魚心あれば水心2
「狼谷の噂? あー、喧嘩相手を殴り倒して病院送りにしたってやつ?」
「えーっ、そうなの!?」
朝のホームルーム前。
委員会は大丈夫だったかと心配してくれたカナちゃんとあかりちゃんに、私は気になることを聞いてみた。
狼谷くんの噂について。以前小耳に挟んだことがあるけれど、二人に確認しておこうと思った。
まさかの新しい情報に、私は純粋に驚く。
「いやいや、まあそれも聞いた事はあるけど。女の子をとっかえひっかえしてるって方が有名じゃない?」
カナちゃんが眉尻を下げてそう訂正した。
そうそうそっち、と相槌を打って、私は軌道修正する。
「昨日、帰り際に女の子が狼谷くんの腕組んで、すごーく仲良さそうにしてたんだよね。でも、彼女じゃないって」
「見るたび違う子連れてるよねー。女の子たちもよく飽きずに寄ってくわ……」
なるほど、狼谷くんはとんでもないプレイボーイというわけだ。加えて野蛮なところもある、と。
――うん。
「やっぱり苦手だぁ……」
***
試練だ。これは神様が私に与えた試練なんだ。
「最っ低! 本命他にいるってこと!?」
週に一度の委員会。
今週もそれは淡々とやってきて、何事もなく終えたはずだった。
どうやら先生に提出しに行くのはどちらか一人でいいみたいで、それならと私が引き受けた。
職員室を出た後、教室にお弁当箱を忘れてきたと気が付いて、まさに今教室のドアの前にいる。
「本命? いないよそんなの」
そう答えるのは紛れもなく狼谷くんの声だ。
中で女の子と口論になっているようで、非常に入りづらい空気。
いや、入るべきじゃない。確実に入るべきじゃない。
「はあ? 何それ。じゃあ全部遊びだったっていうの?」
「だから、そうだって言ってんじゃん」
その瞬間、乾いた音が聞こえた。
ああ、痛そう――こっちまで顔をしかめてしまう。
足音がして、慌ててドアの前から離れる。
「馬鹿! クズ! 最低!」
女の子はそう吐き捨てると、勢い良くドアを開けて教室を出て行った。
その後ろ姿を見送ってから、そろりと中を覗く。
狼谷くんは机の上に腰かけ、頬を押さえていた。
「……別に、隠れなくてもいいよ」
彼の目が私を捉えた。
どき、と大袈裟なくらい心臓が跳ねる。
私は入り口で立ち止まり、恐る恐る口を開いた。
「ごめんね、立ち聞きしちゃって……」
忘れ物しちゃって、と付け足した自分の声は随分と言い訳がましくて、内心唇を噛む。
しばらく経っても返事がないから、私は緩慢に自分の机へと向かった。
「どこから聞いてたの」
静かな空間に響く狼谷くんの声。覇気がない。
当たり前か、と思いながら記憶を辿る。
「えっと、本命がいるとか、いないとか」
私が言うと、彼は「いないよ」と自嘲気味に笑った。
そっちが質問したから答えただけなのに、これじゃあ私が聞いたみたいだ。
「……いないよ。今の子は、」
「お友達?」
ご名答、と言わんばかりに狼谷くんは目を細める。
分かってんじゃん。そう呟いて、彼は少し意地悪な顔をした。
「白さん、『お友達』の意味知ってるの?」
「え、」
知ってるの、と聞かれても。
彼のニュアンスが何か違うものを指していることは察したけれど、詳しいことは分からない。
まあ考えても答えが出るわけじゃないし、と私は諦める。
「うーん……正直、よく分かってないかなあ」
アンサーを投げ出した私に、狼谷くんは黙り込んだ。
会話終了、なのかな。
机の横のフックに掛かっていたお弁当箱に手を伸ばした時、
「体だけの関係。そういう『友達』だよ」
あまりにもあっさりと告げられて、理解が遅れた。
私には未知の世界すぎる。多分だけど、一生縁がない。
「……そっかあ」
気の抜けた返事になってしまった。
でもこれ以上、何を言っても正解にはならない気がする。
狼谷くんは俯いたまま、「クズでしょ」と零した。
「自分がクズなのは分かってるよ」
私はその言葉を、開き直りとしては聞かなかった。
彼の声色は悲しげで、何かを悔やんでいるようなものすら感じる。
「そうかな?」
それだけ返して、私はお弁当箱を鞄にしまった。
足早に教室を出て、保健室に向かう。保冷剤をもらってハンカチに包んだ。
教室に戻って狼谷くんの目の前で立ち止まる。
少し赤くなっている彼の右頬に保冷剤を問答無用で押し当てて、私は笑いかけた。
「ちゃんと冷やさないと、せっかくのイケメンが台無しだよ」
冷たさに驚いたのか、狼谷くんは目を見開く。
固まって動かない彼に、ちょっと心配になった。
「狼谷くん?」
改めて近くで見ると、彼の左目には泣きぼくろがある。
窓から入ってくる風がその前髪を揺らして、邪魔じゃないのかなあと余計なことが気になった。
今更ながらに至近距離で彼の顔を見つめていることに気が付いて、少し恥ずかしくなる。
狼谷くんは私の手ごと保冷剤を押さえると、そのまま瞳を覗き込むようにして、じっと私を見つめた。
「……羊、だっけ」
「え?」
「白さんの下の名前。合ってる?」
私がゆっくり頷くと、彼はぎこちなく微笑む。
その表情があどけなくて、この人は本当に乱暴なことをするんだろうか、と疑心暗鬼になった。
「羊。羊ちゃん」
確かめるように、狼谷くんが私の名前を呼ぶ。
優しくて柔らかくて、ちょっぴりくすぐったい気持ち。
不真面目で、凶暴で、プレイボーイ。
絶対相容れないと思っていた。完全に異質で苦手な存在。
それなのに、今こんなにも穏やかな時間が流れている。
「羊ちゃん。俺ってクズ?」
「クズかもしれないねえ」
「えー、さっきと違うじゃん」
嫌い寄りの苦手だった人は、想像よりもずっと普通の人。
「羊ちゃん、俺と『お友達』になる?」
……なのかもしれない。
***
「じゃー白、頼んだぞ」
先生が手をひらひらと振って教室から出て行く。
目の前に置かれた掲示物に視線を落として、私はため息をついた。
「羊、手伝おうか?」
カナちゃんが言いつつこちらを窺う。
「ありがとう、大丈夫だよ。本当は私と狼谷くんの仕事だから……」
声が尻すぼみになってしまったのは許して欲しい。
掲示物の管理は基本的に文化委員の仕事だし、先生が任せるのも分かる。
問題はといえば、狼谷くんが今日学校に来ていないことだった。
「そう? じゃあお言葉に甘えて帰るけど……」
Nステの日だから、と付け足したカナちゃんに、私は顔を上げる。
そうだ! 今日は私の好きなアイドルが出演するんだった……録画してくるの忘れちゃったよ。
俄然やる気が出てきた。早く終わらせて帰らなきゃ。
カナちゃんの背中を名残惜しい気持ちで見送った後、私は掲示物と画鋲を手に廊下へ出た。
クラスのみんなの、進路に関する抱負とかが書いてあるプリント。
まだ二年生だけど、一応進学校だからこういうのを書かされる。
上までぴっちり貼らないと全員分はおさまらなさそう。
仕方なく椅子を持って来て、私は腕を伸ばした。
「うっ……」
声を出したからといって限界突破できるわけでもないのに、なんか踏ん張ってしまう。
思い切り伸ばした腕は、僅かに画鋲を刺したい位置に届かない。
「何してるの」
背後から突然声をかけられて驚いた。
その拍子に手からプリントがするりと抜けていって、床に着地する。
狼谷くんはそのプリントを軽く屈んで拾うと、こちらに歩み寄って来た。
「え、狼谷くん……何で、」
「何でって、今日委員会じゃないの?」
さも当然のごとく言ってのけた彼だけれど、私は呆気にとられた。
今日一日いなかったのに、わざわざ委員会のためだけに来たってこと?
分からない。全く理解できない。謎すぎる。
「今日はないんだって。先生が言ってたよ」
「ふーん」
私の言葉に、狼谷くんはつまらなさそうに返事をした。
「あの、狼谷くん……一つ、お願いがあるんですが」
「何?」
「ちょっとだけでいいから手伝ってもらえないかな。上の方、貼ってもらうだけでいいから」
椅子に乗ったまま頼み込む私を、彼は数秒見つめて、それから自分の鞄を床に置いた。
「手伝うもなにも、それ文化委員の仕事でしょ」
椅子貸して、と協力的な申し込みに、今度は私が彼を凝視する番だった。
「羊ちゃん。どいて」
「え! は、はい!」
「肩車して欲しいなら、どかなくていいけど」
「どきます! 今すぐ!」
狼谷くんが上、私が下を担当することになって、作業はとてもスムーズに進んだ。
時折視線を上に投げると、狼谷くんが丁寧にプリントを押さえているのが目に入る。
全然曲がっていなくて、綺麗に貼られていく。
「……羊ちゃん、手ぇ止まってるけど」
「ご、ごめん!」
怒られてしまった。
でも何だか少しだけ楽しくなってきて、私は思わず肩を揺らす。
「ふふっ」
「何笑ってんの」
「狼谷くん、几帳面だね。さっきからすごい丁寧に貼ってるもん」
笑われた本人は不服そうに顔をしかめて、椅子から下りる。
そして私の方に近付いてくると、ぐっと顔を寄せた。
「痛っ!」
何かと思ったら。
強烈なデコピンをお見舞いされて、遠慮なく声を上げる。
「ほら、プリント貸して。俺の方が綺麗に貼れるから」
そんな皮肉を言って、私の手元から半分プリントを奪っていく。
いつの間にか上半分は貼り終わっていて、狼谷くんはその一つ下の列にとりかかろうとしていた。
「え、あ、ごめんね! 半分も貼ってくれたんだ……! もう大丈夫だよ!」
手伝ってとお願いしておきながら、どちらかというと私の方がサボっている。
「だから、俺も文化委員なんだって。ボランティアでこんな面倒なことしないよ」
言外に二人の仕事だと言われている。
それが嬉しくて、私は大人しく作業に戻った。
狼谷くんはもしかしたら、結構真面目なのかもしれない。
何だかんだ委員会には参加するし、こうしてちゃんと仕事をしてくれる。
「なーに楽しそうにやってんのー、玄」
終わりかけに廊下の奥からそんな声が飛んできて、私は振り返った。
いつも女の子が駆け寄って来る印象があったけれど、今回は違うようだ。
「この後カラオケ行くっしょ? 早く終わらしてよ」
ポケットに手を入れて気だるげに問うているのは、同じクラスの津山くん。
明るめな茶色の頭髪に、甘いマスクが特徴的な男の子だ。
「あ、白さんも来る?」
まさかこちらに矛先が向けられるとは思っていなかった。
咄嗟にぶんぶんと首を振ると、津山くんは「えー」と少し不満げに笑う。
「玄と二人きりがいい感じー? 俺とも仲良くしてよ」
「そ、そんなんじゃなくて……! 二人の邪魔したら悪いから……」
「え?」
私の返答に首を傾げた津山くんは、狼谷くんの方に視線を投げた。
「なに、玄。この子ともしたんじゃないの?」
「してない」
「えー、珍し。今日これからってこと?」
「しない」
淡々と返す狼谷くんに、津山くんはしばし黙り込む。
それからにやりと口角を上げると、こちらに一歩、二歩と近付いてきた。
「ねえ、白さん」
「はい?」
「俺と『友達』になってよ」
差し出された手に、握手かな、と思い至る。
それを握ろうとして腕を上げた時、狼谷くんが津山くんの手を払った。
「岬、この子はだめ」
「え〜ケチ。一人くらいいいじゃん」
口を尖らせる津山くんに、狼谷くんは私をちらりと見てからもう一度「だめ」と告げる。
「この子は、俺の友達だから」
彼の言葉に、私は先週の出来事を思い出した。
――羊ちゃん、俺と『お友達』になる?
狼谷くんのその問いかけに、私は。
――普通の友達なら、喜んで。
「友達、ねえ……」
津山くんの呟きが、放課後の廊下に溶けていった。




