82話 玄人。
男は犬川の敵意をその瞳の中に納めた。
そして、地面に突き刺さる槍を手に取るとジリジリと距離を縮め始めた。
そんな男とは別に犬川はその場から動くことはせず、ジッと男を睨み付けている。
それは決して、男に臆しているから動けない訳ではない。
犬川には自信があるのだろう、麦は感じた。
犬川の立ち姿、表情は男が槍を手にしてもなにも変わっていない。
犬川には確固たる自信があるのだろう。
そして、その自信が麦と蛍を少し安心させた。
「犬川さん……」
蛍は緊迫した空間の中で息継ぎをするように声を洩らした。
不安にかられている訳ではない。
むしろ、その逆であり蛍は少し安心してしまっているのだ。
犬川の背丈は麦と蛍よりも大きい。
だが、そんなことは関係なく蛍が犬川の背中を大きく感じたのは言うまでもない。
「殺り合うのか?」
ジリジリと犬川との距離を縮めようとする男は犬川のその言葉を耳にして足を止めた。
額から溢れる汗が男の心境を語っているのに加えて、犬川との絶対的な力の差を物語っている。
そんなにも犬川という人間は力を持っているのか。
麦と蛍は男の様子からそれを思うと犬川の顔色を伺った。
犬川は至って普通である。
犬川が麦と男の間に割って入った時から犬川の顔色は変わっていない。
それは犬川が“達人”であることを意味している。
ある種の達人は自身の中に自信をしっかりと獲得し、揺るぎない精神を形成している。
まさに、今の犬川がそれにあたる。
達人の領域までに犬川という人間はその道で名を馳せているのだろう。
「…私は自らの責任を果たそうとしているだけです」
「責任…ね」
犬川は男に対して嫌な顔を見せた。
麦と蛍には犬川と男が意味していることが全く理解できないでいたがそれでも危機的状況であると感じた為に背筋を伸ばした。
そして、麦が口を開いた。
「犬川さん、よく状況が飲み込めないんですが……」
「大丈夫。君達は僕が守るから」
麦はその言葉に思わず生唾を飲み込んだ。
麦も蛍を守る、と口にしたがそれはどれだけ頼りにならなかっただろうか。
結果的に犬川に救われ、自分は自爆することしか考えることしかできなかった。
一緒に町へ帰る、と心の中では思っていても頭では自爆を考えていた麦は犬川の顔を見れなくなった。
情けない。
そう思って麦は視線を落とした。
そんな麦と犬川の会話は犬川に隙を作ったことは確かである。
しかし、男は動きを止めていた。
犬川との距離は槍を伸ばせば届くだろう。
槍を投げれば命中するだろう。
それにも関わらず男は犬川に対してなにもしなかった。
蛍は男の様子を見ていた為にそれを疑問に思っていた。
命のやり取りの場面において、相手から目をそらすという行為は自殺好意であることは確かである。
だが、男がそれをしなかったことから蛍は純粋に犬川に恐怖を抱いた。
底無しの未知に襲われている恐怖と守られているという安心感が蛍の心の中で渦巻いていた。
「…わかりました」
麦に視線を向ける犬川の視線を奪い去るように男は声をあげた。
その声は震えていて、決意じみている。
「なにがわかったんだ?」
そんな男に追い討ちをかけるように犬川は男に視線をぶつけた。
「今回は見逃しますよ」
「そっか、それはありがたいよ」
「しかし、今回はです」
男は犬川とい念を押すように強い口調でそう言うと麦達に背を向けた。
それはまるで、犬川に敗北宣言をしているようであったが麦は優越感を感じなかった。
そんな余裕がないのだ。
一刻も早く、真の意味で安心を手に入れたいと思っていたからだ。
「そっか」
犬川は背を向けた男をそれ以上、追求することはなかった。
男のプライドの損傷を気にしてなのか、完全勝利に酔っていたのかはわからない。
そのどちらにしても、男が足早に麦達の前から姿を消したことは確かである。
その瞬間、膨らんだ風船が一気に縮むように麦はその場で膝をついた。
「はぁ~……良かった」
気を張っていた為か麦の体から力が抜けた瞬間を目にした蛍はフラりとふらついた。
「ホタルちゃん!?」
そんな蛍に素早く反応した麦は蛍の肩を支えて見せた。
「すみません…なんか安心してしまって……」
この数分間で一番、気を張っていたのは蛍なのだろう。
父と再開を果たし、麦を守ろうとしたのだから。
加えて、蛍はまだ高校生である。
高校生にしてはあまりにも重い出来事であり、完璧に処理をするのには時間がかかるだろう。
「良かったら、僕の家で休みますか?」
「はい、お願いします」
麦は犬川に即答した。
この時、麦の頭の中に遠慮という言葉は浮かばなかった。
それ以上に色々なことを知らなければならない、と感じていた。
これからの未来の為に。
そして、次に男と対峙した時に蛍を守れるように…。
次回の更新は3月9日(土)です!
【登場人物】
花形 麦→修復屋ウィートの修復士。
半 重春→修復屋のオーナー。
水野 蛍→蜜柑高校1年1組。父親を探している。
春下 舞火→蛍の友達。蜜柑高校の生徒。
月並 零花→病気が完治。
嵐山 轟太→学校の問題児?
嵐山 雪子→轟太の6つ下の妹。
青野 温子→ゴミ屋敷の住人。
青野 槙子→ゴミ屋敷の幽霊。
剣持 境矢→聖人?
謎の女?→浄化。
鶴巻 大也→鶴巻グループの人間。
犬川→手紙の主。
水野 空→??
槍の男→麦の命を狙う者?




