朱に交われば赤くなる6.5―Gen Kamiya―
誕生日が特別なのは小学生か、せいぜい中学生くらいまでだと思う。
その証拠に、両親は今朝も何ら変わりなく出勤していった。
別にそれがどうだとか、今更考えることはない。
「よ、今日は早いな」
教室に入って早々、岬が絡んできた。
それを適当にあしらいつつ自分の席へ向かう。
岬はそんな俺についてくると、机の上に紙パックのイチゴミルクを置いた。
「……何」
「何って、プレゼント。玄、誕生日じゃん今日」
「どうも」
パッケージの側面には油性ペンで書いたのか、「おめでとう!」とお世辞にも綺麗とは言えない文字が並んでいる。
「え! 今日誕生日なの〜!? おめでとー!」
「知らなかったぁ〜!」
俺と岬の会話を聞いていたのか、近くの席の女子が口々に言い募ってきた。
ありがとう、と笑って返すと、途端に彼女たちは顔を赤らめる。
「え〜俺には? 俺にはありがとうって言ってくんないの?」
「言ったじゃん、さっき」
「女の子には甘いんだから……」
大袈裟に肩をすくめてみせた岬は、「放課後久しぶりにどっか行く?」と切り替えが早い。
「……あー、悪い。先約ある」
またデートか、と茶化してくる岬を無視して椅子に座った。
「はいはい、いいですね玄くんは。どうせ女の子に囲まれて誕生日の夜を過ごすんでしょ」
やさぐれモードに入ったバスケバカは、ため息をついて前の席に腰を下ろす。
本当は図書室でクラスメートの勉強を見ることが「先約」だと言ったら、どんな顔をするだろうか。
まあわざわざ教えてやる必要もないが。
確かに去年の誕生日は、適当に女の子と遊んでいた気がする。
いや、最早それが誕生日の記憶なのかすら危うい。
それくらい自分にとって誕生日は特別感の薄れたものと化し、今年も大して感慨も何もないはずだった。
――彼女が必死に駆け寄ってくるまでは。
「お誕生日おめでとう!」
上がった息を整えることもせず、こちらを見据えて彼女は大声を出した。
「ごめん! さっき狼谷くんのスマホ見ちゃって……誕生日だって分かったんだけど、言ったら変に思われちゃうから言えなくて……」
やはり少し苦しいのか、段々と俯きがちになる彼女に、俺は呆然と立ち尽くす。
「勝手に見てごめん! でも、やっぱりおめでとうだけは伝えたかった!」
そう言い切ると、羊ちゃんはゆっくりと顔を上げて俺を見つめた。
丸い瞳は不安げに揺れ、それでいてどこか神秘的だ。
いつもほんのり色づいている頬が、今は余計に赤く見えた。
「……まさか、それだけを言いに追いかけてきたの?」
ただの友達――いや、クラスメートに。
「え? う、うん……」
「バス逃してまで? 用事あるのに?」
本当に意味が分からない。どうしてたった、それだけで。
「あっ、用事はないよ! 大丈夫!」
余程自分は険しい顔をしていたのか、羊ちゃんは慌てたように手を振った。
「えっと、狼谷くん、他の人との約束とかあるのかな? と思って。遅くまで私に付き合ってもらうの悪いから……」
「それでわざわざ嘘ついたの?」
「ごめんね……」
しゅん、という効果音が適切なほど彼女は分かりやすく縮こまった。
違う。謝らせたいんじゃない。
焦っている。気持ちが急いて、問い詰めるような言い方をしてしまう。
だってそんなの、本当に意味が分からない。
たかが誕生日なのに、しかも俺じゃなくてどうして羊ちゃんがそんなに必死になるのか。
「…………なに、それ」
どうしてそんな当たり前みたいに走ってくるの。
何で俺なんかの誕生日一つ、おめでとうを言うためだけに、バス逃したの。
どうしてこんなに、堪んない気持ちにさせるの。
「あー、何だよそれ……まじか……」
分からない。羊ちゃんを見ていると分からなくなる。
俺にとって女の子は遊ぶ対象かそれ以外で、羊ちゃんは完全に「それ以外」のはずだった。
色気なんてないし、そそられないし、勿論タイプじゃない。
誰からも好かれるようなおおらかな性格で、少し危なっかしいことを平気でやらかす。
だからちょっとだけ気掛かりで、最初は本当に妹のような感覚だった。
『自分の体を一番労わってあげられるのは自分だけだからさ。昨日頑張った分、今日はお休みあげてもいいんじゃない?』
飼い犬に手を噛まれるような、そんな衝撃を受けた。
予防線を張ったつもりが、いとも容易く壊された。
真面目で純情で、潔癖。
大体そんなところだろうと打算をしていたら、酷い目に遭った。
とんでもない。彼女の方が何枚も上手だった。
下手な俺の自衛になんて目もくれず、丸ごと包み込んでしまう。
時折驚くほど大人びているのに、いざとなるとへっぴり腰ですぐに萎縮する。
羊ちゃんだけは俺のことを本当の意味で見てくれている気がして、だから我慢ならなかった。
なんてことないように話すくせに、それが的を得ているから、縋りたくなった。
『俺のこと、ちゃんと見てくれる?』
きっと彼女にとって、俺はクラスメートの一人でしかなくて。
分かっていても、その瞳に映していて欲しいと柄にもなく願ってしまった。
『これからも、ずっと……狼谷くんのこと、見てるよ』
目に涙を溜めて、顔を真っ赤に染め上げて。
確かに彼女自身の声で言わせたその言葉に、心臓の奥が震えた。
その瞬間に全身が熱くなって、手しか触れていないのに酷く興奮したのを今でも思い出す。
泣き顔に欲情する性癖はなかったはずだ。自分はおかしくなったんだろうか。
こんなクズな俺のことを当たり前のように受け止めてしまうくせに、あとちょっとのところで逃げていってしまうのだ。逃げられたら困る。
だからついつい約束をさせたくなる。彼女自身の言葉で確実に誓って欲しい。
「あの、狼谷くん、ほんとにごめんね……」
おどおどと謝る彼女に、俺は内心ほくそ笑んだ。
腰が低いのは彼女のいいところでもあるが、悪いところだ。
「羊ちゃん」
「はいっ」
「用事、ないんだよね?」
顔を上げて彼女の目を真っ直ぐに射抜く。
自分は今きっと、とてつもなく悪い顔をしていることだろう。
「な、ないです……」
「そう。じゃあちょっと付き合って?」
強めの口調でそう押し切る。
さっきから自分が何か大層悪いことをしたと思っているらしく、「ごめん」を連呼する彼女のことだ。
罪悪感に苛まれている状態で俺から頼み事をされれば、断ることはまずないだろう。
案の定、羊ちゃんは小刻みに頷いた。
「こっちおいで」
安心させるために微笑みかけると、羊ちゃんは恐る恐るといった様子でこちらへ歩み寄ってくる。
ヒツジを捕まえるには、まず自分が無害だと主張する必要があるのだ。
普段からそうだが、少しでも凄むと羊ちゃんは怖がるから、なるべく口調や表情には気を付けている。
努めて優しく、穏やかに。時々甘く。
「か、狼谷くん」
「うん?」
「その、狼谷くんはいいの? 他の人とお祝いするとか……ないの?」
羊ちゃんに合わせて少しゆっくり歩きながら、彼女の方に軽く耳を寄せる。
「ないよ、そんなの。元々今日は羊ちゃんと勉強する予定だったから」
「え……! そ、そっか、ごめん……」
眉尻を下げる彼女に、俺は「気にしないで」とフォローを入れた。
元はといえば、俺から言い出したことだ。
先生の提案なんてその場で適当に流せばいいものだし、別にいちいち真に受ける必要もない。
でも羊ちゃんは真面目に考えていたから、それを利用して少々強引に取り付けた。
だから本来は対等なはずなのに、羊ちゃんがへりくだるから、俺にいいようにされてしまうのだ。
そこが律儀で憎めないところでもあるが。
「羊ちゃん、ここ来たことある?」
しばらく歩いたところで、今年学校の近くにできたカフェに着いた。
時間を潰す時なんかに岬とよく来る。
「あ……! 前に一回だけあるよ!」
「ほんと? じゃあちょっと入ろっか」
羊ちゃんはバス通だから、てっきり来たことがないと思っていた。
しれっと逆に自分が初めてかのような口ぶりでドアを押す。
「狼谷くん、狼谷くん」
彼女は珍しくテンションが高い。
それでいて小声なのは、静かな店内に配慮してだろう。
「ん?」
屈んで耳を寄せると、羊ちゃんは躊躇いなく俺に囁きかけた。
「ここね、キャラメルフラペチーノおすすめだよ。クリームがしゅわってなるよ!」
にこにことあどけない笑顔で一生懸命そう伝えてくる彼女に、意図せず心臓が跳ねる。
どうやら自分は、彼女の笑顔にも弱いらしい。
「狼谷くん?」
黙り込んだ俺を不審に思ったのか、羊ちゃんは目を瞬いた。
「あっ、アレルギーとかある? キャラメルあんまり好きじゃない……?」
「ううん、好きだよ」
本当はいつもここへ来たら頼むものは決まっている。
だけど、彼女の嬉しそうな顔を見るとキャラメルフラペチーノを頼むしかなさそうだ。
「狼谷くん先に座ってていいよ! 私頼んでくるね」
一方的にそう宣言すると、羊ちゃんはカウンターに行ってしまった。
大人しく席を取ることにして、無難にテーブル席に腰を下ろす。
彼女の様子を観察していると、何やら店員と話し込んでいる。
注文だけでそんなに話が弾むだろうか、と訝しみながらも、楽しみに待ってしまっている自分がいた。
「狼谷くん、お待たせ!」
差し出されたフラペチーノのクリームには、大きなクッキーが刺さっていた。
「HAPPYBIRTHDAY」と書いてあるから、きっと彼女が店員にお願いしたんだろう。
「へへ、びっくりした? 誕生日なんですって言ったらつけてくれたの! 親切だよね!」
へら、と目尻を下げて笑う羊ちゃんに、つられて頬が緩んでしまう。
彼女より何回もここに来ているのに、そんなサービスは初めて知った。
「狼谷くん、お誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
じんわりと胸の奥が暖かくて、こんなに血の通った思い出ができた日はいつぶりだろうと苦笑する。
キャラメルフラペチーノは思ったよりも甘くて、正直いつものベリークリームラテの方が好きだった。
それでも、向かいで満足そうに俺を見つめる彼女を視界に入れてしまうと、そんなことはどうでも良くなった。
「こんなにちゃんと誕生日祝われたの、久しぶりだな」
「そ、そうなの……?」
どこかの誰かと適当に時間を潰すのは、楽だけど虚しい。
それを分かっていながら止められないのは、面倒なことに踏み切るのが怖いからだ。
「だってもう高校生だよ。ケーキ食べてはしゃぐ歳でもないじゃん」
俺の言葉に、羊ちゃんは「そんなことないよ」と首を振る。
「一年に一回の大事な日だよ。はしゃいだっていいじゃん。狼谷くん、生まれてきてくれてありがとうって、みんなにお祝いしてもらう日なんだから」
ゆったりと、それでいて芯の通った声。
「今日は狼谷くんの日だよ」
ああほら。またそうやって、羊ちゃんは俺がどうでもいいって捨てたものを、綺麗に埃を払って差し出してくる。
俺がいらないって言っても、そうするのが当然みたいに、大事にする。
だから堪らなくなって、我慢ならなくて。
眩しい。羊ちゃんは、あまりにも眩しすぎる。
だけれど、彼女が手を引くままついて行けば、こんな俺でも真っ当な道を歩いていけるような気がしてしまう。
これはだいぶ重症かもしれない。
間違っても彼女だけは傷つけてはいけないし、欲望に任せて手を出すことも許されない。
「羊ちゃん」
「うん?」
「ありがとね」
彼女はずっと、暗く湿っていた俺を照らしてくれる太陽だから。
「へへ、どういたしまして」
羊ちゃんはまた頬を緩めると、その白い頬にえくぼをつくって目を細めた。




