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能ある鷹は爪を隠す5

 


「あ、あった……!」



 机の中を覗き込んで声を上げた私に、坂井くんが「ほんと? 良かった」と息を吐く。


 坂井くんのおかげで資料室から出られた私は、スマホを探しに教室へやって来た。心配だからついていくよ、という彼の申し出に甘えることにして、いま無事にそれを発見したところだ。



「でも、机に入れた記憶なんてないんだけどなあ……」



 ましてや、鞄から出していないはず。

 今日の自分の行動を朝から順に脳内で辿っていると、坂井くんが口を開く。



「うーん、教科書とかと一緒に紛れ込んじゃったのかもしれないね」


「そうだよね……うん、見つかったから良かった。ごめんね、付き合わせちゃって」


「ううん。帰ろうか」



 微笑む彼に頷いて、緩慢に立ち上がった。


 薄暗い廊下や階段はやっぱり気味が悪かったけれど、一人じゃないというだけで幾分かマシで、もし彼が来てくれなかったら本当にここで夜を越していたんだろうか、と身震いする。



「坂井くん、本当にありがとうね」


「お礼はさっきも聞いたよ。気にしないで、白さんは悪くないんだから」


「うーん、でも坂井くんが来てくれなかったら――」



 下駄箱からローファーを取り出し、その場に固まる。

 靴の中。見覚えのない、折りたたまれた白い紙が入っていた。



「……白さん? どうしたの」


「え? あ、ああごめんね、何でもないよ」



 さり気なくそれを片手で回収して、へらりと笑ってみせる。

 しかし坂井くんは怪訝そうにこちらを凝視していた。



「白さん。それ、何?」



 誤魔化せなかったらしい。

 彼は目敏く私の右手に握られたものを指し、端的に問うてきた。



「ううん……? 何だろうね、私もいま見つけたから分からなくて」


「貸して」


「えっ」



 坂井くんが手を差し出す。恐る恐るその上に託すと、彼はゆっくり慎重に開いていった。


 瞬間、彼の顔が強張る。



「坂井くん?」



 様子がおかしい。彼の手元を覗き込んだ。



「え?」



 何本も引かれた黒い線。感情の荒ぶりをそのまま筆に乗せたかのような、物々しい字面。



「……見ちゃだめだ」



 坂井くんが我に返ったようにその紙を自身の胸元に引き寄せ、静かに首を振る。


 何、今の。

 全身から血の気が引いていく感覚。脳が警鐘を鳴らしていた。



『消えろ』


『邪魔』


『役立たず』



 数秒見ただけでも圧倒された、雑言の数々。

 きっと意味を理解できていなかったにせよ、直感で分かったはずだ。


 明確な悪意を持った、贈り物だったと。



「……はは、もう……今日ほんと、ついてないなあ……」



 誰かが間違って入れたのかもしれない。それもそれでどうなのかって話だけれど。

 ああ、それかあの人かな。此花さん。疑いたくないけれど、思い当たるのは彼女くらいだ。

 でも、だって。そうじゃなきゃ、誰が入れたのって話で。



「白さん……」



 坂井くんが困ってる。何か言わなきゃ。



「私……私、そんなに何か、したかなあ……」



 恨み買うようなこと。憎まれるようなこと。

 人一倍、気を遣って嫌われないように生きてきたのに。ずっとそうやって、誰からも嫌われずに過ごすことが私の取り柄だったのに。


 自分が優柔不断なのは一番自分が分かっている。他人からの視線に過敏になって、感情を上手く吐露できないことも。


 本当は雑用も委員会も勉強も、したくなんてないよ。頼まれても嫌って言えないのは、必要とされているみたいで安心するのと、嫌われるのが怖いから。ただそれだけ。

 むかむかしても、いらいらしても、自分が我慢すれば円満に終わる。だからなるべく笑って受け流してきたのに。



「全部、意味なかったのかなあ……」



 結局こんな風に思われちゃうんだったら、我慢も何も、する意味なかったんじゃないの。


 いい人じゃないよ。真面目とか、穏やかとか、みんなそう言うけれど。私、全然上手くできてない。

 みんなに好かれたいだけ。特に秀でた部分もない。つまらない、面白くない、そう言われるのが怖くて、便利屋を買って出てるだけ。


 大好きだった人たちにも見放されてしまったら、私は一体、どうやって頑張ればいいんだろう。



「意味なくなんて、ないよ」



 小さいけれど、芯のある声だった。


 顔を上げる。坂井くんは変わらず私を見据えていて、まるで自分が非難されたかのように、辛そうに顔をしかめていた。



「そんなことない。白さんが頑張ってるの、知ってるよ。いつもみんなのために考えて動いて、本当にすごいと思ってる。少なくとも、俺はそう思う」



 冷え切った心臓が、少しずつ温まっていく。

 すごいよ、偉いよ。そう繰り返す坂井くんに、拾い上げてもらったような心地だった。


 さっきまで散々泣いていたのに、また涙腺が緩んでくる。唇を噛み締めて、溢れないように必死に堪えた。



「……もう、誰を信じていいのか、分からなくなっちゃうよね」



 床を睨んで感情を抑えていると、唐突に彼が言った。


 え、と自分の喉から気の抜けた声が出て、その後に坂井くんが続ける。



「こんなに立て続けに、色々あるとさ……西本さんも、九栗も……あんなに白さんと仲良くしてたのに、」


「ち、違うよ、二人はそんなんじゃないって……思う……」



 多分、色々と誤解やすれ違いがあったんだと思う。

 きっとそうだ。そうじゃなきゃ、私は。



「……うん。もちろん、白さんの気持ちも分かる。でも……信じすぎちゃうと、白さん自身が危ないかもしれない」


「どう、いう」


「現にこうして危ない目に遭ってるわけだからね……残念ながら、偶然とも思えないし」



 信じすぎるのが危ない? じゃあどうしたら。

 みんなを疑いたくなんてない。そんなことをする人たちじゃないって、もちろん分かってる。



「大丈夫。俺は一応色々見ちゃった立場だし、話ならいくらでも聞けるし……白さんが悪くないのも、ちゃんと全部分かってる」


「坂井くん……」



 彼は一歩こちらへ近づくと、弱々しく、労うように笑いかけた。



「俺は絶対に、味方だからね」





 ***





「羊ちゃん」



 背後から声を掛けられ、肝が冷えた。

 恐る恐る振り返る。こんなにまじまじと真正面から彼の顔を窺うのは久しぶりな気がして、その表情は硬かった。



「あ……ご、ごめんね。昨日、電話出られなくて……」



 ずっと目を合わせているのも何となく気まずくて、思わず視線を逸らす。


 昨日。昨日は、厄日だった。

 結局坂井くんとそのまま一緒に帰って、疲れ切って早々に寝てしまった。


 玄くんとは毎晩一応電話はしていたけれど、最近お互いぎこちないし、彼はバイトの後で眠たそうだし、会話なんて弾むわけもなく。昨日も彼は夜までバイトで、終わった後に電話を掛けてくれたんだろう。朝起きたら着信履歴が残っていた。



「ううん、大丈夫」



 彼は緩く首を振って、切れ長の目を伏せた。

 咎めるわけでもない。理由を聞くわけでもない。だったらどうして、わざわざ話しかけてきたのか。


 昼休みの、あまり人気のない非常階段。

 少し一人の時間が欲しくて、購買に行ってくるという口実でここにやって来た。物凄くゆっくり、一段一段踏みしめるように下っていたところを、彼に呼び止められたのだ。



「……何か、あった?」



 嫌な沈黙を破ったのは、彼だった。



「え?」


「いや……今日、朝からずっと様子おかしかったから。昨日、とか。何かあったのかなって」



 彼の顔をじっと見る。


 何かあった? 様子がおかしかったから?

 確かに、それは間違っていない。私の変化に気付くくらいには、彼は私のことを気にかけてくれている。

 それは分かった。分かったよ。だったら、どうして。



「なに、それ……」



 誰のせいでこんなに悩んでると思ってるの。泣きたくなるくらい、実際泣くくらい。誰のせいで。



「玄くんが……」


「え?」


「玄くんが、もう、分かんないよ……!」



 気に入らないことがあるならそう言えばいいじゃない。嫌だから直して、とか、今は忙しいからそっとしておいて、とか、言葉にしてくれれば私だってこんなに困ってないよ。


 突然声を張り上げた私に、彼はひたすら戸惑っているようだった。


 またお互い黙り込んで、喧騒が遠く聞こえる。



「ごめん……」



 消え入りそうな声。酷く気落ちした謝罪が耳朶を打った。



「ごめん。俺が悪いよな……分かってる。ほんと、嫌になるよ……」



 自嘲気味に零して、彼はきつく眉根を寄せる。

 でも、と何か言いかけて、その続きは聞けなかった。


 階段の下と上。微妙に空いたこの距離が、今の私たちを物語っている。



「羊ちゃん」



 彼が深く息を吸い込むのが分かった。

 つられるように私も顔を上げて、真っ直ぐな視線とぶつかる。



「クリスマス、会える?」



 その日は幸か不幸か、今年は土曜日だ。終業式はその前日で、クリスマス当日、街はカップルで賑わうことだろう。

 幸せな顔をした男女の中を、このまま煮え切らない自分たちが歩いていて楽しいだろうか、とマイナス思考になってしまう。



「ていうか、会って欲しい。ちゃんと、それまでにけじめつけるから」



 頭が、真っ白になった。



「けじめ……?」



 けじめって、何。どういうこと。

 気持ちの整理? 取捨選択? それはつまり、――もう終わろうってこと?



「十七時に、駅前の広場で待ってる」



 ろくに返事もできないまま、彼は一方的にそう告げて背を向けた。

 遠ざかっていく足音をどこか他人事のように聞きながら、その場に立ち尽くす。


 人間、本当に衝撃を受けたら、何も感じないんだなと思った。

 悲しい。苦しい。辛い。全部抱えているはずなのに、白く抜け落ちてしまったかのように心は空虚で、廊下の空気がただただ冷たかった。

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