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濡れぬ先の傘2

 


 ようやっと、夏休みが幕を開けた。


 それなのになぜ早速学校に行かなければならないんだろう、と少々憂鬱だ。

 夏期講習は午前中で終わるとはいえ、ないに越したことはない。


 ピロン、と軽快な音を立ててスマホが震えた。

 髪を結ってから画面を確認して、今度は自分が震え上がる。



「えっ、か、狼谷くん!?」



 何度もタップしたりリロードしたりしたけれど、そこに映るのは変わらない。

 狼谷くんからのメッセージだった。



『おはよう』



 それだけの簡潔なものだった。

 とはいえ、彼から本当に連絡が来るとは思わなかったから本当に驚いた。



「お、は、よ、う、っと……」



 文字を打ち込みながら、こんなたわいもない挨拶をするくらいに仲良くしてくれるってことなのか、と感慨深くなる。


 文章だけでは素っ気ない気がして、スタンプを一つ送信した。


 狼谷くんと傘を共有して帰った日、私は思い切って彼になぜ一週間も休んでいたのかと聞いた。

 返答は「熱でうなされていたから」といったもので。



『実はめっちゃ具合悪くて。金曜日、無視しちゃってごめんね』



 物凄く申し訳なさそうに肩を落とされては、追及しようがない。

 気にしてないよ、と慰めてから、私は心配になった。



『病み上がりなのにこんな雨の中走ってきたの? ぶり返しちゃうんじゃない……?』


『……そうなったら、羊ちゃん看病してくれる?』



 そう問いかけて真面目な顔で見つめてくる彼に、こくこくと頷いた。

 何となく、狼谷くんがこういう顔をする時は肯定しておかないとまずい、と本能が言っていたのだ。



「あ、もうこんな時間……」



 そろそろ出なきゃ。

 鞄を肩にかけた時、スマホの画面が再び光る。



『早く羊ちゃんに会いたい』



 その文字列を目に入れて、思わず固まった。



『またあとでね』



 後追いでそんな言葉が送信されてきて、はあ、とため息をついてしまう。


 狼谷くんには前々から心臓の安定を脅かされてきたけれど、最近それに拍車がかかっていると思う。

 あの日を境に、何かが吹っ切れたかのようにすら感じられた。


 こんなに開けっ広げに慕われて、嬉しいのと恥ずかしいのと。

 ごちゃ混ぜな感情は、まだ整理しきれていない。



「……なんか、ワンちゃんみたいだなあ」



 犬に例えるのは失礼かもしれないけれど、それが一番しっくりくる。


 今後こそ鞄を持ち直し、私は部屋を後にした。







 夏期講習は英語、数学、国語の三教科だけだ。


 それはいいとして、朝から英語だなんて本当に気が滅入ってしまう。

 テスト期間で随分苦手意識はなくなったけれど、まだまだ好きにはなれない。


 講習用の薄い冊子を閉じて、小さく体を伸ばす。

 ようやく一時間目が終わったところだった。


 暑さから逃れようと制服の襟元をぱたつかせていた私の視界に、銀色のピアスが映り込む。



「羊ちゃん、おはよう」


「あっ、え!? おはよう……!」



 咄嗟に挨拶を返すと、狼谷くんはその綺麗な黒髪を揺らして微笑んだ。


 朝からその笑顔は眩しすぎる……。


 それにしたって、わざわざ彼が私の席に話しかけに来るのは珍しい。

 何か用だろうか、と黙って彼の言葉を待っていると、



「今の英語、分かんないとことかなかった?」



 もしかしなくても狼谷くん、私のポンコツっぷりを気にしてるんだ!


 もうテストも終わって私の面倒をみることから解放されたというのに、こうして聞きに来てくれるなんて。



「か、狼谷くん……」


「ん?」


「神様ですか……?」



 ふは、と吹き出した彼に、目を見開く。


 最近、狼谷くんは本当によく笑うなあ。

 いろんな表情を見せてくれるようになった気がする。



「だ、だって、優しすぎだよ」


「そんなことないよ。ちょっと気になっただけだから」



 分かんないとこ出てきたら言ってね、と付け足して、狼谷くんは自分の席へ戻っていった。


 それを呆然と眺めていると、前方からカナちゃんが「ちょっと」と身を乗り出してくる。



「なに今の!? びっくりしたんだけど!」


「うん、私もびっくりしたよ……」


「いやまあ前から片鱗はあったけどさ……こんな普通に話しかけてくるのは意外だったなあ」



 さらにメッセージのやり取りもしてるだなんて言ったら、卒倒ものだろう。


 カナちゃんは私の顔をじっと見て呟いた。



「羊、懐かれたね」



 正しい表現かどうかは置いといて、確かにそれは私も思う。



「……いや、見つかったっていう方が正しいのかな」



 と訂正したカナちゃんに、思わず首を傾げた。

 狼谷くんから逃げたり隠れたりした覚えはないんだけどなあ。



「えー! いいじゃん楽しそう、行こ!」



 教室の後方が何やら騒がしい。

 顔だけ向けて見ると、比較的いつも一緒にいる男女数名が話に花を咲かせていた。


 夏休み中の遊びに行く予定をすり合わせているようで、その表情は明るい。



「じゃあ、三十一日の五時集合ね!」


「浴衣着ちゃおうかな〜」


「せっかくだもん、着ないと損だよ!」



 花火大会にでも行くのかな、と勝手に憶測をして視線を前に戻す。


 そういうイベントはやっぱりカップルで行くイメージがあるから、友達とはあまり「行こう」という話にならなかった。

 実際、人が多いところは好きじゃないし、積極的に参加したいとも思わない。


 少しだけ、ほんの少しだけ憧れたりはするけれど。



「はあ、いいなあリア充。輝いてるわあ」



 未だに後方を眺めたままのカナちゃんは、恨めしげにそう零した。



「えっ、あそこのグループって付き合ってるの?」


「いーや。そうじゃないけど、男女混ざってたら何か疑似恋愛って感じするじゃん」



 カナちゃんが言うことも分からなくはない。

 一年生の頃も、よく遊びに行っていた男女グループがいたけれど、その時は一組カップルができていたような。


 そんなことより、勉強の方をどうにかしなければ。

 思い直して、私は深々とため息をついた。





 ***





「……どうしよう」



 いや、どうしたもこうしたもない。


 手の中で振動し続けるスマホを見つめながら、私は意を決して画面をタップした。



「も、もしもし」


「もしもし。羊ちゃん?」


「はっ、はい! 白です!」



 何でそんなに緊張してるの、と受話口から狼谷くんの声が聞こえる。

 ……逆にどうして緊張しないのかを教えて欲しい。


 宿題をする気にもなれず、リビングでテレビをぼんやり鑑賞していた時、事件は起こった。

 かかってくるはずのない人から電話がかかってきたのだ。



「いま時間大丈夫?」


「え、と……うん、大丈夫だよ」



 時間の心配は非常に有難いのだけれど、正直心の準備の方が全くもって大丈夫ではない。



「ごめんね、急にかけちゃって。ちょっと話したいことがあったんだけど、学校だとゆっくり話せないから」



 そう前置いた狼谷くんは、ゆったりとした口調で続ける。



「前にさ、夏休み遊びに行こうって言ったの、覚えてる?」


「え、」



 覚えてるというか――あれって社交辞令じゃなかったんだ!?

 ここに来てその話題が上がると思っていなかったから、完全に気の抜けた声が出た。



「あれ、忘れちゃった?」



 黙り込んだ私に、そんな質問が飛んでくる。

 我に返って「覚えてるよ!」と慌てて返すと、向こうから小さい笑い声がした。


 その音が耳元で震えて、何だかくすぐったい。

 電話越しに聞く狼谷くんの声は、いつもより落ち着いていて、柔らかくて、低かった。



「今月末とかどうかな。忙しい?」


「ううん、全然! いつでも大丈夫だよ」



 カナちゃんやあかりちゃんと遊びに行くといっても日にちはまだ決まっていないし、それもしょっちゅうというわけではない。


 私の返答に「良かった」と吐息混じりで吐き出した彼の言葉に、体が固まってしまう。

 普段では絶対に有り得ない距離で狼谷くんと会話をしているような気分だ。心臓がばくばくとうるさい。



「あの、さ。一緒に行きたいところがあるんだけど……」



 珍しく歯切れの悪い彼に、スマホを持つ手に力がこもる。



「風鈴祭りっていうのがあるんだって。夜になると屋台とかも出るらしくて、だからその、」



 あー、と唸るような声で言い淀む狼谷くんに、思わず頬が緩んだ。

 お祭りなんかには興味がなさそうなのに、行きたいと誘ってくる様子は何とも意外で微笑ましい。



「ふふっ」


「羊ちゃん?」



 不思議そうに私の名前を呼ぶ彼に、「ごめんね」と語りかけた。



「狼谷くんがそういうの行くって、ちょっと新鮮で」



 色んな女の子とデートをした狼谷くんなら、すんなり誘えてしまいそうなものなのに。

 こういうのは何度やっても恥ずかしいのかな?



「可愛いなあって、思っちゃいました」



 胸の内を正直に明かすと、静寂が落ちる。

 数秒経ってから、これはまずいのではと嫌な汗をかき始めた時だった。



「……羊ちゃんって、ずるいよね」


「え!?」



 突然、不貞腐れたような声色に指摘される。

 生まれてこの方、ずっと真面目に生活してきたつもりだった。

 ずるいと言われたのは初めてで、狼谷くんの感性には驚かされてしまう。



「クレープみたい」


「く、クレープ……?」



 分からない。どの部分をどう解釈したらその例えに辿り着くのか。


 必死に彼の言葉を理解しようと努めていると、



「羊ちゃん。一緒に行ってくれる?」



 幼子のような、少し甘えるような声。

 ぎゅ、と心臓が縮んで――ずるいのは狼谷くんじゃないか、とそんなことを考えた。



「うん、行こう。一緒に」



 狼谷くんはどうやら、言葉での約束をしたがるらしい。

 それを分かりつつあった私は、敢えて「一緒に」と最後に添えて、彼に応えた。

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