84話 代償。
ポタポタと落ちる麦の涙は夕日を映す鏡になっていた。
その小さな雫の中、いっぱいに広がる赤は美しく、切ない。
空気に触れるだけで形を変える雫は音もなく、地面に落ちるとその姿を潰した。
きっと、そういうものなのだろう。
瞳から涙が流れて地面に落ちるまでの僅かな時間のように人は人の道を生きるのだろう。
その道の中でどれだけ、涙を流して傷付くのだろうか。
麦は瞳から流れる涙を抑えることはしなかった。
もう、麦の心は限界を迎えていたし犬川ならば何とかしてくれると思っていた。
「犬川さん……オレは…本当はとても悔しかったんです……」
グシャグシャになった顔が悔しさを表現しているようであった。
だから犬川はそれ以上、口を開くことはなかった。
その代わりに犬川は麦の小さな肩をポンポン、と叩いて見せた。
何気ない犬川の行動は思っている以上に麦の心に響いた。
麦の肩を叩いたその手から何かが体の中に入ってきたように麦の体は次第に温かくなった。
それは犬川の特殊能力ではないのだろう。
そう、“人の温もり”だ。
純粋な優しさほど人の心に入ってくるものはない。
それはきっと、警戒心を自然と溶かす魔法の想いなのかも知れない。
「花形さん、そろそろ、行きましょう。ここは冷えますよ」
「……はい」
冷たい風に髪をなびかせた犬川はまた、麦の肩をポンポンと叩くと歩くことを促した。
歩く度に体に染みていく犬川の優しさ。
決して、目に見えるものではないがそれは確かに麦を支えている。
また、道を歩くと麦は瞳から涙を流しかけたが今度はグッとそれを堪えた。
涙と共にそれも流れしまいそうだったからだ。
犬川の後に続いて歩く麦は途中で大きな駅を目にした。
駅はその大きさに比例するように多くの人を集めている。
いや、時間が人を集めているのかも知れない。
この時、麦は駅を見た時に修復屋へと帰りたくなった。
それは唐突で、なぜそう感じたのか麦にも理解できなかった。
ただ、言えることは麦は疲れているということだけだ。
「お疲れ様です。ここが僕の家です」
不意に犬川は足を止めた先には小さな家があった。
「ここが…犬川さんの……?」
「はい。ま、入って下さい」
家と言うよりは麦の目の前にあるのは店であった。
しかし、犬川が胸を張って家と口にする為に麦はそれを口にすることができなかった。
犬川が家だと口にする建物には“パン屋ジャック”という看板が付けられており、多くの人が出入りしている。
犬川の後に続き、店に麦が入ると甲高い鈴の音が鳴り響いた。
その瞬間、店の奥から若い女性が足早に姿を見せた。
「いらっしゃいませ」
腰が低く、優しそうな表情を浮かべた女性は麦に軽く頭を下げて見せた。
なんとも清楚や謙虚、という言葉が似合う女性である。
接客業を行う麦は目の前の女性の姿勢を見て、心から接客の真髄を思い知らされた。
「ただいま、百ちゃん」
親しげに片手をあげた犬川は女性に笑みを浮かべると女性は少し頬を赤くして犬川におかえりなさい、と口を開いた。
「あ、自己紹介遅れました。私はここで働く松林 百です」
犬川から麦へと視線を向けた百は麦に詫びるように自己紹介をした。
それに反応して麦は慌てて自己紹介を始めた。
「オレは花形 麦です。そして、オレの背中で気を失っているのは水野 蛍ちゃんです」
麦の名を聞いた百は笑みを浮かべていたが蛍のことを紹介をされた百は少し笑顔を引きずった。
それが何を意味するのか。
麦は一瞬、疑問を覚えたが麦に考える時間を与えまいと犬川は麦を奥の部屋へと促した。
「少し、ここで待ってて下さい」
畳の敷かれた小さな部屋にちゃぶ台が置いてある。
そのちゃぶ台の隣にある座布団に腰を下ろした麦は疲弊した蛍を部屋の隅に横にさせた。
1人の時間が麦を少しだけ不安にさせた。
本当にここへ来て良かったのだろうか。
犬川が麦と蛍の命を救ったのは紛れもない事実であるが、犬川が何者かわからないのも事実なのだ。
病院で出くわした槍を持った男と犬川は恐らく、知り合いなのだろう。
それならば、あの男のように麦と蛍の命を狙っていたとしても不思議ではない。
「ホタルちゃん……」
麦は様々な負の思考を頭に抱えながら隣で横になっている蛍の手を握って見せた。
所々に傷があり、それはあの男につけられたものなのだろう。
「本当にごめん…」
麦は自身の手を金色の光で包ませるが蛍の手の傷が完治することはない。
全てを絞り尽くしたかの様なやるせない想いと力。
麦は治せない傷を目の前にして、蛍の手を強く握った。
麦の力は完全に失われた訳ではない。
しかしながら、期限がきていることは確かなのかも知れない。
麦は自身の期限を知ると同時に悔しさ噛み締めた…。
次回の更新は3月16日(土)です!
【登場人物】
花形 麦→修復屋ウィートの修復士。
半 重春→修復屋のオーナー。
水野 蛍→蜜柑高校1年1組。父親を探している。
春下 舞火→蛍の友達。蜜柑高校の生徒。
月並 零花→病気が完治。
嵐山 轟太→学校の問題児?
嵐山 雪子→轟太の6つ下の妹。
青野 温子→ゴミ屋敷の住人。
青野 槙子→ゴミ屋敷の幽霊。
剣持 境矢→聖人?
謎の女?→浄化。
鶴巻 大也→鶴巻グループの人間。
犬川→手紙の主。
水野 空→??
槍の男→麦の命を狙う者?




