私の形 脳力がくれたもの
物心なんてなかった子供時代の私は気づいたらそのまま大人になって、気の向くままに言葉をしゃべり受けたと思って悦に入る。
身の回りの物は視界に入っているものの発達特性なのかそれは空虚な背景になり、ただの模様としてキャンパスに塗り込められる。日々の出来事は走馬灯のように過ぎ去っていき私の脳の記憶には断片しか残らない。記憶のかけらが一日を象徴する。
そんな日々を疑うことなく過ごしつつ、私は定型発達者として生きてきた。周囲からかけられる『変』という言葉に戸惑いながらも。自分なりに直感で決めたことに従って生きてきた。そう私は思考をしない。全て直感だけで生きてきた。
日々の営みは無駄なことに費やされて、何も残すこともなくただ定型発達者の人生の真似をして生きていた。しかしその擬態はあまりにも切なくて苦笑の漏れるレベルだという事に気づけない自分がいた。
私は年相応の挨拶もできないし、謝罪をする時は「申し訳ございません」と言って首を垂れることしかやれない。母は不満げに私を睨んで「どうしてまともにできないの」といつも怒っていた。
私が母の話を聞いても、具体的なあいさつ文は私の中にはなく。言葉を紡ぎ出すには私の紡績工場はあまりにも貧弱すぎて、古臭い道具の前で異国人の行員が、手を顔の前に出して目の前にかざしている。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」習いたての外国語の文例のような短い文章が口からこぼれ落ちて地面に落ちた。
そんなことを繰り返して私は老齢になった。父も母も老いていく、私のふるまいは社会には通用しない。コンビニや書店に助けられて生きてきた。娯楽だけが私の命を繋ぐ救命具だった。だが冠婚葬祭は待ってくれない。親戚づきあいという難関もある。欠落したままの私は不釣り合いの頭脳を抱えて、あたりまえのように人として存在しているが、あまりにも拙い経験は私の異常性を浮き彫りにする。
周囲の人は言う。「グループホームに入りなさい」と。自由もないし刺激もない。ただ時間だけを抱えて時が過ぎゆくのを死まで耐える人生。おそらく、そこに行くことになるだろう私は、ただ脳の作りが人と違うだけで何も残さぬまま表舞台から消える。
私がかかわろうと人に駆け寄るが、手と手をつなぐ術を知らない。オウムのように同じ言葉を繰り返し「〇〇って知ってる?」とだけ訊いて、相手が知らないと去っていく子供が私。いつもそのように生きてきた。永遠の子供が私。障害者だから何。一人の人生は一人の舞台で一人芝居をして幕が下りる。