惚れた病に薬なし5.5―Wataru Inukai―
みんな、勘違いをしている。
自分の立場が上だと思い込んで、頼まれて「あげる」と胸を張るのだ。
でもそれは違う。
「お母さぁん、あれ買って」
「もう、しょうがないわね。今回だけよ」
欲しい物があれば強請ればいい。
「センパイ、奢って下さいよ〜」
「しゃーねーな! 今日は俺が出すから」
無いものは借りればいい。
どうすれば相手が頷くのか、自尊心が擽られるのか。それを無意識のうちに分かっていたらしい自分は、「お願い」が上手だった。
主導権を握っているのはいつだって僕だ。それに気付くことなく首を振る馬鹿の、なんと多いことか。
図々しい? 生意気?
別に何も悪いことはしていないじゃないか。相手だって喜んで尽くしてくれるのだから。
頼み事をする時は申し訳なさそうにして、頭を下げる。そんなことは誰が決めた?
綺麗事だ。欲と煩悩に塗れたものを精々外面は取り繕おうとした、日本人の時代錯誤。
「大丈夫?」
人気のない放課後。その声は廊下からだった。
うずくまっている女子生徒は自分と同じ新入生。その横で背中をさすり、声をかけているのは上級生だろう。
心配そうな表情で「どこか痛いの?」、「気分が悪い?」と懸命に問いかけ続ける上級生は、じっと見つめる僕の存在に気が付いたのか、唐突に顔を上げた。
「あっ……ごめん、そこの君!」
切羽詰まった声色から、人の良さが滲み出ていた。
真ん丸の綺麗な瞳がこちらを真っ直ぐに射抜く。
「お願い! 今すぐ保健の先生呼んできてもらえないかな……?」
彼女の縋るような視線と、下手に頼み込む口調。必死に手助けを乞う様に、目から鱗が落ちたような衝撃を受けた。
こんなに慈悲深く、美しい「お願い」が存在するのか。自分のためではない。紛れもなくただの他人のために、いま彼女は主導権を僕に預けている。
――彼女が頼む側なのにも関わらず。
「はい。分かりました」
「ありがとう……! お願いします!」
それが、白先輩と初めて交わした会話だった。
***
「狼谷せんぱーい」
階段を下る背中に、わざとらしく声を高めて投げかける。
顔だけ振り返った男の眉根は、迷惑そうに皺が寄っていた。
「何」
「そんな怖い顔しないで下さいよぉ。僕これでもあんたには感謝してるんですから」
綺麗で尊い白先輩に、ここ最近寄り付く穢らわしい男。夏休み明けに降って湧いた噂は、こいつと白先輩が付き合っているというものだった。
意味が分からない。有り得ない。
白先輩は誰にでも平等に優しい、女神のような人だ。何を勘違いしたのか知らないが、外野が勝手に騒ぎ立てて吹聴したのだろう。全く、本当に不愉快だ。
これまで彼女の周りに男の影はなく、絵に書いたような清い高校生活を送る白先輩を、僕もずっと傍で見守ってきた。
みんな分かっていない。彼女がどれだけ高尚な存在なのかを。だから僕が守らなければいけないのだ。
どのみち先輩と過ごす高校二年間、何の邪魔も入らずに終わるとは思っていなかった。まあ流石に、最初に駆除するのがこれほど凶悪な害虫だとは予想していなかったが。
「感謝? 恨んでる、の間違いだろ」
は、と短く息を吐き出した男が苦く笑う。
皮肉を言ったわけではない。僕は本当に感謝しているのだ。
こいつに先輩との時間を邪魔された日、早急に手を打たなければならないと悟った。
次の日、すれ違いざまに「白先輩に寄るな」と忠告してやると、意外にも素直に従ってくれたのだ。
不服そうに僕を睨んだだけで返事はなかったが、行動に移してくれたようだから許す。同じ委員会ということもあって事務的な会話は交わしているものの、以前のように執拗にちょっかいをかけることは止めたようだ。
なんて効率の良い害虫駆除。これでまた心置きなく平穏な日々を送ることができるはずだった。
それなのに。
『狼谷くんをそんな風に言わないで!』
ここ数日、部活に顔を出さず塞ぎ込んでいる白先輩は、一人で静かに泣いていた。
彼女は心優しい。クズにも同情の涙を流している。
それなのに、なぜ。なぜこの男を庇う?
手当り次第女に手を出しては、冷ややかな目でせせら笑うこのクズを。気に食わないことがあれば殴って蹴って、人を見下すこの糞野郎を。
悪影響だ。白先輩に害を及ぼす猛毒。
可哀想に。先輩はきっと騙されているんだ。一刻も早く、僕が手を下さなければ。
「白先輩の前から消えてくれません? 穏便に」
彼女の中から完全にこの男の存在を抹消する。それが今為すべきことだ。
中途半端に引き離す程度ではだめだった。もう二度と先輩の視界に入らないよう、徹底的に排除しなければならない。
嫌だと言われたところで、こいつが先輩の前から消えるのは決定事項だ。自ら去ってくれるか、僕が根回しするかの違い。
この男の悪行は十分すぎるほど掴めている。上手く教師を言いくるめれば、退学処分だって難しくないだろう。僕が「お願い」するのだから。
「何か勘違いしてるみたいだけど、」
そう前置いた男は、ゆっくりと体を向ける。
「別に俺は『お前のために』彼女から距離を置いたわけじゃない」
は? と、自分の喉から声が漏れた。
切れ長の目がこちらを見つめている。
「今の彼女にとって最善だと思ったからそうしただけだ。消えようと何しようと、それが彼女のためになるなら言われなくてもそうする」
「……は、分かってんじゃないすか。だったら――」
「ただ、その判断は俺がする。お前の指図は受けない」
何なんだ、こいつは。僕が塵相手に頼んでいるというのに。
何が彼女にとって最善だ。彼女のためだ。そんなもの、ただ自分の欲求を表面的に取り繕っただけだろう。
「なにいい加減言ってんすか? そんなん、あんたが先輩から離れたくないだけでしょ」
本当に彼女のことを思うなら、身を引けばいい。まさか自分が彼女につり合うとでも思っているのだろうか。勘違いも甚だしい。
「ああ、そうだよ」
一際低い声だった。今の今まで隠し持っていた牙を向けるかの如く、男は鋭く僕を威嚇する。
「いつ俺が彼女を手放すと言った? 『今の』彼女にとって、こうするのが一番だからそうしただけだ。一生このままでいる気なんてねぇよ、毛頭」
俺が消えるのは、彼女が死んだ時だ。
最後にそう付け加えた男に、嫌悪で顔が歪む。まざまざと見せつけられた狂気ともとれる執着は、とことん気味が悪かった。
「……穢らわしい。醜いな」
耐えきれず呟くと、「お前にだけは言われたくない」と返ってくる。
その言葉を聞いて、頭に血が上った。
「はあ? 一緒にすんな。そんな汚い感情、先輩に向けるのなんて許されねぇんだよ」
「じゃあお前がいま俺に向けてるその感情は何なわけ。嫉妬じゃないの」
嫉妬? 笑わせてくれる。
お前と同じ土俵になんて立った覚えはない。僕が先輩に対してそんな感情を抱くわけがないだろう。
「ただの害虫駆除だ。白先輩をお前みたいなクズから守るためにこうやって――」
「そんなん、お前のエゴだろ」
瞬間、脳味噌を揺さぶられるような衝撃が僕の胸を突いた。
開いた唇から紡いだ空気が、微かに震える。
「……エゴ、だと?」
「外へ出さずに育てた生き物はすぐに死ぬ。免疫がついてないからだ。大事に囲ったはずなのに、邪魔な物を排除したはずなのに、長生きはできない」
「何の話をして、」
「てめえの話だよ、ガキが。みっともなく嫉妬してるくせに正当化してんじゃねえ」
つらつらと訳の分からない話を始めたかと思えば、男は突然語気を荒らげた。
階段の下から物騒な視線でこちらを責め立ててくる。意図せず背筋が伸びた。
「色恋沙汰なんて汚ぇもんなんだよ。お前も俺も、彼女もだ。まっさらな人間なんていない。全員汚くて醜い感情がある」
「白先輩を侮辱するなッ!」
ただでさえ腸が煮えくり返るほど、怒りに目の前が赤く染まっているというのに。
白先輩が汚い? 何を言っているんだ? こいつは頭がおかしいのか?
「侮辱してんのはどっちだよ。お前、さっきから何なの。気持ち悪いんだけど」
そう吐き捨てる男の顔は能面のように無表情だ。
「いいこと教えてやるよ。何でお前がそんなに俺が憎いのか、彼女を綺麗に守りたいのか」
たん、たん、と長い足が階段を上ってくる音がする。
その無機質な瞳は僕を捉えたまま。ふと男の顔が傾いて、耳元で冷酷な声が告げた。
「お前が彼女を女として見てるからだよ」
強い拒絶反応が全身を駆け巡る。
眼前の肩を突き飛ばそうと反射的に上げた腕を、男の手に止められた。その指が食い込み、痛覚を伝えてくる。
「お前は彼女が好きなんだ。だから俺に嫉妬した。彼女を自分だけのものにしたくて、俺を排除しようとした」
違う。僕がそんな浅ましい感情を先輩に対して抱くわけがない。
先輩は美しいんだ。綺麗なんだ。好きだなんて、そんな色恋の縺れを持ち込むことは許されない。
「離せ」
「いい加減認めろよ。お前の綺麗事は、ぜーんぶ机上の空論だ」
「離せっ!!」
叫んで腕を振ると、ようやく解放された。
男は涼しい顔で僕を見下ろしたまま、淡々と述べる。
「まるで癇癪起こした子供だな」
その、顔が。どこまでも蔑むような目が。一つひとつが、全て、気に障る。
「うるさい――うるさいうるさい! お前なんか白先輩につり合わないんだよ! 大体、女なんて腐るほどいるくせに……自分の女くらい、自分のテリトリーで見繕えよ! こっちに踏み込んでくるな!」
肩で息をしながら吐き出すと、沈黙が辺りを包んだ。
やけに静かな空気に不気味さを感じて顔を上げる。
その瞬間、息を呑んだ。
「――ああ、いま嫉妬しちゃったね。犬飼クン」
本能的な恐怖が、疾風のごとく全身を駆け抜ける。
うっそりと口角を上げる男に、目を見開いて固まった。
がらがらと音を立てて、自分の中の積み上げてきたものが崩れていく。
嫉妬。僕が先輩を好き。エゴだった。違う。違う違う全部違う。
僕は間違ってない。だって先輩は僕が守らなければいけないんだ。僕が、先輩を――
先輩を、囲っておきたかった?
「……邪魔を、するな」
そうだ。僕と先輩以外、この世界に必要ないじゃないか。それ以外は全部邪魔だ。だから排除するんだ。
先輩しか目に入らない世界。ああなんて素敵なんだろう。きっと綺麗に違いない。
「僕と先輩の邪魔をするな。塵屑野郎が」
心底煩わしい。憎たらしい。鬱陶しい。
こいつを排除するのもそうだが、白先輩にきちんと僕しかいないことを教えてあげなくては。
「……いい目になってきたじゃん。上等」
そう挑発して勝気に笑った男の視線が逸れる直前、細めた目に寂寞の色が滲んだ気がした。




