濡れぬ先の傘7
話し声が飛び交う教室。開け放たれた窓から入り込む、湿度の高い風。
始業式が終わって、今日からまた重たい教科書類を持ち運ぶ日々が始まる。
日焼けで少し肌が黒くなった人や、髪をばっさり切った人。見渡せば、それぞれが夏を満喫してきたようだった。
「この時間は文化祭のことについて話そうと思う。決めることが沢山あるから――とりあえず学級委員、進行頼む」
森先生の言葉に、坂井くんが立ち上がる。彼はプリントを受け取ると、先生と入れ違いで教卓に向かった。
来月末に行われる文化祭は、二日間の日程で組まれている。
主に学級委員と文化委員、それから生徒会が中心となって運営をするのだけれど、これが本当に大変なのだ。去年見ていたから分かる。友達が学級委員を務めていて、かなり参っていた。
もちろん文化委員の肩書きを持っている私としては、気合いを入れざるを得ない。一年に一回の大イベント、クラスのみんなだって楽しみにしているはずだ。
「まずはうちのクラスの出し物を決めなきゃいけないんだけど……」
と、坂井くんが軽く頭を掻く。
その隣で「とりあえずみんなの意見聞いてみよう」と快活に笑うのは九栗さんだ。彼女は女子の学級委員を担っている。
「ああ、そうだね。えーと、展示か飲食か。これで多数決とります」
展示となると、お化け屋敷や迷路等々。当日までクラス全員で物作りに追われる。
飲食は割と楽ではあるけれど、一学年八クラスある中で、三クラスまでしかやってはいけないことになっている。希望が被ったら公平にくじ引き。この三枠の争奪戦が毎年熾烈だ。
「はい、じゃあ第一希望は飲食で出します」
当然というべきか、余程マニアックなクラスじゃない限り大体どこも第一希望は飲食で出す。
ほぼ無意味の多数決を行って、坂井くんは流れるようにプリントへ書き込んだ。
数日後、幸運なことにうちのクラスは飲食の枠を勝ち取って、「森の中のカフェ」というテーマで進めていくことに決まった。
買い出し係や装飾担当なども割り振られて、本格的に準備が始まった。
「は〜〜〜、疲れたぁ」
ぐで、と机に突っ伏して思わず愚痴を零す。
そんな私の様子に苦笑して、カナちゃんは「お疲れ様」と労ってくれた。
昨日は休み明け最初の委員会だったというのに、初っ端から大量のプリントを配られて、全部に目を通すように言われて。
それから各クラスのポスターを作ったり、パンフレットのデザインの候補をあげたり、目まぐるしい時間だった。
「羊ちゃん」
唐突に頭上から聞き慣れたテノールが降ってくる。
瞼を開ければ、そこには視界いっぱいに映る狼谷くんの顔があった。
「わっ……お、おはよう……!」
慌てて背筋を伸ばして、髪を整える。
私と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ狼谷くんは、柔らかく微笑んだ。
「おはよ。……ここ、まだ跳ねてる」
彼は自身の頭の左側を指してそう言うと、僅かに目を細める。
「えっ! どこ?」
「んー、ここ」
狼谷くんの手が私の頭に触れた。ぐっと身を乗り出すようにして距離を詰めた彼から、柑橘系の香水の匂いがする。
「あ、狼谷くん、またオレンジのつけてる?」
「うん、つけてる。いい匂い?」
「ふふ。いい匂いだよ」
肩を揺らした私に、狼谷くんも嬉しそうに頬を緩めた。
私の髪を梳いた彼の手が、そのままやんわりと頭を撫でてくる。
「ね、今日も放課後居残りだって。立て看板作るらしいよ」
「えっ、そっかあ……頑張ろうね!」
「ん。頑張ろ」
どうやら先生からの伝言を伝えに来てくれたらしい。
狼谷くんは頷いて、また後で、と自分の席へ戻っていった。
その背中を眺めてから、つと前へ視線を戻し――
「ちょっと、羊」
険しい顔でカナちゃんに凄まれる。
そのオーラに少し身を引いて、私は恐る恐る尋ねた。
「えーと……カナちゃん、何か怒ってる?」
「今のは何」
今のって、どういうことだろう。
端的な彼女の言葉に答えを出しあぐねていると、続きが聞けた。
「何がどうなって狼谷くんとあんなに仲良くなったのかって聞いてるの! 確認だけど、付き合ってないんだよね?」
「ええっ、付き合ってないよ!」
「だったらどうしてあんなにベタベタしてんのよあの人は……距離感近くない?」
カナちゃんにそう指摘されて、初めて気が付いた。
まあ確かに、近いといえば近いかもしれない。でも休み中に狼谷くんと会っていたから耐性もついてきたし、かなり今更だ。
「パーソナルスペース許したらだめだよ。ちゃんと警戒しないと」
「だ、大丈夫だよ。今までも全然平気だったし……」
「今まで?」
カナちゃんが眉毛をひくつかせる。
「今までって何? もしかしてだけど、休み中に何かあった?」
「えーと……」
気迫に負けた。
狼谷くんと勉強したことや一緒にご飯を食べたこと。洗いざらい話して、私はようやく一息つく。
カナちゃんはというと、額に手を当てて項垂れていた。
「やられた……うちの羊が……しかも母親公認って……」
「そ、そんなんじゃないよ! 狼谷くんのお母さんにはちゃんと誤解だって伝えたし……」
最後には納得してくれていたから、問題ないと思うんだけれど。
それに、と付け足して私は苦笑した。
「狼谷くん、私のことは友達だってはっきり言ってたよ。だからこんなに優しくしてくれるんだと思う」
彼の人間関係は、狭く深く、な気がする。
私もどちらかというとそうだ。気の許せる人とゆっくり話す方が性に合っている。
「……友達、ね。まあ二人がそう思ってても、周りから見たらどうかはまた違う話だから」
苦々しげに息を吐くカナちゃんの言葉に、「え」と思わず声が漏れた。
「だって二人、すごい距離近いよ。明らかにこう……休み中に何かありましたって感じの雰囲気出てる」
それは一体どういう雰囲気なんだろう!?
狼谷くんのお家で接していた時の感覚でいたから、距離感を問われてもいまいちピンとこない。
というかそもそも、前まではどんな距離感だったのかを思い出せない。
「教室では気を付けなよ。みんな見てるから」
「う、うん……分かった……」
具体的にどう気を付ければ良いのか分からないけれど。
とりあえず大人しく頷いておくことにする。
「それはそうと、文化祭用の作品の方は順調?」
私の返答に満足したのか、カナちゃんは話題をあっさり変えた。
彼女が話しているのは、部活のことだろう。私とカナちゃんは美術部に所属している。
「うーん……そこそこ、かなあ。全然余裕はないけどね」
「まあ私も人のこと言えないけど、共同制作もあるわけだし、個人作品は早めに仕上げないとね」
文化祭ではクラスごとの出し物の他に、部活動ごとの出し物もある。といってもそれは文化系の部活に限った話だ。
美術部は毎年作品展示を行っていて、部員の絵を飾るのがお決まりだった。それに加えて、部員全員で大きな一枚絵を完成させるのが伝統になっている。
「去年は先輩に助けられて何とかなったよね〜、今年もこの時期がやってきちゃったか」
肩をすくめるカナちゃんに、私も少しだけ憂鬱な気分になってしまう。
作品作りが嫌なのではなくて、時間に追われるのが辛い。
単純に一つのことだけに集中できるなら問題はないけれど、クラスの方も準備はしなきゃいけないし、今年は文化委員の仕事もある。かなりハードモードな予感はしていた。
「今週から部活週二だって。それと、毎日放課後、美術室開放してくれるみたい。使いたかったら使えって、部長が」
「わ〜〜ありがたい……」
両手を合わせて宙を拝む。物腰の柔らかい、ふんわり美人な我らが部長の姿を頭に思い描いた。
「私たちも先輩になっちゃったわけだし、後輩の面倒みてあげないとねえ……」
と、そこまでぼやいたカナちゃんが、ふと視線を上げる。
「あ、そういえば犬飼くんが駄々こねてたけど? 羊が構ってくれないって」
「え? ええと、その時は急いでたから……」
犬飼くんとは、部活の後輩だ。人懐っこくて部員みんなから可愛がられている。
この前たまたま彼とすれ違った時に、絵のアドバイスを貰いたいとお願いされたのだけれど、その時はちょうど文化委員の仕事があったのだ。
「まあ次会ったらちゃんと見てあげなよ。可哀想なくらいしょぼくれてたからね」
そんなカナちゃんの言葉に頷いて、私は曖昧に笑った。
***
色画用紙にすずらんテープ、マッキーペン。
教室の床や机の上で無操作に散らばるそれらが、カラフルで目に鮮やかだ。
「あ、白さん! おかえり〜」
教室の入り口で立ち尽くしていると、九栗さんがひらひらと手を振ってくる。
彼女に歩み寄りながら、私は口を開いた。
「お疲れ様。ごめんね、あんまりこっち手伝えなくて……」
「あはは、気にしないで。二人が忙しいのはみんな分かってるからさ」
二人、というのは私と狼谷くんのことだろう。まさに今も委員会の仕事の真っ最中だった。
ああそうだ、とここまで来た目的を思い出す。
「あの、段ボール余ってたりするかな。できれば新聞紙も……」
色塗りをしている時に、下に敷いておくものが欲しい。
狼谷くんは今頃立て看板の移動をしていると思う。力仕事は男子に任せろ、と笑い飛ばした先生の顔が浮かんだ。
「新聞紙は沢山あるよ。段ボールは……ええと、ちょっと待っててね」
「うん、ありがとう」
教室の奥に駆けていく彼女にそう伝え、私は一息つく。
「あ、白さん」
すぐ近くで作業をしていた霧島くんが、椅子に座ったまま私を見上げた。
「ちょうど良かった。これ狼谷に持って行ってよ」
言いつつ彼が渡してきたのは、狼谷くんのブレザーだ。
どうしてこんなところに、と思ったけれど、脱いだまま忘れていったんだろうな。
「ここに置いといたらインクとかつくかもしれないし。頼んでいい?」
了承して受け取ろうとした矢先、霧島くんの隣にいた女の子が顔を上げた。
「ふふ、合法的に彼氏と二人になれるなんて羨ましいなあ」
「え?」
耳を疑ってしまう。彼女の視線は明らかに私に向けられていて、ということはつまり――
「本当に二人が付き合ってるとは思わなかったよ。狼谷くん、あんなにデレデレになるんだね〜意外〜」
「えっ、えっ? ちょっと待って、あの、それは全くの誤解で……!」
奇襲を受けて思い切り動揺した。そんな私の様子を見て、彼女は続ける。
「え〜? だって、風鈴祭りで二人を見かけたって聞いたよ。休み明けも二人で話してること多いから、てっきりそうなのかと……」
つらつらと述べられて、私は言葉に詰まった。
『……友達、ね。まあ二人がそう思ってても、周りから見たらどうかはまた違う話だから』
そっか、そういうことだったんだ。
狼谷くんが私のことを友達だと言い切ったって、私が狼谷くんを友達だと思っていたって、そんなことを周りは考慮してくれない。目で見たものが全てだ。
「え、付き合ってないの? 噂になってたし、もうとっくにくっついてるもんだと思ってたわ」
霧島くんが目を見開く。そして次の瞬間、彼は何の気なしに告げた。
「結構お似合いだと思うけど。付き合っちゃえばいいのに」
「えっ……!?」
お似合い!? 私と狼谷くんが!?
「いやいやいや! 無理だよ!」
「何で? 狼谷のこと好きなんじゃないの?」
「え、わ、私が?」
次から次へと想定外の言葉が飛び出してきて、処理が追いつかない。
霧島くんは首を傾げて、さも当然のように言う。
「白さん、いつも狼谷のこと見てるじゃん。違った?」
多分、一番驚いたのは私だったんじゃないかと――そんな気がした。
全く警戒していなかった箇所をつつかれたような、そんな感覚で。ただ呆然と、脳内で彼の言葉を反芻することしかできなかった。
「あ、白さ〜ん! ごめん、お待たせ!」
ぱたぱたと足音を立て、九栗さんが駆けてくる。
「はい。新聞紙と、段ボールは小さいのしかなかったんだけど……」
彼女が差し出してくるのを眺めていると、不思議そうな眼差しを向けられた。
「白さん? どうかした?」
「あっ、ううん! ありがとう!」
我に返って声を上げる。
狼谷くんのブレザーを腕にかけて、それから新聞紙と段ボールを受け取った。
九栗さんと労い合ってから、足早に教室を後にする。
喧騒が耳に遠い。静かな廊下を一人歩きながら、私は自分の心臓の音がやけにうるさいことに気が付いていた。
『白さん、いつも狼谷のこと見てるじゃん。違った?』
本当に? 私は狼谷くんのことを見ていたの?
だとしたら完全に無意識だ。決して見ようと思って見たわけではなく――
『前に約束したよね? 俺のこと、ちゃんと見てくれるって』
いや、狼谷くんとは約束をしたんだった。だから私が彼を見るのは、なんらおかしなことじゃない。むしろ推奨されるべきことだ。
でも、だったら。――どうして私はこんなに焦っているんだろう?
あれこれ考えているうちに、委員会の作業場所に戻ってきてしまった。
全学年、全クラスの委員がいるから、かなりの人数だ。それなのに、狼谷くんをすぐに見つけてしまった。
だって仕方ない。彼は一際目を惹くから。
端正な顔立ちに、高い背。きらきらと眩しいくらいの雰囲気。
最近は慣れてきてしまっていたけれど、こうして遠目で見ると分かる。彼の隣に並んで「お似合い」と言ってもらえるほど、私は出来た人間ではない。
「あ、羊ちゃん。おかえり」
歩いてくる私に、狼谷くんは口元を綻ばせた。
その表情を見た途端、胸の奥が締まる。
「狼谷くん、これ。教室に忘れてたよ」
息苦しさを振り払うように、努めて明るい声を出す。
新聞紙と段ボールを床に置いてから、私はブレザーを彼に差し出した。
「ああ……ごめん、ありがとう」
そう言って、狼谷くんが手を伸ばした刹那。
「ひゃっ……」
ほんの僅かに触れた手。たったそれだけだったのに、反射的に腕を引っ込めてしまった。
「羊ちゃん?」
彼が驚いたように私の名前を呼ぶ。
どくん、と波打つ脈が、頭のすぐ内側で音を立てているような気がする。
「ご、ごめんね……何でもないよ」
顔が、頬が熱い。




