かで愛おしいんだろう。



「俺は絶対に、味方だからね」



 駄目押しのように言い募る。


 俺だけを頼って、信用して、泣きつけばいい。そうすれば後は俺が全部消してあげる。

 君を泣かせる節操のない彼氏も、べたべたと纏わりつく女友達も、全て目障りだ。君と俺の二人。それでいい。



「うん……ありがとう」



 遠慮がちに笑う彼女の声に酔いしれる。

 ああ、早く。早く俺を選んで。俺がいなければ、息もできなくなればいい。


 次の日から、彼女はその目に怯えと疑念を映し始めた。完全に疑うことができないのが、また彼女の人の良さを表している。



「羊ちゃん」



 彼女が一人になったところへ、狼谷が近付いていった。

 先を越されて歯痒かったが、陰から様子を窺うことにする。



「クリスマス、会える?」



 突然投下された誘い。

 それまでおおよそ俺の希望通りに進んでいた会話の流れが、がらりと変わった。



「ていうか、会って欲しい。ちゃんと、それまでにけじめつけるから」



 言い切った彼の声色は硬く、それでいて誠実だ。

 同じ男として何となく察しがついた。手放したい相手にこんな対応はしない。何か彼は、踏み出そうとしているのだと。



「十七時に、駅前の広場で待ってる」



 そう告げた狼谷は、彼女に背を向けて歩き出した。


 今更引き返すのも不自然でその場に留まっていると、俺に気付いた狼谷が顔を上げる。



「……聞いてた?」


「あ――ああ、悪い。うん、ちょっと」



 沈黙が落ちる。狼谷は立ち去る気配もなく、ただ俺を見つめていた。



「坂井」



 真っ直ぐな視線に射抜かれる。その瞳は黒いはずなのにどこか透き通っていて、光を取り込み輝いていた。

 こいつはこんなに綺麗な目をするやつだっただろうか。否、少なくとも、彼自身が「太陽」に照らされる前は、もっと濁っていたはずなのだ。



「一つ、お前に頼みたいことがある」

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