惚れた病に薬なし1
「せーんぱい。考え事ですか?」
視界の横から、ひょこっとココア色の髪の毛が現れる。柔らかそうなその表面に、陽の光が反射していた。
彼の指摘通り、私はどうやら物思いにふけっていたらしい。
その証拠に、パレット上の絵の具の表面が少し固まっていた。
「あ……うん、ちょっとね。どうかしたの?」
ぼーっとしている間も、筆はきちんと握っていたようだ。
色付け途中の作品には変な跡も残っていないし、自分は随分お行儀よく静止できていたことが確認できる。
目の前で無邪気な笑顔を浮かべる犬飼くんに、私はようやっと我に返った。
「ほら、前に言ったじゃないですか、アドバイス貰いたいって。でも白先輩、今日部活来てからずっと上の空なんで」
「そ、そうだったね……ごめん……」
彼とは学年が違うのにも関わらず、廊下ですれ違うことが多い。部活の時ならきちんと見てあげられるから、とつい先日言い渡したばかりだった。
「あのですね。ここのタッチっていうか、材質を表現するにはどうしたらいいかなってずっと考えていて」
自分の作品を机に広げた犬飼くんは、隣に腰を下ろしてくる。
彼の人差し指に従って視線を下に向け、私は「うーん」と首を捻った。
正直言ってしまうと、犬飼くんは私よりも断然美術の才能がある。というか、ここにいる部員全員――部長を除いて――彼には及ばないと思う。
だから私は今まで犬飼くんに「アドバイスなら部長に貰った方がいいよ」と散々言ってきたのだ。その度に彼は決まって首を振った。
「僕、白先輩の絵が好きなんです」
真っ直ぐな瞳でそう言われてしまうと、悪い気はしないのが先輩というもので。
自分は何一つ人より秀でているものはないと思っていたし、絵に関してもそれは変わらないと思っていた。だけれど、初めてはっきり認めてくれたのが犬飼くんだったのだ。
彼は特に私に懐いてくれているようで、その様子を「ご主人様に尻尾を振る忠犬」だと揶揄されることもしばしばある。分からなくもない、と言ったら怒られるだろうか。
でも犬飼くんはいつも私を見かけたら満面の笑みで手を振ってくれるし、絵の感想で褒めてあげると物凄く嬉しそうに目を輝かせる。
素直で可愛いなあ、と常日頃思わずにはいられない後輩なのだ。
「あえて濃くするのもありかなって思うよ。濃くっていうか……明暗をはっきりさせるっていうか……」
長考の後にそう伝えてみる。
なるほど、と長い睫毛を伏せて頷いた彼は、私の意見を咀嚼しているようだった。
と思いきや、次の瞬間、勢い良く拳を胸の前で握る。
「ありがとうございます、ちょっとやってみます!」
そして犬飼くんが立ち上がり、腕を自身の作品に伸ばしたと同時。
「あ、」
ばしゃ、と無慈悲な音が響いた。机の上に置いていた筆洗がものの見事に倒れている。
溢れ出た水はたちまち広がって、すぐそばにあった犬飼くんの作品が浸水してしまった。
「うわ! どうしよ、やっちゃった……!」
彼が慌てて身を引く。
そう。犬飼くんが憎めないのは、こういったドジな一面もあるからだ。
本人にしてはかなり悲惨な状況に陥ることがほとんどだけれど、癒されてしまうというか、ついつい世話を焼きたくなる。
近くに乱雑に放り投げてあった雑巾を手に取り、私は急いで水を拭き取った。
「大丈夫? 制服濡れてない?」
「わっ、すみません! 僕が拭きますから……!」
わたわたと焦ったように声を上げ、彼は必死に謝る。
あまりにも健気で、少し笑えてきてしまった。
「大丈夫だよ。私もごめんね、こんなところに置いといて」
「白先輩は悪くないです! 僕がいけないんで……」
と、日本人らしく謝り合ったところで。
「……犬飼くん、作品は無事?」
「ええと、」
私の問いかけに、彼は視線だけずらす。
淀んだ水を思い切り受け止め、完全にふやけきったただの画用紙がそこに鎮座していた。
「修復は……無理そうだね」
う、と鳩尾をつつかれたような声で肩をすくめた犬飼くんは、「ですね……」と同調する。
「うわ、どうしたのこれ? びしょびしょじゃん」
水を汲みにいくところだったのか、カナちゃんが私の作業していた机を通りかかった。
そして水を吸い込んだ一枚の紙を視界に入れると、同情の眼差しを向けてくる。
「今から描き直しか……お疲れ」
その言葉がとどめだったのか、犬飼くんは項垂れてしまった。
悲壮感と絶望感の漂う雰囲気に、今回ばかりは癒されるなんて次元ではない。同じ美術部員としてこの辛さは分かるし、さすがに可哀想だ。
「はあ……間に合うかなあ……」
彼は頭を抱えてそう零す。
「あの、犬飼くん。……何か、手伝おうか?」
「え?」
「いや、なんというか……私にも若干責任があるし……」
目の前で事故現場に遭遇して、そのまま帰宅するのは何だか後味が悪い。警察に色々話を聞かれて、協力したらその後味の悪さが軽減されるのと同等。
ほんの少しの罪滅ぼしのような、そんな気持ちだった。
「…………白先輩から、言ってくれるなんて」
呆けたように呟いた犬飼くんに、「うん?」と耳を傾ける。
彼はゆるく首を振ると、いつもの人懐っこい笑みで喜んだ。
「いえ、ありがとうございます! 正直めっちゃ不安なんで、お願いしたいです……」
「うん。私が出来ることであればできるだけ協力するよ!」
私が言うと、犬飼くんはつぶらな二重を潤ませる。
「白先輩……まじ女神……」
「えっ!? いやいや、そんな大袈裟だよ……!」
目が合った。
途端、彼の瞳孔が縮まって、まるで太陽を見てしまった時のように瞼が下りる。
「大袈裟なんかじゃないです。……僕は本当に、白先輩を尊敬してるんですよ」
噛み締めるかのようにそう告げた犬飼くんは、清々しい表情で顔を上げた。
「それじゃあ、明日からご指導お願いします。白先輩」
「え? 明日……?」
「はい。毎日やらないと間に合わないので! せっかく美術室開けてくれるそうですし」
それもそうか、と頷いて私は苦笑する。
つい先程不遇なことが起きたばかりだというのに、随分切り替えが早いなあ、と心の中でそんな感想を抱いた。
***
疲れた……。
ぐだ、と廊下の壁に体を預け、私は一人ため息をつく。
朝や午後はクラスの準備、放課後は委員会の仕事、それからさっきまでは部活の作品づくり。
想定はしていたにせよ、いざこなすとなると肉体的にも精神的にもくる。
美術室にはまだ部長や他の人が残っていて、さすがに集中力が途切れた私は早々に退散した。
犬飼くんは「僕も帰ります」と立ち上がったところを、「君は死ぬ気でやらないと終わらないでしょ」と部長に引き戻されていたけれど。
『白先輩……僕を置いて帰るんですか!』
私が帰る直前まで駄々をこねていた彼は、みんなから「またか」といった目で呆れられていた。犬飼くんの幼児退行は見慣れている。
『ごめんね、明日はちゃんと最後まで付き合うから』
『約束ですよ!』
頬を膨らませる仕草が本当に幼子のようで、思わず手を伸ばしてしまった。ふわふわの髪の毛を撫でようとした寸前で我に返った私に、犬飼くんは不満げで。
『……撫でてくれないんですか?』
寂しそうに眉尻を下げられると、こちらが悪いことをしたような気分になった。
恐る恐る彼の髪に触れようとしたところで、犬飼くんが私の手の平に自ら頭を押し付けてきた。
『もー、犬飼くん……はしゃぎすぎだよ……』
『白せんぱぁい……』
甘えるような声で私を呼ぶ声に、一瞬驚いてしまう。
『はーい、君はこっち。じゃあね、白さん。お疲れ様』
『あ、はい……お疲れ様です……』
部長が犬飼くんの襟元を掴み、あっさりと引き戻した。
かくして私は無事に帰宅ルートを確保できたわけだ。
いつまでも立ち止まっているわけにもいかず、ゆっくりと歩き出す。
下駄箱の近くに差し掛かったところで、人影が見えた。
こんな中途半端な時間に誰かがいるなんて珍しい。まあでも今は文化祭の準備もあることだし、熱心なクラスだったら遅くまで作業をしているのかも。
そこまで考えて、さらに近付いた時。
「だって、……じゃん!」
女の子の声だろうか。高めのトーンが非難じみた音を発している。
どうやらそこにいたのは一人ではなかったらしく、会話が断片的に聞こえてきた。
「私は……だったのに、違うの?」
運が悪いことに、彼女たちがいるのはちょうどうちのクラスの下駄箱があるところだった。息を殺して帰ろうにも、靴を取れないのならどうしようもない。
うーん、不可抗力。申し訳ないけれど、なるべく聞かないようにして待たせてもらおう……。
潜伏を決めて、私はその場に立ち止まった。
バスの時間はまだ大丈夫だろうか、とスマホを起動させようとした刹那。
「知らないよそんなの。……でしょ」
まさか。
どっ、と急に心臓が早鐘を打ち始める。
好奇心に負け、私はほんの少しだけ様子を窺った。
長い足。ポケットに突っ込まれた両手。銀の、ピアス。――狼谷くんだ。
それだけ確認して、慌てて身を隠す。
見てはいけないような気がした。聞いてはいけないような気がした。
それなのに、なぜか足が縫いつけられたように動かない。ばくばく、と心臓は容赦なく自身の焦りを伝えてくる。
無意識のうちに胸を押さえて、静かにしゃがみ込んだ。
『本命? いないよそんなの』
以前の狼谷くんの言葉が脳裏をよぎる。
きっと今もそうだ。女の子とこうして話しているのも、それ以上の関係を持つのも。
彼にとってはそれが当たり前で日常。今更何だというのか。
狼谷くんはそういう人だ。元々全く交わるはずのなかった人。
たまたま、偶然。委員会が同じになって、優しくしてもらって、友達になれて。
それで十分なはずだ。私は一体、何を勘違いしていたんだろう。
『だから、深入りしない方がいいよ』
大丈夫。大丈夫だ。
今まで通り、普通に接していれば問題はない。まだ戻れる。
――戻れる?
戻るって、どこに。何を。じゃあ私は今どこにいるっていうの。
分からない。ここ数日、ずっと考えていた。
狼谷くんとの接し方が、距離が、正解が分からない。
「羊ちゃん?」
「ひゃあっ」
頭上から降ってきた声。飛び上がった私に、狼谷くんは問うてきた。
「何でここに……っていうか、いつから……」
珍しく険しい表情だったので、聞かれちゃまずいことでも話していたんだろうか、と不安になる。
ともかく身の潔白を証明しようと、私は声を張った。
「ご、ごめんね! またこんな感じになっちゃって……でも、あの、ほんとに全然話は聞いてないから!」
これは嘘じゃない。
会話の内容までは理解できなかったし、単に話している様子が見えただけだ。
じっとこちらを見つめる狼谷くんに、少々気まずくなって目を逸らす。
「……何で逸らすの」
「えっ、と……」
「ちゃんとこっち見て」
彼に言われた通り、渋々視線を戻した。
何となくいつもと雰囲気が違う。穏やかな、柔らかいものじゃなくて、どこか尖った空気だ。
「狼谷くん、ごめんね……」
「え? 何で謝るの」
「え、だ、だって、何か怒ってる……よね?」
もしくは機嫌が悪い。多分、そんな気がする。
狼谷くんは目を見開いて、それからゆっくりとしゃがんだ。
「あー……ごめん。これは自分にっていうか、まあそんなとこだから。羊ちゃんには怒ってないよ」
再度「ごめんね」と口元を緩めた彼に、ほっと胸を撫で下ろす。
数秒沈黙が落ちて、狼谷くんの手が私の頬を撫でた。
突然触れられて驚き、肩が跳ねる。
「あ、え、狼谷くん……?」
その動作は優しくて、もう普段の彼だ。
真っ直ぐ見られているのが恥ずかしくて、耐えきれずに目を瞑った。
「……ん、」
そのせいで感覚がよく伝わってきて、彼の指が動く度にこそばゆい。
狼谷くんの手、すごく熱いな。
そんなことをぼんやり考えていると、
「羊ちゃんのほっぺ、あっつい……」
「ひ、う……」
唐突に耳元で低まった声が聞こえて、尋常じゃないほど心臓が跳ねた。
だめだ――またわけわかんなくなっちゃう!
「わわわ私っ、帰るので!」
両腕を突き出して狼谷くんの胸元を押し返す。それでも全然距離は開かない。
そろそろと彼を見上げると、獰猛な視線に捕まった。びく、と固まった私の腕を、狼谷くんは力強く引く。
「羊ちゃん……」
「ひぁっ、まっ、待って」
これ以上は! 心臓がもたない!
かあ、と全身が熱く煮えたぎるのが分かった。どうしよう、今すぐ離れないと本当に私はどうにかなってしまう。
「……もうやだっ! 帰る!」
「え、羊ちゃん――」
勢い良く立ち上がった私に、戸惑ったような声が聞こえた。
今はそんなことを気にかけている余裕がない。とにかく距離を取らないと。そればかりが先行して、私は足早に彼から離れる。
「じゃ、じゃあね、お疲れ様」
呆気に取られたようにこちらを凝視する狼谷くんに、急いで背を向けた。
熱いのは、彼の手だと思っていた。それなのに。
『羊ちゃんのほっぺ、あっつい……』
どうすれば「普通」なのか、私はもう忘れてしまったようだ。




