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濡れぬ先の傘6

 


「あ、えっと、じゃあ、いただきます……」



 おずおずと手を合わせる。


 ふわふわの卵が乗ったチキンライスを一口スプーンで運んで、思わず目を見開いた。



「ん、おいしい……!」


「はは。めっちゃいい顔」



 はしゃぎすぎて狼谷くんに笑われてしまった。恥ずかしさに俯きながら、もう一口頬張る。

 正直すごくお腹が空いていたし、オムライスは食べ物の中でも特別好きな方だ。


 夏休みも後半に入り、今日も今日とて狼谷くんのお家で勉強をしていた。週に三回、少なくとも二回はこうして会っている。


 そして次第に晩ご飯までご馳走になるようになって、申し訳ないとは思いながらも甘えてしまっていた。


 一度だけ、本当に悪いからと、帰る寸前までいったことはある。

 玄関のドアを開ける直前で狼谷くんに「お願いだから一人にしないで」と懇願されて、かなり困惑した。そんなつもりはなかったのだけれど、寂しいとはっきり言われてしまうと断れなくて。


 一番最初に誘われた時は、狼谷くんと一緒にカレーを食べた。緊張しすぎてあまりその時の記憶はない。


 でも日数を重ねるうちに段々と楽しめるようになってきた。ご飯の味もしっかり分かるし、狼谷くんと目が合っても体が強ばることはない。


 ゆっくり顔を上げると、向こうもこちらにその瞳を向けていた。

 視線が交わった瞬間、彼の目尻がふにゃりと垂れ下がる。


 ん? と僅かに首を傾げる狼谷くん。その動作は柔和で穏やかで、自然と胸の中が安らいだ。



「えへへ……」



 ご飯がおいしいのと、空気があったかいのと。とりあえず、幸せだなあって感じがして、頬が緩んでしまう。


 でも、今までこんなに長い間彼と目が合っていたことなんてないから、少しだけ恥ずかしくなってきた。


 と、狼谷くんが突然顔を逸らす。



「…………はあー……たまんなー……」



 随分深いため息だ。

 それにしたって、彼とのにらめっこに勝ったのは初めてだった。



「狼谷くん」


「……ごめん、十秒待って」



 手の平を突き出してタイムを要求する狼谷くんに、新鮮味を感じた。そしてほんの少しの、出来心も。



「ふふ。狼谷くん、可愛い」



 だって、耐えきれずに逸らすのはいつも私だ。彼は手馴れているから、どうってことないんだろうと思っていたのに。


 怖い、とは微塵も思わない。たまに強引な時もあるけれど、基本的に狼谷くんは優しくて温かい空気を纏っている。最近は特にそう思うようになった。

 だからこそ、躊躇なく「可愛い」なんて言えたのだ。



「……ねえ羊ちゃん」



 やけに落ち着いた声。

 自身の手で顔を覆っていたはずの狼谷くんは、指の隙間から私を視線で射抜いた。


 まずい、と。脳が警鐘を鳴らす。



「こうして二人でご飯食べてると、同棲してるみたいだね?」


「どっ、」



 同棲って。急に突飛な単語が彼の口から飛び出してきた。


 狼谷くんの口角が上がる。私を困らせる時の顔だ。



「ほんとにしちゃおっか。真似事だけじゃそのうち足りなくなってくるなあ……」



 足りなくなるとは!?

 爛々と輝く彼の瞳の奥が、底なし沼のように暗い。



「あ、赤くなった。……可愛い」



 私に言われたことを根に持っているのか。仕返しがしたかったのか。

 あっという間に形勢逆転されてしまった。



「可愛いよ、羊ちゃん」


「狼谷くん……!」



 絶対楽しんでるじゃないの!

 耐性がついてきたとはいえ、直球に言われてしまうとやはり恥ずかしい。


 軽く笑っていた狼谷くんは、急に真剣な顔で呟いた。



「出したくないな……」


「え?」


「ううん。……一回味をしめると、人間って欲深くなるなと思って」



 うーん、まあ、確かに。小学生の時はスーパーのプリンで喜べたけれど、今はケーキとかの方が嬉しいし。

 ちょっと哲学っぽい話のような気もする。


 割と真剣に考え込んでいたその時。


 がちゃ、と奥の方から扉の開く音がした。それからすぐに足音が近付いてきたかと思えば、



「ただいまー。あら?」



 オフィスカジュアルで姿を現した、一人の女性。ダークブラウンの髪を後ろで纏めていて、切れ長の目元が狼谷くんに似ていた。


 私と狼谷くんの顔を交互に見る彼女に、狼谷くんが口を開く。



「今日は早いね、母さん」



 お母様じゃないですか――――!

 思考停止状態だった頭を内心思い切り引っぱたいてから、私は勢い良く立ち上がる。



「あ、あの……すみません、お邪魔してます! 私、狼谷くんのクラスメートの白羊です! 勝手にご飯まで頂いてしまって、本当にすみません、いつもありがとうございます……!」



 へこへこと何度も頭を下げながら言い募ると、唐突に笑い声が上がった。



「あはは、やだそんなに畏まらないで〜。玄から聞いてるから、気にしないでね。ゆっくりしていって」


「ありがとうございます……」



 鷹揚に手を振って答える彼女に、私はほっと胸を撫で下ろす。

 優しい方で本当に良かった……。



「そっかあ。この子が『羊ちゃん』ね〜」



 と、狼谷くんのお母さんは荷物を置きながら視線を逸らした。

 その目が狼谷くんに向けられて、彼はといえば少しムッとした表情をつくる。



「なに」


「別に何も〜? ね、私も一緒に食べていい?」


「嫌だ」



 駄々っ子のように短く言葉を発する狼谷くんに、幼さを感じて苦笑してしまった。

 そんな私に視線を寄越すと、狼谷くんのお母さんが困り顔から一点、晴れやかな笑顔で伺いを立ててくる。



「羊ちゃん、私も一緒にいい?」


「えっ、も、もちろんです!」


「ありがとう〜。やっぱり女の子って可愛いわね」



 さすがと言うべきか、やはり母親は息子の扱いが分かっている。

 ずる、と文句を垂らした狼谷くんに、彼女は素知らぬ顔で腰を下ろした。







「わざわざごめんね〜。帰りは玄に送らせるから」


「いえ、とんでもないです! これくらいはさせてください……」



 食事を終えて、後片付けをしようといったところで。

 せめてお手伝いをさせて欲しいと申し出て、私は狼谷くんのお母さんとキッチンにいた。


 狼谷くんは最初こそ落ち着かない様子でこちらを窺っていたものの、お母さんに「女子だけでお話するから邪魔しないでね」と茶目っ気たっぷりに諭されて黙り込んでしまった。



「あの、ご飯本当に美味しかったです。ありがとうございます」



 そうお礼を伝えた私に、隣から嬉しそうな返事が飛んでくる。



「お粗末様でした。そう言って貰えるとやっぱり作りがいがあるわ」



 ちらりと横顔を盗み見た。鼻筋が綺麗で、長い睫毛が瞬きの度に揺れる。

 話し方や佇まいからも分かる、凛としていて清廉な人柄。



「羊ちゃんのことはね、玄から何度か聞いたことがあるの」


「えっ」



 急に振られた話題に、意図せず肩が跳ねた。

 どういった趣旨のことだろう、と気になって前傾姿勢になってしまう。



「玄が『真面目』じゃないっていうのは、羊ちゃんも知ってるわよね?」



 耳に届いたのはそんな問い掛けで、私は応答に困った。


 真面目――それが毎日同じ時間に登校して、授業を受けることを指すのなら、答えは簡単だ。彼は真面目じゃない。



「正直ね、私もどう向き合っていいか分からない時があったの。ただ模範的に叱るだけじゃ、耳を貸してくれないから」



 蛇口から水の流れる音と、彼女の声が混ざり合う。

 なんとなく、そちらを見ない方がいい気がして、私は俯いたまま食器を拭いた。



「でも少し前から、毎日学校に行くようになってね。軽く聞いてみたら、『勉強教えなきゃいけないから』って」


「え――」


「その時、初めて玄の口から女の子の名前を聞いたの。それが『羊ちゃん』だった」



 弾かれたように顔を上げる。慈悲深い眼差しがそこにはあった。



「ありがとうね。本当に、ありがとう。あなたのおかげで、玄は随分優しくなった」



 優しくなった? 狼谷くんが?

 違和感を覚えて、数秒固まる。


 だって、彼は最初から今までずっと優しかった。それが彼本来の人柄なのだ。

 決して、私がどうこうというわけではなくて。



「……狼谷くんは、優しい人です」



 ポスターを貼るのを手伝ってくれた。委員会はいつも欠かさず来てくれた。私の代わりに黒板を消してくれた。嫌な顔一つせず、勉強をみてくれた。



「あっさりしてるのかな? って最初は思ってたんですけど、色々助けてくれて。困っている人を放っておけなかったり、世話好きだったり、そんな人なんだって分かってきて……」



 勉強も運動もそつなくこなして、何不自由なく笑う。そう見えた。

 それなのに、彼は時々、本当に寂しそうな顔をする。



「あと、一人でも平気ですって顔してるのに、いざ帰ろうとするとしょんぼりするところとか……可愛らしいなあって、思うんです」



 一つひとつ、今までの記憶を思い返すように話していた。まだ数ヶ月しか経っていないのに、カラフルで賑やかな思い出たち。


 狼谷くんの笑顔を見るとすごく温かい気持ちになるし、沢山笑って欲しいなと思う。

 弱気な表情も、されて嫌というわけではなくて、むしろちょっぴり嬉しくなっている自分がいた。



「そう……良かった」



 きゅ、と蛇口を閉めた狼谷くんのお母さんが、静かに微笑む。


 途端に自分の話していることが生意気なのでは、と思い至って、私は慌てて付け足した。



「いや、あの、私なんかが何語ってるんだって感じですよね……すみません……」



 お母様の方が狼谷くんのことを十何年と見てきたというのに!

 べらべらと喋り倒してしまって本当に恥ずかしい。



「ふふ。ううん、安心した」


「安心、ですか?」



 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。

 彼女は頷いて、それから私に向き直る。



「あなたなら安心して任せられる。これからも玄をよろしくね」


「え……?」



 首を傾げた私に、狼谷くんのお母さんも「ん?」と不思議そうな顔をした。

 お互い見つめ合って、何かが噛み合っていないと理解したのか、彼女の方から決定的なセリフが飛び出す。



「えっと、二人は付き合ってるのよね?」


「つ、つき……!?」


「あれ? 違った?」



 とんでもない勘違いをされていたようだ。

 かあ、と頭に血が上って、声が上擦ってしまう。



「ち、違います! 狼谷くんとは、ほんとにただの友達で……!」


「どうりで何だか腰が低いなあと思ったのよねえ……そっかあ、それは早とちりして申し訳なかったわ」



 肩をすくめた彼女は、「でも」と続ける。



「羊ちゃんさえ良ければ、これからも仲良くしてやってね。玄は羊ちゃんのこと大好きだと思うから」


「へ……!?」



 変な意味はないんだろうけれど、今さっきまでの話題のせいで、過剰に反応してしまった。

 完全に動きが止まった私の背後から、足音が聞こえる。



「ちょっと。羊ちゃんに変なこと言わないでくれる」



 振り返ることができない。今顔を合わせたら、たぶん羞恥でどうにかなってしまう。



「あら、邪魔しないでって言ったのに。聞いてたの〜? 趣味悪い〜」


「聞いてたんじゃなくて、聞こえんの。ほんと、余計なこと言うのやめて」



 狼谷くんがそう言い放った瞬間、心臓がぎゅっと縮んだ。


 聞こえたって。それはつまり、今までの話を全部聞かれていたってことだろうか。だとしたらかなりまずい。



「はいはい。玄、羊ちゃん送ってあげて」


「言われなくても送る」



 繰り広げられる会話を呆然と聞き流しながら、私は項垂れた。


 待って待って。私なんだか、さっきとんでもないことを口走っていた記憶しかないんだけれど――



「羊ちゃん」



 柔らかい声色。

 覗き込むようにして目を合わせてきた狼谷くんに、頬が熱くなる。


 どうしよう、恥ずかしすぎるよ……。



「……行こっか」



 彼は一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに姿勢を戻した。







 最後にきちんと挨拶をして、狼谷くんのお家を後にする。


 すっかり日が落ちて暗くなった道。

 私は狼谷くんの隣を歩きながら、どうしたものかと考え込んでいた。



「ごめんね」



 ぽつりと、狼谷くんが零す。



「色々変なこと言われてたでしょ。気にしなくていいから」



 どう切り出そうか悩んでいたから、彼が先陣を切ってくれて助かった。有難くその船に乗らせてもらうことにして、私は首を振る。



「全然大丈夫だよ! それより、私こそごめんね。その、沢山喋っちゃって……」



 津山くんが同じことを言うのと、私が言うのとでは説得力がまるで違う。友達歴数ヶ月で図々しくも語ってしまって、穴があったら入りたい。



「ううん。……嬉しかった、すごく」



 咄嗟に彼の方を仰ぎ見ると、珍しく難しい表情をしていた。

 もしかして気を遣ってくれているのかな。視線を戻そうとした時、彼の耳が赤いことに気が付いた。


 ――あ。



「狼谷くん。いま、照れてたりする……?」


「ちょ、待って。だめ。見ないで」



 彼の顔を覗き込もうとすると、思い切り逸らされてしまった。



「もう……ずるいって。来られるとだめなの……」



 自分からいくのは良いけど、と呟く狼谷くん。

 そんなの私だってそうだ。不意打ちで揶揄われると、すぐ動揺してしまう。


 すっかり立ち止まってしまった彼を観察していると、軽く袖を摘まれた。何だか小さい子みたいで、とっても可愛い。



「ふふっ」


「何で笑うの」



 そう言う狼谷くんだって。

 ふにゃ、と表情筋を緩めて、随分とあどけない笑顔をしている。


 彼の指がそのまま下がっていって、私の指を掴んだ。



「羊ちゃん……手、繋ぎたい……」


「え、」


「だめ?」



 甘えるような声を出さないで欲しい。心臓に悪いし、たちまち治まったはずの熱が戻ってきてしまう。


 可愛い、とか。そう思うと私の負けだ。



「うん……いいよ」



 答えた刹那、ぐっと力強く手を引かれて、彼の肩にぶつかってしまう。

 ごめんね、と告げようとして顔を上げると、至近距離で狼谷くんと目が合った。



「もう離れないでね」



 こつん、と額が重なる。

 心臓は忙しなく動いているし、顔は熱くてたまらない。



「……羊ちゃんだけ、だから」



 確かめるように彼が告げる。

 狼谷くんは繋いだ手に力を込めると、熱に浮かされたような瞳でゆっくりと私を捉えた。

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