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濡れぬ先の傘4.5―Kana Nisimoto―

 


 思えば確かに、引っかかることは沢山あった。まさか――勝手にそう決めつけていただけで。



「カナちゃ〜ん! おはよう!」



 窓の外を見つめながら考え事をしていたら、羊が乗ってくる停留所に着いていたらしい。


 右側の後ろから二番目。それがいつも私たちの座る特等席だった。

 隣に腰を下ろした羊に「おはよう」と返して苦笑する。



「あ、カナちゃん今日ポニーテールだ! 可愛いね」


「ありがと。さすがに暑くて……」



 これといって濃い内容の会話ではないけれど、毎日穏やかな時間が流れるこの空間が好きだ。


 通学バスが一緒ということもあって、羊とは一年生の時に打ち解けた。

 週に一度しか活動しない美術部に一緒に入部して、行きも帰りも大体二人で帰っている。



「なんかちょっと会ってないだけで久しぶりって感じするね」


「ねー。まあ今日の試合終わったらあかりも落ち着くみたいだし、予定調整しよ」



 そうだね、と頷いた羊が前方に向き直る。


 炎天下、学校で行われるテニス部の試合に、今日は羊と観戦に行くことになっていた。


 二年生になってから仲良くなって、今ではすっかりお馴染みメンバーのあかり。テニス部で活躍する彼女の応援のためだ。



「そういえばさ、」



 と、自分から切り出そうとして言い淀む。

 羊はこちらを振り向いて、不思議そうに首を傾げた。


 夏期講習の辺りから、やけに羊に話しかけるようになったクラスメイト――狼谷玄のことについて。聞こうか聞くまいか、少し思い悩む。


 狼谷くんといえば、悪い噂しか聞かない。

 彼氏持ちの子ともお構い無しに関係を持ってカップルを拗れさせただとか、気に食わないことがあるとすぐ手を出すだとか。


 不幸にもジャンケンに負けたせいで狼谷くんと同じ委員会になった羊を、実はクラスのみんなが心配していた。


 羊は「狼谷くんと歩いてたら、キラキラした女の子に睨まれる……」と最初の方こそ怯えていたけれど、それは極小数の女の子だ。

 大多数の人が腫れ物に触るかのように狼谷くんを扱っているし、絵に書いたような問題児よりも、真面目で大人しい羊に同情票は集まっていた。


 だから、羊が彼と登校していた日なんて、あかりと共に目をひんむいた。



『私、狼谷くんと友達になったから、大丈夫だよ』



 ましてやそう言って笑うなんて、一体誰が想像しただろう。


 羊が平気なら、私としても特に口を出すことはない。


 もし狼谷くんが仕事を放って羊を困らせるようなことがあったら、その時はこちらとしても黙っていないぞ、という気持ちでは常にいたけれど。

 意外にも、狼谷くんはきちんとやるべきことはやっているみたいだ。


 それどころか、ついには勉強をみてもらうとか何とか。さすがに冗談かと本気で疑った。


 相手の懐に入り込むのが上手い子だよな、とは日頃から思う。

 恐らく本人は無意識なんだろうけれど、羊といると力が抜けるというか、難しいことを考える必要がなくなってしまうのだ。


 まさかそれがあの問題児にも通用するとは、恐るべし。


 それはそれとして、私にはもう一つ気がかりなことがある。



『羊ちゃん、おはよう』



 夏期講習の間、狼谷くんは毎日羊のもとへ来ては、あれこれ世話を焼いていた。

 教室内でこんなにあからさまに話しかけるようなことは今までなかったから、周りも少し驚いていたみたいだ。


 彼が吹っ切れたタイミングには、十分に思い当たる節がある。



『えーと、強いて言うなら……一途な人、かな?』



 羊がそう言い放った途端、誰がどう見ても分かりやすく動揺した人が約一名。


 津山くんは複雑な面持ちで彼に声をかけていた。きっと本人よりも先に諸々察したんだと思う。


 羊を近くで見ていた友達代表として言わせてもらえば――ふざけんな、である。


 薄々感じてはいた。

 不機嫌な時のオーラだけで人一人殺せそうな狼谷くんが、羊の前では優しい眼差しになること。

 日が経つにつれて、彼の目は羊を追いかけるようになっていたこと。


 でも確証はない。知らないふりをしていれば、何も起こらずに終わるかもしれない。

 だって、こんな素朴で心優しい子を彼に任せたくないんだもの。



『だからつまり、狼谷くんを羊が更生させればいいんだよ』



 半分以上冗談で言ったつもりが、本当になってしまった。

 しかも更生どころの騒ぎじゃない。しっかり懐かれてるじゃないか。



「……カナちゃん? もう学校着いちゃうよ」



 羊の声で我に返る。心臓が嫌な音を立てていた。



「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」


「何か言いかけてなかった?」


「ううん。何でもないよ」



 首を振って曖昧に笑ってみせると、羊は釈然としない表情だった。





 ***





西本(にしもと)



 そう呼ばれたのは確か、終業式の前日だった。


 つい先日まで一週間休んでいた目の前の人物に、間違いなくはっきりと声を掛けられたのだ。



「どうしたの?」



 昼休みの教室は騒がしいはずなのに、その時ばかりはしんと静まり返っていて。

 無理もない。スクールカースト上位の狼谷くんが、何をどうしたら私の名前を呼ぶなんていう事態になるのか。


 周りのクラスメートは彼が何を言い出すのかと、固唾を呑んで見守っていた。



「羊ちゃんの好きな物って何?」


「…………は?」



 呆けたような声が出て、慌てて口元を押さえる。

 いやいや、相手は狼谷くんだよ。は? ってまずくないか。


 一人冷や汗を流す私を、彼は無感情に見下ろし、そして再び口を開いた。



「あの、悪いんだけど羊ちゃんが戻ってくる前に教えて欲しい」


「あ――ああ、ごめん……えっと」



 これは本当にあの狼谷くんなんだよね? 彼が人にお願いをすることなんてあるの?


 混乱中の頭をフル回転させて、私は必死に正解を探す。



「食べ物だったら、抹茶が好きって言ってたよ。あとは……あーそうだ。オレンジ好きって聞いたかな、味も匂いも含めて」



 うん、ちゃんと返せてる。

 とてもじゃないけど狼谷くんの顔を直視できそうになくて、私は考え込むふりをして俯きながら答えた。



「そっか、分かった。ありがとう」


「ど、どういたしまして……」



 ありがとうって言ったのか今この人は!?

 私の胸中の叫びを代弁するかのごとく、教室内がざわつく。


 狼谷くんは女の子に対しては優しいと聞いた。

 でもそれはあくまで関係を持った子に対してで、それ以外の子には見向きもしない。勿論、自分は「それ以外」だ。


 自分の席に戻っていく彼の背中を眺めながら、しばらく思考が停止した。



「……カナ、戻って来い」



 隣で一部始終を黙って見届けていたあかりが私の肩を揺らす。



「ごめん、さっきからずっと幻覚と幻聴の連続なんだけど」


「大丈夫。全部現実だから」



 とんとん、と労うように叩かれ、ようやくため息をついた。


 その後、呑気にイチゴミルク片手に帰ってきた羊。

 いつもとさして変わらないのに、遅いと怒ってしまったのは許して欲しい。





 ***





 日陰になる場所を陣取って、試合を観戦すること一時間。

 合間の休憩に水分補給をしていると、見知った顔が近づいてきた。



「あ、白さんと西本さんも来てたんだ! 眞鍋さんの応援?」



 いつも女子三人で行動しているのをよく見かけるその子たちは、夏休み前に男子も混じえてお祭りに行こうと話していた気がする。


 リア充め、と妬みのこもった視線をひた隠して、私は愛想笑いで誤魔化す。


 羊はというと、珍しく引きつった笑顔で「そうだよ」と答えていた。



「それにしてもびっくりだったよね。まさか白さんと狼谷くんが付き合ってたなんて!」



 瞬間、場の空気が凍りつく。

 お構いなしに盛り上がっている女子三人は、ご丁寧に説明してくれた。


 羊と狼谷くんが二人で風鈴祭りに行っていたこと。仲良く手を繋いでいたこと。


 言葉が出ない私に、隣から声が上がった。



「ち、違うよ! あれはね、そういうんじゃなくて、たまたまで……」


「あはは。照れなくていいのに! あれで付き合ってないってのは無理があるよー!」



 地獄絵図だ。私にとってというよりかは、羊にとって。

 だってさっきから可哀想なくらい動揺している。



「あ、そろそろ戻らないと。じゃあねー!」



 軽快に駆けていく彼女たちに、全く何て爆弾を落としてくれたんだ、と八つ当たりしたくなった。



「……羊」


「はっ、え、カナちゃん! あのね、ごめん、えっと、今のはほんとに違くて……」


「うん、分かったから。落ち着こう」



 自分もかなり動揺していたけれど、羊の慌てぶりを見ていたら少し凪いだ。


 この様子からして、本当に付き合っているわけじゃなさそうだし、まあそもそも私の目が黒いうちはそんなこと許さない。



「今のは本当? 狼谷くんと行ったの?」



 なんてことないような口調を心がけて問う。

 羊は数秒固まった後、小さく首を縦に振った。


 二人で出かけたというところにも相当驚いたけれど、最近の狼谷くんの様子からして、彼が誘ったんだろうなというのは容易に想像がつく。



「手を繋いでたっていうのは……?」



 恐る恐る聞いてみた。否定して欲しいという思いは根底にありながらも。



「……う、あ、えと、繋ぎました……」



 たちまちほっぺを真っ赤にして、目をぎゅっと瞑った羊。

 彼女のこういった仕草は、時折物凄く抱き締めてあげたくなる。


 いや、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて。



「ええ!? ほんとに繋いだの!?」


「か、カナちゃん……! 声! 声大きいよ!」



 しぃ、と人差し指を立てて諭してくる羊に、軽く謝ってから続ける。



「狼谷くんから? だよね? それ同意の上だったの?」



 まさかそんなことになっているとは。

 いや二人で出掛けてるんだから、手くらい繋いでも何らおかしくはない。しかも相手は狼谷くんだし。



「あの、違うの。狼谷くんは気を遣ってくれただけで……」


「うん?」


「私、風鈴祭りがカップルのイベントだって知らなくて……周りから浮かないようにって、繋いでくれただけなの。あとは、はぐれないようにって」



 一生懸命そう説明する羊に、それでも百戦錬磨かよ狼谷、と説教したくなる。

 この子でなければ丸め込めずに終わってたよ、きっと。



「あー、うん、そっか。なるほどね……」



 そもそも、風鈴祭りに男女二人で行くということがどういう意味なのか、羊は分かっていない。


 想いが通じ合っているカップルなら別段どうということはないけれど、そうじゃない場合は少し変わってくる。一種の告白じみたものなのだ。


 その誘いを受けた時点で「あなたに気があります」と返事をしているようなもので、会場のすぐ側にある神社に行きお参りをするのが定石となっている。


 その神社は縁結びで有名だ。

 祈りを捧げた男女は神様に永遠の愛を誓い、固い絆で結ばるという。



「狼谷くんね、気まずくならないように最後の方まで黙っててくれてたの。だから普通のお祭りみたいな感じで、楽しかったよ」



 とどめのような羊の言葉に、私は内心項垂れた。

 ああ――遅かった。彼はもう、確実に分かってやっている。確信犯だ。


 彼がそれを言わなかったのは、気遣いなどではない。

 何も知らない羊を風鈴祭りに連れて行って、さも両想いの二人がやるようなことをして、そして最後の最後で種を明かす。


 用意周到に外堀を埋めて、いつか逃げ出そうものなら「俺たちはこんなことをしたじゃないか」と持ち出すことも辞さないその姿勢。


 ――控えめに言って、執着の塊だ。



『羊ちゃんの好きな物って何?』



 そうか、だからあんなことを聞いたんだ。

 純粋な興味とか、そんな生易しいものじゃない。あれは詮索されていたんだ、と――今になって理解する。


 とんだプレイボーイが引っかかったものだと思っていた。

 あんなクズが羊を好きになるなんて。まあ、ちょっと可哀想な気もするし、本気なら見守ってあげなくもないけど。


 そうなめていたら、大火傷だ。

 彼は羊を手に入れることに一切の躊躇がない。それも、絶対に抜かりのないように。



「あ、あかりちゃんだ! 手振ってくれてるよ!」



 無邪気にはしゃぐ羊を横目に、私は半ばやけくそ気味に思考を飛ばす。


 ねえ津山くん、あんたも分かってるんでしょ。あんたのお友達が、うちの羊にご執心だっていうのは。


 だったら頼むから、羊が負担にならない程度に加減しろって忠告しておいてよ。あの男に指図できるのは唯一、あんただけなんだから。


 とそこまで考えてから、



「……いや、」



 オオカミの手綱を握れるのは、ヒツジだけだったな、と。

 隣に座る哀れな友人を見つめて、そう思い直したのだった。

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