死んだ子供
小学四年の夏休み明けに二ヶ月間、俺は肝炎で入院した。
当初は6人部屋にいた。
皆同じ時期に、同じ症状で入院した、同じ小学校の奴らだ。
いつも一緒に海水浴に行って遊んだ奴もいる。
だから入院生活は、それなりに楽しくワイワイやっていた。
まるで臨海学校のような小児科病棟の6人部屋には、五年生のずいぶんデカくて、大人っぽい顔になった女子もいた。
この娘は鼓笛隊で、ベルリラを叩いていた。
鉄琴にバーをつけたこの楽器はけっこう重い。
だから体格の良い女子が担当する。
五、六年になると急成長する女子が何割かいる。
この娘も急に大きくなって、力も強くなったので鼻息も荒く、よく同じクラスの、まだ可愛らしい顔をした男子を、いたぶっていた。
教室の中で、追い詰められた男子が悲鳴をあげる。
「やめろよー!」
彼女は妖しく笑う。
「うふふふ。だーめよー!」
廊下を通る度に目撃した俺達は、毎度ウププと笑った。
ベルリラは、ベルトを肩に掛け、下腹部にバーを当てがった恰好で行進するのだが、この娘は何故だか、いつもバーが股間の所に行ってしまって、いや、はっきり言おう、モロにアソコの部分に食い込んでいるのだ。
他の女子の場合は、へそと股間の間(へそ下二寸。といったところか?)とか、太ももの、左右どっちかの付け根の脇とか、上手い具合に、キワドク逃げている。
大太鼓の奴に、
「なんで先生は、注意して治してやんねのかな?」
と言うと。
「先生も恥んずかすくて言えねのすう」
と言った。
先生はシャイな、若い男性であった。
だから全員が、見てみぬふりを続けた。
俺はその、食い込んでいる部分の様子が、どうにも気になってしょうがなかった。
小太鼓を叩きながらも彼女の股間に、いつも目線が行ってしまって、困ってしまった。
今年の夏休みは、市民祭でのパレードの練習の為に、鼓笛隊のメンバー達は、せっかくの夏休みの貴重な休日を、何日も返上していた。
そして、夏休みの最終日の三日前が本番、つまり市民祭の当日であった。
ところで、この辺りの海開きは遅く、七月も十五日過ぎの頃なのだ。
しかも、喜び勇んで出かけて行っても、海水に足を入れた瞬間、全身が縮み上がってしまい、結局、泳がずに帰ってくる事もあった。
水温が低すぎるからだ。
だから、水温が上がった八月も半ば頃には、七月中の悔しさを取り戻す為に毎日、意地でも海水浴に行くのだ。
もっともその頃になると、土地の人間は「盆波」と呼んでいるのだが、海は荒れ始めている。
それでも行く。
毎日泳ぐ。
まあ、本当の理由は、ウニやアワビを密猟に行くのである。
ちょっと南へ行くと「北限の海女」ってのがいた。
しかし更に北にも海女はいた。
そちらの方は「さいはての海女」とでも命名するつもりなのか? そんな土地柄なのだ。
大人の本格的な密猟には、目を光らしている漁協なのだが、まあ、ガキの場合は、おおむね見逃してくれた。
だからこの辺りのガキ共は皆、泳ぎが達者だ。
河童なのである。
だが、去年もおととしも、毎年そうなのだが、夏休み明けの始業式の校長の挨拶と訓辞は、夏休み中に溺れて死んだ児童の、追悼から始まるのだ。
全校生徒の中、毎年一人か二人が、必ず死んでいた。
溺れると言っても、死因は皆、決まって心臓麻痺なのだ。
暖流と寒流の交わる、ここいらの海辺では、浮袋につかまっていても、ほんのちょっと沖の方へ流されたり、深みの方へ行っただけでも、冷水の「溜まり」があって、急激な温度差に心臓が耐え兼ねて、その結果、ドザエモンとなるのだ。
だから、ここいらの浜の河童共は、この事を、
「アップを喰らう」
と、事も無げに言ってのける。
「三組の田中ヤスオなあ、グンカン岩の先んとこでアップ喰らったよ」
「ヤスオは達者な奴だったべよ」
「ブイのちょこっと先で、カゼ(ウニ)取ってたんだと」
「運がねえなあ」
「浮袋さ、つかまったまんま、黒浜の方まで流されて、漂ってたんだと」
「死んだまんまか?」
これが去年の、夏休み明けの挨拶だった。
今年は、夏休み中に駆り出されて行われた、鼓笛隊のパレードが引き金となって、何人かがこの、嘔吐と発熱の症状で入院した。
だからこの時点で俺は、今年のドザエモンは誰なのか、まだ知らなかった。
入院から一週間たった頃、俺だけが他の病室に移された。
症状も同じなのに、今でもその時の説明が、よく解らないのだ。
後年、その事を他人に話しても、皆、よく解らないと言う。
とにかく、医者は確かに言ったのだ。
皆は「流行性肝炎」なのだが、俺は「慢性肝炎」なのだと。
だから、別の部屋に移すとの事だった。
そして、更にこう言った。
「おめは、おっきぐなっても、酒っこは絶対、飲んだら駄目だど」
後になって、いわゆるC型肝炎の事なのかと考え、血液検査をした際に聞いてみたのだが、違っていた。
長じた俺は、「酒っこ」を盛大に飲んでいるのだが、どうという事もない。
移った病室は2人部屋で、当然、先客がいた。
他の小学校の3年生の男子だった。
難しい病名の子供で、めっきり温和しい奴だった。
小さい時からずっと身体が弱く、入退院を繰り返しているという。 だから、海水浴なんかも、行った事がないと言う。
「おめ、もっと丈夫になんねば、海さ行っても、アップ喰らっちまうど」
と言うと、
「そんでも、ワア(我。つまり僕)も、行ってみたい」
と、大きな目をくりくりさせて言った。
本当に元気が無い奴だった。
何度となく真っ青な顔になり、その度に、医者と看護婦が駆けつけてきて、「ついたて」が出され、その向こうで治療が行われていた。
毎回こちらは、いい気持ちじゃないのだが、翌日は案外、ケロッとしているのだ。
入院生活が長いせいなのだろう、お見舞いで貰ったリンゴや梨の皮を、ナイフで器用に、大人のようにするすると剥いては、俺に分けてくれた。
だが、いつも食欲が無い奴だった。
だから、
「おめ、もっと食わねばダメだど」
などと言いつつ、ほとんど俺が食っていた事になる。
物を貰っから言うのではないが、本当に優しい子供だった。
俺は看護婦に命じられていた。
夜分、その子の気分が悪くなったら、すぐに非常呼び出しボタンを押すようにと。
「小野寺君はお兄ちゃんなんだから、しっかり面倒見てあげてね」
しかし退屈した俺は、毎日6人部屋へ遊びに行っては、検温と注射の時間だけ戻ってくる有様で、トランプ遊びなんかに熱中しては、夜に及ぶ事もしばしばで、その度に、看護婦に怒られていた。
ある夜、いつも青白かったその子が、更に真っ青になって、息も苦しそうだったので、俺は非常呼び出しボタンを押した。
ボタンを押すのは、これが初めてではなかった。
すぐに医者と看護婦が駆けつけてきた。しかし、いつもの「ついたて」は出されず、その子は、集中治療室へ運ばれて行った。
そして、そのまま帰ってこなかった。
次の日、その子の母親がきて、荷物を持って行った。
母親は俺に、何度もお辞儀をして、お礼を言った。
泣いていた。
二人部屋の、その子のベッドは空になった。
俺が退院するまで、ずっとそのままだった。
その後、6人部屋の奴らは、相次いで退院して行った。
一人になった病室の中で、俺は「死」というものについて、生まれて初めて考え込んでしまった。
これほど身近に経験した「死」は、かつて無かったからだ。
俺は、吐き気がぶり返して、発熱した。
症状が戻ってきたのだ。
だから結局、俺は6人部屋の奴らより、一月後れて退院する事となった。