忘れないよ
浜を目指して泳いでいる善行の足に、何かがピタピタと触れた。
「うわ! なんだ? 勘弁してくれ! あの子は、ひこうき雲になったんじゃないのか! そう言えば、海に行きたいって言ってたっけ」
善行はクロールとなり、夢中で泳ぐ。
少しでも急ぎたいからなのだが、密漁ばかりしていた善行は、正式な泳ぎは下手くそなのだ。
「のし」と呼ばれる横泳ぎと、立ち泳ぎと、素潜りばかりがやたらと上手い。
だがこれはスピードが出ない。
だから下手くそでもクロールで泳ぐ。
しかし、不慣れなクロールは息切れがするばかりで、やたらと気ばかりが焦る。
またしても足に、ピタピタと触ってくるではないか。
「うわあ! 本当に! 勘弁してくれ! 名前なんつったっけ? ああ、思い出せない。確か、柳がついてたな。猫柳。んなわきゃ、ないだろ! じゃ、鬼柳。あ! そうだ。鬼柳くん。あいつは、あの年のドザエモンだった。隣のクラスの奴だ。見舞いに来てくれた女の子に聞いて、知ったんだっけ。どっちにしても、嫌な事を思い出しちまった。ひえ! また触った。鬼柳くん、君か? それとも他のドザエモンか? 五年の時の中村君。こいつは同じクラスで、友達だった。中村君。な、助けてくれ! 二年の時は、……一年生の浅田民夫ちゃん。近所の子供だった。そして、一年生の時は、……これは上級生の誰かさん! 名前なんか、知るわきゃないだろ! あん時は、校長の長話で俺、貧血起こしてぶっ倒れたんだ。オモラシした子もいた。なんせ一年生だもんな。許してくれよ。後で名前、ちゃんと調べるから。な。許してくれ。……三年生の時は田中ヤスオだ。三組の奴だ。な。ちゃんと覚えてるだろ! な。な。六年の時は、やっぱり同じクラスの、大友次郎だ。おい、俺の同級生って頻度高いんじゃないか? ……夏休みの真っ最中にクラス全員で葬式に行ったろ。大友、お前、マンガ上手かったな。成仏しろよ。実際、鳴海の辺りは土葬だって聞いて驚いた。埋葬の時、土、一握り、放り込んでやったろ。ああ! また触った! 死に方によってちがうんだって? 本当かよ? 水死だから土葬だって、お前の姉ちゃんが言ってたぞ。……病死なら火葬だってか? 事故死は? 焼死は? うわ! だんだん深みにハマっていくじゃないか。ヤバイよー! 身体が、固まってきた感じ。格好つけてクロールなんかするからだ。助けてくれー! 聞こえる訳ないな。……みんな、みんな、頼むから成仏してくれよ!」
子供のドザエモンの亡霊どもに、まとわりつかれてずぶずぶと沈んで行く。
そんなイメージが、振り払ってても、振り払っても湧いてくる。
善行は必死に泳ぎ続ける。
もはやクロールの体を成してはいない。
苦し紛れの犬かきだ。
「あ! 思い出した! あの子の名は窪柳だ! 窪柳慎二、つったんだ。慎二くん、頼むから成仏してくれ。うあ! 足つっちゃった! うわ! うわ! ……! げぼげぼげぼ。水飲んじまった! ふわあ。もう駄目かもしんない。……なんて呆気ない人生なんだ! こんなに温かい千葉の海で、アップ喰らっちまうなんて……」
善行は、つった方の右足に、ますます、まとわりついてくるのを感じた。
「そうだよな。窪柳慎二くんも、みんなも、きっと淋しかったんだ。解るよ。解ったから、もう勘弁してくれよー」
手だけで泳ぎ続ける善行は、もはや体力の限界を越えて、力尽きた。
「……沈む。……終わりだってか」
……と、なんと砂に、足がつくではないか。
「着いた。助かったあ!」
何歩か進んで、波打ち際にひっくり返った。
──ザザー! ザザアー!
と、寄せては返す波の音が心地よい。
まるで、いきなり現れたみたいに、周りは、お兄ちゃんに、おねいちゃん、おばちゃんに、おじちゃん。とにかく人、人、人だらけである。まさに芋洗い海水浴場ではないか。
太陽はギンギラギン。
浜の方から、焼きトウモロコシの匂いが漂ってくる。
ひっくり返ったまま、こむら返しの右足の親指を引っ張って揉んでいると、逆三角形のプロポーションも眩しい、ライフセーバーの兄さんが、駆け付けてきた。
「あんた、大丈夫かい?」
と言った。
「いてて。つっちゃったよ」
と答えると、
「マッサージ、……やってやろうか?」
と、いかにも嫌そうな顔をして言った。
相手が綺麗なおねいちゃんだったら、いちいち聞かずに、すぐさま始めている。
そんな顔をしている。
「大丈夫。自分でやるから」
と言ってやると、ホッとした顔をして去って行った。
別のライフセーバーが拡声器で叫び始めた。
「本日はクラゲが大量発生してます! 刺された人は遠慮なく申し出て下さい」
善行は笑えなかった。
ドザエモンになった奴らは、皆、泳ぎの達者な河童だったのだ。
河童が溺れたのだから、そりゃ、悔しかったに違いない。
悔しい想いを抱いて死んだ河童は、クラゲになるのかもしれない。 と思った。
そうだ。優しく温かい海水の中を、どこまでも漂って行くがいい。
そして、病院で死んだ窪柳慎二くんは、やっぱり『ひこうき雲』になったのだろう。
見上げるとひこうき雲は、まだ形を残していた。
ギンギラギンの太陽が眩しい。
サングラスを取りにいかなきゃ。