朱に交われば赤くなる2
「眞鍋〜! そっち行ったぞ!」
「はいはい任せてー!」
手を挙げて軽く伸び上がるあかりちゃんの元に、サッカーボールが飛んでいった。
彼女は太腿でそれを受け止めて、素早くゴールへ向かう。
ゴールデンウィークも終わって、少し日差しが眩しく感じる時期になってきた。
放課後、学校近くの広い公園でこうして体を動かすと汗が滲むくらいには暖かい。
球技大会が今月末に行われるということで、各々休み時間に練習したり、放課後暇な時に集まったりしている。
男子の種目はサッカーとバスケで、女子はバレーと卓球。
私はカナちゃんやあかりちゃんと一緒にバレーをやることになったけれど、あまりにもポンコツすぎてバレー部の子に指導を乞うことになった。
「ちょっとだけとか言ってたけど、普通に試合に混じっちゃってるよね、あかり」
カナちゃんが隣で少し呆れたように息を吐く。
元々アグレッシブなところもあって、あかりちゃんはすんなりと男子の輪に溶け込んでいた。
短く切り揃えられた髪の毛が楽しそうに揺れている。
「まあ眞鍋さんはバレーも上手だったから、問題ないけど……」
苦笑してそう述べたのは、バレー部の九栗さんだ。
彼女の言葉に、私は思わず「うっ」と声を漏らす。
「ご、ごめんね……私、ほんとに使い物にならなくて……」
さっきからトスをあげてもらったり、サーブを打ったり、その度にボールがあっちこっちへ飛んでいってしまう。
九栗さんは、あはは、と首を振った。
「いいんだよ、できないから練習してるんだし。私もさっきのトスうまくあげられなくてごめんね〜」
「と、とんでもない! 頑張ります……」
温厚な彼女に感謝していると、奥のコートから男子の騒ぎ声が聞こえてきた。
確かあっちではうちのクラスの男子がバスケの練習をしていたはずだ。
ちょうど一試合終わったところのようで、みんなが散り散りになって座り込んだり水分補給をしたりする様子が伺える。
何やら大きな声で心底愉快そうに友達と笑っているのが津山くんで、そこから少し離れたところで一人ペットボトルを煽っているのが狼谷くん。
「だーれ見てんの?」
「えっ」
突然横から問いかけてきたカナちゃんに、心臓が跳ねる。
狼谷くんは普段から着崩している制服のネクタイをさらに緩めていた。
ボタンもいつもは一つだけなのに、今は二つ外している。
肘のところまで雑に腕まくりをしていて、白い肌が目を引いた。
「あー、でも分かるな。うちのクラスの男子顔がいいから、ついつい見ちゃうよね」
頷きながら九栗さんが指先でくるくるとバレーボールを回す。
器用だなあ、と見入っていると、カナちゃんが声を上げた。
「あ、ごめん! 私もう帰らなきゃ」
今日弟の誕生日なんだよね、と補足して手を合わせる彼女。
そういえば前に弟がいるって聞いた気がする。
カナちゃんが帰った代わりに、散々サッカーを満喫したあかりちゃんが戻ってきて、練習が再開した。
必死にボールに食らいついていたらいつの間にか空がほんのりと暗くなっていて、お終いにしようか、と腕をさすったのは九栗さんだった。
それを見て、自分の腕もじんじんと痛むのを思い出す。
バレーをやったあと特有の青あざができていた。
「お疲れ様!」
「うん、今日はありがとう!」
九栗さんはすぐそこにとめてあった自転車に乗って、手を振りながら漕いで行った。
「羊はバスだっけ?」
「うん、そうだよ。あかりちゃんは自転車?」
「そー」
手に持っている鍵を掲げて、あかりちゃんが気の抜けた返事をする。
「じゃあまた明日ね、夜道気を付けて!」
「あはは、バス停すぐそこだから大丈夫。じゃあね」
友達を全員見送って、さてと、と時間を確認する。
バスの時刻表と見比べて、顔をしかめた。
「あちゃー……」
次のバス、三十分後だ……。
部活が終わる時間にしては早すぎるし、何もない日にしては遅すぎる。
この微妙な時間帯のバスは、他の時間帯よりも本数が少ない。
仕方ない、公園のベンチにでも座って待ってよう。
明日までの課題はあったっけ、と首を捻っていた時だった。
「帰んないの?」
前方から飛んできた声に顔を上げる。
コートの方から歩いてきたのか、狼谷くんがブレザーを肩にかけてこちらを見ていた。
「狼谷くん……お疲れ様」
「ん、お疲れ」
男子も今終わったようだ。
自転車のかごにリュックを放り入れる人、タオルで汗を拭う人、そして目の前には狼谷くんがいる。
「バスの時間がなくて……今待ってるところ」
「そうなんだ」
平坦な声でそう返した狼谷くんは、そうするのが当たり前かのように私の隣に腰を下ろした。
えっ、と思わず口から漏らした私に、彼は視線を寄越してくる。
「羊ちゃんさ、」
「え、う、うん」
「さっき俺のこと見てたでしょ」
こないだの優しい笑い方とも、幼いえくぼの覗かせ方とも違う。
ちょっとだけ揶揄うような意地の悪いそれに、私は口を尖らせた。
「見てないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないもん」
何だかよく分からないけれど、今は意地を張りたい気分だ。
「……下手くそ」
「え?」
「羊ちゃん、嘘つくの下手だね。目ぇ泳いでるよ」
指摘されると逃げ場がない。
私は「うーん」とわざとらしく仰け反って、降参することにした。
「バレちゃった?」
へへ、と私が間を持たせるためにだらしなく笑うと、狼谷くんはほんの少しだけ眉尻を下げる。
「頑張ってたね。ドリブル綺麗だなあって、目で追いかけちゃったよ」
「ドリブル?」
シュートじゃなくて? と聞こえてきそうな返事だ。
不思議そうな顔で瞬きをする彼に、私は頷く。
「離したボールが地面に跳ね返る時ね、狼谷くんの手に吸い付いて戻るように見えるの。ぽんぽん、じゃなくて、ふわふわ、っていうか」
確かにシュートを決めている時はかっこいいけれど、私はドリブルをしている時の方が好きだ。
彼の几帳面なところが現れているというか、丁寧にボールを扱っている気がして、優しいドリブルに見える。
「なんていうのかな……指先まで魔法がかかったみたいだったんだ。ボールがね、やったあ! って、喜んでるみたいな」
言いたいことの三割も伝わっていないような気がする。
拙い言葉で精一杯喋ってみたけれど、何が何やらって感じだと思う。
「……うん」
狼谷くんは穏やかに相槌を打って、何かを堪えるように目を細めた。
「よく見てるね」
形のいい唇が動いて、嬉しそうに口角が上がる。
それなのに、今にも泣き出してしまいそうな色を瞳に秘めていた。
思わず惹き込まれて、誤魔化すように視線を逸らす。
「……そ、そうかな。みんな狼谷くんのこと、見てたと思うよ」
今日じゃなくたって、公園じゃなくたって。
狼谷くんはいつも憧憬や恋慕のレーザービームを浴びている。
「うん。見てるよ。……でも、多分見てないんだ」
なぞなぞみたいな彼の言葉に、脳内ではてなマークが量産されていく。
狼谷くんはその横顔に影を宿すと、手を組んで言った。
「誰も俺のことなんか見てないよ」
小学生も中学生もいない、遊具だけが取り残された公園。
狼谷くんの声がよく響く。
道端のダンボール箱に捨てられた子犬を見かけてしまった時、こんな気持ちになるんだろうか。
きつく握られた彼の手を溶かすように、私は自分の手を重ねた。
「私が見てるよ」
彼の周りにだけ雨が降っている。
いま傘を差し出せるのは私だけで、そうしなければいけないと思った。
「……本当に?」
酷く不安そうに聞いてくる狼谷くんに、私はすっかり俯いてしまった彼の顔を覗き込む。
「うん。本当に」
ゆらゆらと彼の瞳が揺れている。
「……じゃあ、さ。羊ちゃんは、ちゃんと見てくれるの?」
真っ直ぐな視線が私を射抜いた。
まるで縋るようなそれに、体が震える。
「俺のこと、ちゃんと見て、褒めてくれるの? だめな時はだめって、叱ってくれるの?」
すり、と彼の指が私の手の甲を撫でた。
反射的に引こうとした手首ごと掴まれて、僅かに彼の方に引き戻される。
「狼谷く、」
「ねえ羊ちゃん。ちゃんと俺の目、見て」
狼谷くんは真剣だった。
だけどそこには期待と諦めが入り交じっていて、どこか仄暗い。
随分久しぶりに、彼を怖いと思った。
どういった種類の恐怖かは定かじゃない。
自分の本能の部分がしきりに警鐘を鳴らしているような気がして、なぜか腰が引けた。
「俺のこと、ちゃんと見てくれる?」
ここでノーと答える選択肢は、用意されていないだろう。
とにかく解放されたくて、私は黙って何度も頷いた。
狼谷くんは私の手を握る力を一層強めて、小首を傾げる。
「羊ちゃん、言ってくれないと、分かんない」
「え、……あ、」
「言って……?」
何だか泣きたくなってきた。
さっきまで私が狼谷くんを励ましていたはずなのに、どうしてこうなってしまったんだろう?
いつの間にか形勢逆転されている。
恐る恐る狼谷くんを見上げて、私は口を開いた。
「え、えっと、」
「うん」
「……狼谷くんのこと、ちゃんと見てるよ」
言ったそばから恥ずかしくて、顔から火が出るかと思った。
頬が熱くて、辺りが薄暗くて助かったな、と安堵する。
「これからも?」
「う、うん」
「これからも、ずっと?」
念押しをされて、きっとこれも言わないと終わらないんだろうなと悟った。
「これからも、ずっと……狼谷くんのこと、見てるよ」
語尾が震える。
もう何が何だかさっぱりだ。
視界がぼやけて、初めて羞恥で涙が溢れそうになった。
「……ん」
狼谷くんが心底満足そうに微笑む。
ふやけたような笑顔に、ぎゅ、と心臓の奥が縮んだ。
「羊ちゃん、泣かないで」
まだ零れてないから、セーフだと思う。
唇を食いしばって、気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。
そんな私を弄ぶように、狼谷くんはもう一度私の手を撫でた。
「ひゃっ……」
ちょっとくすぐったい。
びっくり半分、抵抗半分で彼へ視線を投げる。
狼谷くんはすうっと目を細めて、頬を緩めた。
「――言質、取ったよ?」
喉の奥で悲鳴を上げる。
逃げなきゃ、と腰を上げた私の手を、狼谷くんは案外容易く手放した。
「え、えと、バス来ちゃうから行くね! また明日!」
早口でまくし立てて走り出す。
途中、魔が差して振り返った時に見た彼の瞳は、夜闇のように暗く光っていた。