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濡れぬ先の傘5

 


「ごめん狼谷くん、お待たせ!」



 額に汗がじんわり滲む。

 既に着いていた狼谷くんが、その視線をこちらに向けた。



「おはよ。走ってきたの? 別に急がなくて良かったのに」



 そう言った彼の手がこちらに伸びてくる。

 乱れていた私の前髪をそっと直して、優しく口角を上げた。


 あまりにも自然に行われた動作に、ただ黙って彼を見上げることしかできなくて。



「どしたの?」


「……あっ、え、何でもないよっ」



 首を振る私に、狼谷くんは「じゃあ行こうか」と促して歩き出した。


 真夏日ということもあって、太陽が一段と手厳しい。


 先月末に彼と交わした約束通り、今日は二人で宿題を片付けることになっていた。

 図書館にでも行くのかなと思っていたところに、狼谷くんがこんな提案をしたのだ。



『俺ん家でやる?』


『えっ!?』


『クーラー効いてるし、お茶も出せるし……嫌なら無理にとは言わないけど』



 もちろん嫌なわけがない。ただ男の子の家に行くのは初めてで、無条件に緊張してしまう。


 結局彼の言葉に甘えることにして、私は頷いた。


 かくして狼谷くんのお家に来てしまったんだけれども。



「お邪魔します……!」


「はは。そんな緊張しなくていいよ、いま誰もいないから」



 何だ、そうなんだ。

 ほっと一息つきかけて、いやいや違うとかぶりを振る。


 いま誰もいないから? それは、つまり。



「どうぞ。座って待ってて」


「あ、うん……」



 通されたのは狼谷くんの部屋で、彼はそう言い残すと立ち去ってしまった。


 あまり人様の家の中をじろじろ見るものじゃないけれど、気になって視線を左右に振ってしまう。


 青色のカーテンが涼し気な印象だ。壁に沿った本棚には漫画や雑誌の他に、文庫本もびっちりと収まっている。

 物自体が少ないというか、余計な物は置いていないんだなあといった感じ。きっと私の部屋の方が整理整頓できていない。



「お待たせ」



 トレーを持った狼谷くんが戻ってきた。

 彼はそのまま腰を落とすと、グラスを二つテーブルに置く。

 からん、と心地よい氷の溶ける音がして、ようやく私は「ありがとう」と声を上げた。


 危ない。気を抜くと見入ってしまう。

 狼谷くんは一つひとつの動作が綺麗で、今もウェイターのようなスマートさだった。



「……羊ちゃん?」


「ひぇっ」



 狼谷くんの顔が目の前に迫る。

 反射的に体を反らして、私は情けない声を出した。



「そんなに緊張しないでよ。正座もしなくていいから」


「あ、は、はいっ」



 正座は完全に無意識だった……。

 どもる私に、狼谷くんはくすくすと肩を揺らす。


 とりあえず一口お茶飲んで落ち着こう。

 いただきます、と軽く頭を下げてグラスに手を伸ばした。


 口に入れた瞬間、思わず目を見開いてしまう。

 ――わあ、これおいしい! オレンジティーだ……!



「ふふ、おいしい?」



 目敏く私の表情の変化に気付いた狼谷くんが、嬉しそうに問うてきた。

 何度も頷いて、私は力強く肯定する。



「普通のお茶かと思ってたからびっくりした! オレンジ好きなんだあ……おいしい!」


「そっか。良かった」



 こんなお洒落な飲み物いつも常備してるのか……やっぱり狼谷くんって高貴だ……。

 感動しながらそんなことを考える。


 そわそわと落ち着かなかったのは最初だけで、勉強に集中してしまうと余計なことに気を回す必要がなくなった。


 時計の秒針の音と、クーラーの機械音。

 周りの音がよく聞こえるようになってきたのは、分からない問題にぶつかった時だった。



「あ、あの、狼谷くん」



 真剣な表情で宿題に取り組んでいる彼に、私は控えめに声をかける。



「ん? どうしたの」


「ごめんね、ちょっと分からないところがあって……聞いてもいいかな」


「いいよ。どこ?」


「この文章題なんだけど、」



 狼谷くんの方にプリントを寄せ、問題を指さそうとした時。

 彼はおもむろに立ち上がると、私の隣に腰を下ろして手元を覗き込んできた。



「うん。これ?」


「え!? あ、うん、そう……!」



 私がプリントの向きを変えればいいだけなのに! わざわざ赴いてもらって申し訳ない!


 突然近くなった距離に、心臓がばくばくと動き出す。



「これねー……ちょっと難しいよね」



 背後で空気が揺れたような気がして視線を向けると、狼谷くんの腕が目に入ってくる。

 どうやら私の後ろで床に手をついたようだった。


 なんかこの体勢、とっても心臓に悪いんですが……!



「まず最初に連立方程式つくりたいから、xとyで表すんだけど……」



 狼谷くんの声が近い。というか顔が近い。

 至って真面目な説明をしてくれているのに、内容が全く理解できそうになかった。



「羊ちゃん」


「ひぁっ」



 吐息混じりの小さな声が、耳元で私の名前を呼ぶ。

 ぞわりと変な感覚が背筋を駆け巡って、肩が震えた。



「ねえ、ちゃんと聞いてる……?」



 バレてた!? 全然集中できてないの、狼谷くんにはお見通しだったんだ!


 羞恥で顔が熱くなる。必死に手元のプリントを凝視して、平静を取り戻そうと努めた。



「返事してくれないってことは、聞こえてないのかな」


「えっ、あ、いや……! ごめんね、ちゃんと聞こえて――!?」



 その先を言えずに固まった。

 耳に柔らかいものが当たって、それから熱い吐息が流れ込んでくる。



「羊ちゃん……」


「んっ……」



 どうしよう、だめだ、ほんとに、だめ。

 頭が真っ白になる。体が熱くて熱くて仕方ないのに、心地よくて涙が出そう。



「ね、これでも聞こえない……?」


「あっ……や、狼谷く、」



 それ以上はだめだ。狼谷くんが喋る度に彼の唇が当たって、くすぐったい。

 逃れたくて身を捩ると、腰に手を回された。



「ちゃんと返事してくれないと俺、分かんないよ……」


「や……も、だめっ、狼谷くん……」


「だめじゃないでしょ。ほら、ちゃんと言って……?」



 ぐっと腰を引き寄せられる。


 ああもう、まただ。また狼谷くんの悪い癖。

 すぐそうやって私に恥ずかしいことを言わせるんだ。



「き、聞こえるから……ちゃんと聞くから、だから、もう……」



 もうこれ以上は。

 ゆるく彼の胸元を押して抵抗する。なかなか離れない距離に思わず顔を上げると、



「はー……もう、どうにかなりそう……」



 恍惚と私を見下ろす、狼谷くんの瞳とかち合った。

 今までに見たものの比じゃない。いつもの優しい彼なんてどこにもいなかった。


 頬は赤く上気していて、悩ましげに眉間に皺が寄っている。

 そのぎらつく瞳に一度囚われれば、身動きが取れなくなってしまう。



「えっと、その……」



 どうにかなりそう、とは。

 静まり返った空間に、自分の鼓動が鳴り響いているような感覚さえした。



「……ん。ちょっと、疲れただけ」


「そ、そっか……って、え!?」



 ぽすん、と狼谷くんが私の肩に頭を預けてくる。

 彼の手は腰に回ったままで、もう片方の手も背中に回されてしまった。



「あああの狼谷くん!?」


「ごめん、少しだけこのままがいい」


「えええ……」



 狼谷くんの両腕に力がこもる。

 一層強くなった拘束にひたすら困惑していると、彼が頭をぐりぐりと押し付けてきた。


 あ、なんか可愛いかも……。

 不謹慎にもそう思ってしまう。前も少し思ったけれど、ワンちゃんみたい。


 そんなことを考えていると、段々落ち着いてきた。



「狼谷くん、やっぱりいい匂いするね。この前と似たような……?」



 沈黙に耐えきれずに口を開く。狼谷くんは僅かに顔を上げた。



「うん? 羊ちゃんがこの匂い好きって言ってたから、今日もつけた」


「ええっ……! ごめんね、わざわざ……」


「何で? 羊ちゃんのためにつけたのに」



 私のためになんて、滅相もない……!

 まさか会う人の好みに合わせて変えてるんだろうか。きめ細やかな気遣いだ。



「なんだろう、柑橘系? の匂い?」


「うん、オレンジだよ。羊ちゃん好きでしょ?」


「うん、好き、だけど……」



 どこか不透明さを感じて口ごもる。

 狼谷くんに匂いの好みを話したことなんて、なかったよね? いや、前に私が「この匂いが好き」って言ったから、っていう意味なのかな?


 からん。グラスの中の氷が音を立てる。

 ――あれ? そういえば、これもオレンジだけど……。



「俺もオレンジ好き。一緒だね」


「そうなんだ……!」



 なんだ、狼谷くんもか。曇っていた胸中が一気に明るくなる。

 彼とは好みがよく合うなあ、と少し嬉しく思った。





 ***





「羊ちゃん、いらっしゃい」



 インターホンを押して数十秒後。扉を開けて私を出迎えてくれたのは狼谷くんだ。


 彼は以前二人でお祭りに行った時のような服装ではなくて、全体的にだぼっとしたゆるめの服を着ている。



「あ、あれ? 狼谷くん、眼鏡……!?」


「はは。びっくりした?」



 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、狼谷くんは小首を傾げた。


 細い黒フレームの眼鏡。その奥の瞳は、穏やかに揺れている。



「暑かったでしょ。入って」


「ありがとう……! お邪魔します」



 狼谷くんのお家に来るのは、今日で三回目だ。

 というのも、彼の家へ入った最初の日に「次はいつ会える?」と当然のように聞かれてしまって。



『次……?』


『うん。また一緒にできたらなって思ったんだけど、だめ?』


『えっ、だめじゃないよ! ええと、明日以降だったらいつでも……!』


『じゃあ明後日。俺の家でいい?』



 毎回のことだけれど、私に決定権はないと思う。いや、だからといって断る理由もない。


 なんだかんだで一日おきに狼谷くんの家にお邪魔してしまっている。

 さすがに申し訳なくなってきた今日は、手土産を持ってきた。



「あ、狼谷くん! これ、つまらないものですが……」



 紙袋を差し出した私に、狼谷くんは目を見開く。



「狼谷くん甘い物そんなに好きじゃないって言ってたから、おかきとかも入ってます! あ、でももちろん甘い物も入ってるから、ご家族で食べて――」


「覚えててくれたの?」



 狼谷くんが食い気味で問うてきた。

 ついさっきまで和やかな空気が流れていたはずなのに、彼の目はたちまち鋭くなる。



「え? えっと、うん……」


「そっか、ありがとう。嬉しい」



 喜んでもらえたなら良かった。安堵しつつ小さく息を吐き出す。


 それから前回同様、至って真面目に勉強をして――といってもやはり狼谷くんとの物理的距離は近かったけれども――夕方五時、そろそろお暇しようという時だった。



「羊ちゃん、一緒にご飯食べない?」



 どのタイミングで帰宅を切り出そうか、と時計をちらちら見ていた私に、狼谷くんはそう言い放った。



「えーと……今から、だよね?」



 彼の発言がにわかに信じ難く、当たり前の質問をしてしまう。

 狼谷くんは頷いて、「カレー好き?」と問いを重ねた。



「カレー? うん、好きだよ。この近くでカレーのお店は……」



 検索をかけようとスマホを取り出した私に、狼谷くんは至極冷静に告げる。



「お店じゃなくて、ここで」



 出前でも取るんだろうか。はて、と首を傾げると、



「親が量作りすぎて毎回困るんだよね。だから消費手伝ってくれると助かる」


「ええっ!? も、もしかして狼谷くんのお母さんが作ったカレーですか!?」



 そんなの完全にプライベートすぎて私が立ち入っちゃダメな気がする……!

 ただでさえ毎回快適な場所を提供してもらって、勉強もみてもらって、その上ご飯をご馳走になるだなんてことは!



「いやいやいやさすがに申し訳ないよ! 人様の家でそんな……!」


「他人が作ったものは食べたくない?」


「え!? そういうことではなくて!」



 慌てて否定して、私は立ち上がる。



「と、とにかく申し訳ないので……! 今日は帰ります、ありがとう!」



 そうまくし立てると、狼谷くんは「そっか」と呟いた。



「……一緒に食べてくれる人がいたら、いいなあって思ったんだけど」



 普段の彼とは少し違ったトーン。

 酷く寂しげな声色が耳に届いて、私は思わず息を呑む。



「ああ……ごめん、帰るんだったね。そこまで送るよ」



 目が、合わない。


 私に倣って立ち上がった狼谷くんは、ドアを開けて背を向けた。



『こんなにちゃんと誕生日祝われたの、久しぶりだな』


『はは。そんな緊張しなくていいよ、いま誰もいないから』



 前までの、いつもどこか孤独を秘めているような瞳と笑い方。生活音の聞こえない彼の家。


 少し考えれば分かるはずだったんだ。

 私が帰る時、彼は毎回名残惜しそうにしていたけれど、それはきっと――



「狼谷くん!」



 咄嗟に彼の腕を掴んだ。

 振り返った狼谷くんの表情が、驚きに染まっている。



「一緒に食べよう? あの、私で良ければ、だけど……」



 そんなに悲しそうな目をしないで。縋りたいと訴えかけてくるのに、たった一度で諦めようとしないで。



「えっと、狼谷く、」


「――捕まえた」



 鼓膜を揺らす低い声。気が付けば私は彼の腕の中にいた。



「帰んないで。俺と一緒にいて。……俺から離れていこうとしないで」



 狼谷くんの匂いが濃くなる。苦しいくらいに抱き締められて、呼吸が浅くなっていく。


 彼の唇が私の耳を食んだ。



「もうほんとに、羊ちゃんだけなんだ……」


「ひゃ、う……」



 私だけ? 何の話をしているんだっけ?

 ああそうだ、女友達は私だけって前に言っていたような――。


 まともに頭が回らない。

 何度も何度も耳朶を甘噛みされて、その度に体が跳ねる。



「だ、め……狼谷くん、お願い、もう……」


「あー……やばい、おかしくなる……」



 熱い吐息がかかった。

 ふるりと背筋が痺れて、涙が出る。



「可愛い。舐めていい……?」



 舐めるって、何を。

 私の返答も聞かないうちに、狼谷くんの唇が私の目に降ってきた。そのまま涙を吸い取られる。



「ん、おいしい……」



 満足そうに零す彼の声は確かに聞こえるのに、頭の中は霧がかかったようにぼんやりと重い。


 こんな感覚は初めてだ。

 悲しくも、痛くも、恥ずかしくもない。それなのにどうして泣きたくなるんだろう。



「耳だけでこんなになっちゃうの? ねえ羊ちゃん……」


「な、に……? 分かんないよ……」



 私の知らないスキンシップが多すぎてついていけない。

 必死に首を振ると、狼谷くんは昏く微笑む。



「いいんだよ、分かんなくて。全部、一から十まで俺が教えてあげるから……」



 耳元で囁かれた彼の声が、どこか遠くで聞こえる気がした。

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