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朱に交われば赤くなる8

 


 模試が終わっていよいよテスト期間に突入した。

 それが終われば待ちに待った夏休みで、嬉しいけれど最初の一週間は夏期講習がある。



「早くテスト終わんないかなー。今は勉強より部活の方が大事なんだけど」



 そう不満を漏らしたのはあかりちゃんだ。

 九栗さんも夏休みに試合があるとこの間言っていたから、体育会系の部活は今が一番忙しいんだと思う。



「テニス部、去年強かったよねえ。まあ羊と二人で応援行くから頑張ってよ」


「任せな〜!」



 カナちゃんの言葉に、あかりちゃんはぐっと親指を立てた。


 うちの高校は野球部がかなり強くて全校応援しに行ったことがあるけれど、普段仲のいい友達の試合となるとまた話は変わってくる。


 夏休みの予定を楽しそうに話し合う姿がちらほら見受けられるようになってきて、教室内の空気はどことなく浮かれていた。



「白さん、おはよー!」


「おはよう〜」



 はつらつとした声で爽やかな挨拶をくれたのは九栗さんだ。

 彼女は「あ、そうだ」と呟くと、ノートを取り出す。



「ちょっと聞きたいことがあって。古文なんだけど、白さん確か国語得意だったよね?」



 その情報は確かに間違っていない。

 いつもテストの点数は国語が一番良いし、唯一楽しいと思える教科だ。


 ただ、今回に至ってはちょっと例外で。

 英語と数学に集中してしまっているから、実は国語の方はあまり手をつけられていない。



「ここの現代語訳、授業で聞いてたはずなんだけど、昨日やってたら何かごっちゃになってきちゃって……」


「あ、ここ難しいよね。和歌もあるから、意味とか分かりづらくなってるところだよ」



 えーと、と口の中でもごもご言いながら文章に目を走らせる。


 大体の意味は分かるけれど、テストではそれじゃ駄目だ。

 正直完璧な自信がないし、他の人に聞いた方が確実だろう。


 そう結論づけて顔を上げ、カナちゃんに声をかけようとした時だった。



「え〜! 玄、今日早くない? おはよ〜」


「いっつもぎりぎりなのに珍しー」



 少しざわついたのは、どうやら狼谷くんが登校してきたからみたいだ。

 確かに彼がこんなに早く――といってもみんなからしたら遅い方だけれど――来るのは珍しい。


 すると、狼谷くんの目が動いてこちらを捉えた。

 視線が交わって、なんとはなしにへらりと笑ってみせる。



「九栗さん、行こう」


「えっ?」



 たぶん今がチャンスだ。

 単なる偶然が重なっただけとはいえ、狼谷くんが早くに登校してきたのも、目が合ったのも、タイミングが良い。


 私は九栗さんの手を引いて狼谷くんの席まで行くと、周囲の目も忘れて彼に声を掛けた。



「狼谷くん、おはよう」



 さっきからずっと私を凝視して固まる狼谷くんに、若干の違和感を覚える。



「いきなりで申し訳ないんだけど、ここの現代語訳って分かる?」



 私がそう問うと、彼はようやく何かを思い出したように「ああ……」と息を吹き返した。


 解説を始めた狼谷くんを観察しながら、一歩後ずさる。

 九栗さんと狼谷くんが普通に会話をしている光景に、近くの人は少し驚いた様子だった。



「お。九栗が朝から勉強とか、明日雨降るんじゃねえのー?」



 向こうでの友達との雑談が一段落したのか、霧島くんが顔を出す。



「はあ〜? っていうか霧島、あんたも狼谷くん見習いなさいよ。人のことバカにしてる場合なの?」


「よゆーよゆー。分かんなかったらまた狼谷が教えてくれるからな!」


「結局人任せじゃん!」



 やいのやいのと言い合う二人に、周りのみんなは「また始まったか」といったように苦笑している。


 元々の性格もあるのか、九栗さんと霧島くんはクラスのムードメーカー的な存在だ。

 二人の周りにはいつも自然と人が集まっている。



「二人とも、狼谷くんに勉強教えてもらってるのー?」



 そう混ざってきたのは、九栗さんと仲のいい女の子だ。



「そうだよー。放課後とか付き合ってもらってる!」


「へえ、そうなんだ!」



 友達が実際に接しているのを見て害はないと判断したのか、狼谷くんの前の席だったその子は、振り返って質問を投げかける。



「ねえねえ狼谷くん、実は私もここよく分からないんだけど、いい覚え方とかあるかな?」


「あー……それは、」



 と、やはり律儀に答える狼谷くん。

 そこから伝染するように、彼の周りには教えを乞うクラスメートが集まっていた。



「な、何かすごいことになってる……?」



 今まで様子を窺っていた人たちが、一気に押し寄せてきたような。


 呆然と人だかりを眺めていると、後ろから肩をたたかれる。



「白さん、おはよー」


「津山くん!」



 おはよう、と慌てて返して背筋を伸ばした。



「いやー、人気者だね。玄」



 愉快そうに喉を鳴らす彼に、私は頷く。


 良かった。本当に良かった。

 クラスのみんなもちゃんと狼谷くんのことを分かってくれたんだ。


 疎まれたり、避けられたり。

 そんなところは見たくないし、やっぱり狼谷くんは沢山の人に囲まれて過ごすべき人種だと思う。



「……寂しい?」



 突然、津山くんは私の顔を覗き込んでそう聞いてきた。



「玄が人気者になっちゃって、寂しい?」



 はて、と首を傾げる。


 狼谷くんが人気者になるのは嬉しいし、寂しくはない。

 彼は優しいから私なんかにも丁寧に接してくれるし、それはきっとこれからも変わらないんじゃないかな。



「ううん。嬉しいよ」


「え?」


「みんなにもっと狼谷くんの素敵なところ、知って欲しいなあって思うんだ。あんなにいい人なのに、もったいないよねえ」



 津山くんは目を真ん丸にして、それから小さく息を吐く。

 私の後ろの方に視線を投げると、「こりゃ厄介だなあ」と零した。



「厄介……?」


「いや、こっちの話。ありがとね」


「え、えーと?」



 いま一体、何に対してお礼を言われたんだろう?

 訳も分からず「どういたしまして」と曖昧に返事をして、私は席に戻った。





 ***





「あー、白。ちょうどいいところにいた」



 廊下を歩いている途中、森先生がそう呼び止めてきた。

 どうせ雑用でも頼まれるんだろうな、とげんなりした気持ちで振り返る。



「何でしょう……」


「こないだの模試の自己採点見たぞ。英語、頑張ったなー。一年の時と比べてすごい伸びてた」


「ほ、ほんとですか!」



 思わず大きめのボリュームで返事をしてしまった。

 てっきりこき使われるものだと思っていたから、想定外に褒められると嬉しい。



「最近、九栗や霧島とも勉強してるって聞いたけど。狼谷に見てもらってんのか?」


「あ、そうなんです。狼谷くんには本当にお世話になりました」


「はは。頭上がんないなー、それは」



 生徒の成績が良いと先生の機嫌も良い。

 やっぱり俺の見立ては間違ってなかったろー? と、調子に乗り始めたので軽く受け流しておく。



「まあ、というのは冗談でな。白には感謝してるんだ」


「えっ? わ、私ですか?」



 くるりと方向転換した謝辞に戸惑ってしまう。

 人差し指で自分の顔をさしてまで確認した私を、先生は笑い飛ばした。



「狼谷の遅刻もここ最近めっきり減ったからな。授業もちゃんと受けてるし、丸くなったみたいで安心した」



 言われてみれば確かに。

 狼谷くんとは最近よく玄関で会うし、前まではサボりがちだった授業も毎回きちんと出席している。



「いや、それは狼谷くんが頑張ってるからで……私は関係ないですよ」



 彼に直接「ちゃんと学校に来なさい」と先生みたいに叱った覚えはないし、「サボっちゃだめだよ」と注意した記憶もない。



「そんなことないぞ。やっぱり人に教えるとなると責任感が生まれるものだからな。狼谷もちゃんと授業受けて、白たちに教えなきゃって思ったんだろ」



 うーん。そうだとしても、それは狼谷くん自身の問題だと思うんだよなあ。

 いまいち納得できないでいると、先生は「それにな」と続ける。



「少なからず白に感化されてるとは思うぞ。四月からのお前たち見てると、随分雰囲気変わった気がする」


「そうでしょうか……」



 そりゃあ多少は仲良くなれたし、彼の態度も少しずつ変化していっているのは分かる。

 でもそれは純粋に時間の経過がそうさせたのであって、ごく自然なことのように感じた。


 床を見つめていると、先生の手がずっしりと肩に乗る。



「ま、そういうわけだ。今後も狼谷のこと、頼んだぞ」


「え!?」



 何がどうなってそういうわけなんですか。

 もしかして先生、単純にめんどくさいだけだったり……?



「来週のテストもこの調子で頑張れよー」



 さっさと切り替えて歩き出した森先生の背中を恨めしげに見上げてから、つと窓に視線を移す。


 昼休みの校庭では、男子がサッカーで盛り上がっていた。

 霧島くんが素早く動き回っているのをぼんやり眺めて――



「狼谷くん?」



 意外なことに、そこには狼谷くんの姿もあった。

 球技大会や体育など、必要な時にしか汗をかかないイメージがあったから驚いた。


 クラスの男子と当たり前のようにサッカーをして、競り合って、たまにちょっと笑って。


 その様子があまりにも新鮮で、健全な男子高校生そのものだったから、しばらく見入ってしまった。


 狼谷くんも年相応にはしゃいだりするんだなあ。



「あ、羊ー! なかなか戻ってこないと思ったら、そんなとこで何してんの!」


「あはは、ごめんごめん」



 あかりちゃんが教室から駆け寄ってきて、カナちゃんも後ろを追いかけてくる。



「お、男子サッカーやってんのかー。あれ?」


「狼谷くんいるの、珍しいでしょ?」


「珍しいっていうか……バグってないよね、これ?」



 心底不思議そうに眉をひそめるあかりちゃんが可笑しくて、私は声を上げて笑ってしまった。





 ***





「で。テスト終わって浮かれるのは分かるんだが、これからさらに浮かれる話をしようと思う」



 森先生の言葉に違わず、テストを終えたばかりの教室は夏休み一色でそわそわと浮き足立っていた。


 手応えはというと、頑張った英語と数学はそこそこ大丈夫だったと思う。……思いたい。

 他の教科は前日の詰め込みも頑張って、何とか平均点くらいは取れるように持っていったつもりだ。


 さすがにテスト直前は狼谷くんの時間を割いてもらうのも申し訳ないから、勉強会はなしにしようという話でまとまって。


 でも狼谷くんは、英語と数学のあとの休み時間に毎回「大丈夫?」と聞きにきてくれた。

 朝、学校に来てからも「分からないとこある?」と気を遣ってくれるし、あまりにも優しすぎてこれはいい点を取らないと罰が当たりそうだ。


 それが原因で、一度あかりちゃんに「付き合ってんの?」ととんでもない質問をされたけれど、きちんと誤解はといておいた。



「今日は修学旅行の班を決めるぞ」



 おー! と教室内から歓声が上がる。

 高校生活における最大のイベントだから無理もない。



「まあこれに至っては思い出作りだから、堅苦しいことは言わない。基本的に自由に組んでいい。喧嘩はすんなよー」



 そんな声掛けがあって、みんなそれぞれ友達と向き合い始めた。


 班は四、五人が目安だと言われて、私は指折り数える。

 カナちゃんとあかりちゃんと同じ班を組むのは暗黙の了解だから、あと一人か二人。


 席を移動する人も出てきたから、無法地帯だ。

 私とカナちゃんは席が前後で、あかりちゃんは自分の席を立つと私たちの方へと駆け寄ってくる。



「やっほー! 修学旅行とかテンション上がるね!」


「ねー。もうそんな時期なんだなあ」



 あかりちゃんとカナちゃんの会話をのんびり聞いていると、



「あっ、白さん白さん!」


「九栗さん、どうしたの?」



 彼女は持ち前の明るい声で私を呼ぶと、「あのね」と表情を翳らせた。



「もし良かったらだけど、白さんたちの班に入れてもらえないかな」



 遠慮がちに頼み込んでくる彼女に、私たちは顔を見合わせる。


 九栗さんは基本的にバレー部の人と一緒にいることが多い。

 今回の班決めもそうなのかなと思ってたんだけれど。



「私はいいけど……」


「うん、私も大丈夫だよ」



 あかりちゃんとカナちゃんが頷く。

 私は迷った末に、質問することにした。



「あ、あの、全然いいんだけどね。九栗さん、その……大丈夫?」



 私の問いかけの意味を察したのか、九栗さんは弾かれたように顔を上げた。

 そして「ごめん!」と相好を崩す。



「全然仲悪いとか、そういうんじゃなくてね。人数的にどうしても一人多くなりそうだったんだ」



 九栗さんは交友関係が広いし、割と誰とでも仲良くなれるから、きっと率先して抜けてきたんだろう。


 なんだ、そういうことか、と口々に感想を述べて、私たちは胸を撫で下ろした。



「そういうことなら全然! よろしくね、九栗さん」


「ありがとう! 最高に楽しもうね!」



 そんな気合いの入れ方が彼女らしいなあと思う。


 教室内を見渡すと、まだ決まっていない班も沢山あるようだ。

 近くの席をぶんどって、四人でだらだらとお喋りタイムに突入する。



「夏休みはみんな遊びに行ったりするの?」


「帰省はするかなー。でも全然決めてないよ」


「彼氏でもいたら潤うんだろうけどね〜。生憎予定皆無だわ」



 愚痴やらなんやら垂れ流しながら、窓から入ってくるぬるい風を享受する。



「彼氏かぁ。あれ、みんな彼氏いないんだっけ?」


「いないよー。いたらイベントごとはさぞ楽しいんだろうけど」



 つまんなーい、と仰け反った九栗さんは、名案を思いついたかのごとく目を輝かせた。



「じゃあどんな人を彼氏にしたい?」


「えー、難しいねその質問」


「そうかな? 好きなタイプとか?」



 こういう話って、修学旅行の夜とかにするんじゃないのかな。

 まあ何でもいっか、と達観していた私に、突然質問の矢が飛んできた。



「白さんは?」


「え?」


「白さんの好きなタイプってどんな人?」



 興味津々、といった様子で身を乗り出す九栗さんに、私は宙を見つめながら答える。



「うーん、特にこれといったのはないかなあ……」


「えー、絶対これだけは譲れない! とか、そういうのないの?」



 そう言われても。

 好きなタイプとか、今まで深く考えたことがなかった。


 そもそも彼氏なんていたことがないし、好きな人ができても特に何も起きずに終わることが常だった。

 付き合うのがどういうことなのか、が根本的に分かっていない。


 期待に満ちた眼差しを向けられ続け、折れた私は懸命にそれらしい回答を模索した。



「えーと、強いて言うなら……一途な人、かな?」



 瞬間、黒板の方からカラン、と音が鳴る。


 そこでは狼谷くんがちょうど名前を書いているところで、その途中でチョークが折れてしまったようだった。



「あ、決まったら黒板に書きに行くみたいだね」



 カナちゃんが言いつつ腰を上げる。

 その後を追いかけて教卓のところまで来たところで、津山くんの声が聞こえた。



「……玄。早く書かないと」



 狼谷くんは黒板に書いた自分の字を真っ直ぐ見つめている。

 折れたチョークの先が砕けてしまいそうな程に、彼の指には力が篭っていた。


 少し異質な彼の様子に訝しむも、他の人は特に気に留めていないようで。

 何だか思い詰めたような、そんな横顔に見えたのは気のせいだろうか。


 とそこまで考えたところで、狼谷くんに勉強を見てもらったお礼をちゃんと伝えていないことに気がついた。



「狼谷くん」



 彼の横まで歩み寄って呼びかける。刹那、



「あ――」



 私を映した瞳は、酷く悲しげで、大きく揺れていて。

 まるで打ちのめされたように、絶望に滲んでいた。



「……狼谷、くん?」



 どうしたの、と。果たして声に出せていたのかいなかったのか。


 即座に顔を逸らした彼が、背を向けて席に戻っていく。


 狼谷くんはその日、出会ってから初めて私の問いかけに答えなかった。

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