21話 毒の牙。
それはポツポツと麦の頬に落ちた。
生暖かく、麦の頬に触れた瞬間に冷たくなるそれは間違いなく零花の瞳から流れ落ちたものである。
それに答えるように麦は優しく呟いた。
「治す?怪我でもしてるの?」
その麦の声は月明かりで僅かに光る店内に響いた。
店内に麦と零花しかいなかったから、その麦の声は響いたのだろうか。
いや、それは違う。
実際には麦の声は店内へは響いてはいない。
ではなぜ、店内に響いたかのように零花は感じたのか。
それは零花の心に空いた穴に麦の優しさが流れ込んで来たからだろう。
それは実に大胆に、それは実に優しく。
零花の心を温めて仕方がなかった。
「怪我じゃないんです…怪我じゃ……」
今まで心のダムに溜めていた涙が零花の瞳から流れ始めた。
先ほどの涙とはまるで大きさが違う。
全て大粒で、生暖かい涙。
1粒、1粒に想いが込められていて、麦は零花の涙が頬にあたる度に心がざわついて仕方がなかった。
「落ち着きな。大丈夫だから」
「……本当に?」
決して、麦は簡単に大丈夫、という言葉を使った訳ではない。
麦には自信があったし、覚悟していた。
怪我ではない。
その零花の言葉から零花が苦しめられているのは“病気”であると容易に推測することができる。
麦の力では怪我や物の修復、病気など幅広く治すことが可能であるが、それにも限度が存在する。
あまりにも致命的な怪我や深刻に進行している病に関しては麦にでも治すことができない場合がある。
必ず、治す。
そう、そんなことは麦にはできないのだ。
麦は限りなく神に近い力を持っている。
しかし、決して麦が神になることはない。
だから、麦は自信と共に覚悟を決めていた。
治せなかった時、どんな八つ当たりも受ける覚悟を。
「私……病気なんです。移されたんです……男に」
「うつされた!?」
「はい。治りますか……?」
それは病気による。
麦は零花にそうすぐに答えそうになったが、麦はグッとそれを堪えた。
なぜならば、零花の涙が麦にそうさせなかったのだ。
零花の涙が麦の胸を熱くさせるのだ。
だから、麦は声を高くして零花に答えた。
「大丈夫。オレは修復屋だぞ。治せないものなんてないんよ」
「麦さん……」
零花は大粒の涙が流しながら、体を曲げると麦の胸に顔を埋めた。
ずっと、こうして泣きたかったのだろう。
シャツを強く握る零花の手から麦はそれを思った。
ずっと、零花は1人で戦って、誰かを騙して生きてきたのだろう。
そんな自分の生き方に対する罪悪感や嫌悪感が零花に涙を流させているのは間違いないが、それだけではないのだろう。
やっと、助かる。
そんな想いを零花は抱いていて、救われることに対して安心しているのだろう。
「麦さん……麦さん……」
零花は必要以上に麦の名を麦の胸の中で口にした。
「大丈夫。大丈夫だよ」
麦は零花に名前を呼ばれる度に大丈夫、と口にして零花の頭を優しく撫でて見せた。
一見するとこの麦の行為は慈愛に満ちた行為である、と受け止められるかもしれないが、麦は戸惑っていた。
いつ、零花に病気の詳細を聞けば良いのか。
それ次第では残酷な結果が零花には待っていることになる。
麦は零花の頭を撫でる度に、頭を回転させて自分が知っている病気を並べた。
月明かりがその光の角度をずらし始めた頃、零花の瞳から涙は止まり、零花も落ち着きを取り戻そうとしていた。
「零花さん、大丈夫?」
「うん。ありがとうございます」
麦は布団の上で視線を落として座る零花を見て、ゆっくりと立ち上がると店のカウンターへ行き、コップに水を入れて零花のもとへ戻った。
「これを飲むといいよ」
「あっ、ありがとうございます」
麦から水が入ったコップを受け取った零花はそれを飲み干すと麦に頭を下げて、呟いた。
「やっぱり、優しいですね」
その言葉は零花の本心から出た言葉なのだろう。
零花の表情や口調、その目からそれが感じられる。
そして、それと同時に零花の目は決意に満ちていた。
その強く輝く、真っ直ぐに伸びた視線の先には麦がいる。
だから、麦も背中を真っ直ぐにして緊張を表に出した。
ついに、来るのだ。
麦は死刑を言い渡す裁判官の気持ちに共感することができるほど、胸がドキドキした。
「麦さん、私の病気のことを聞いて下さいますか?」
「うん。もちろん、聞かせてもらうよ」
躊躇うことはもう、ない。
どんな病気であっても、どんなに進行していても治して見せる。
麦はそれを自分に誓っていた。
「この病気になったのは元カレが原因なんです」
「元カレ?」
「はい、私はこの病気を元カレから貰いました」
そう、語った零花は麦に背を向けて身を包んでいる白いシャツを脱いで、麦に背中を見せつけた。
その瞬間、麦はゾッとした。
あまりにも美しい背中をしていたからではない。
赤い発疹が無数にあったからだ。
その発疹はまるで、零花の体を支配しようと背中に広がっていて、やがて零花の命を蝕むことが予想できた。
そして、麦はこの病を知っていた。
「これは……」
その病は麦の古傷を抉る牙である…。
次回の更新は7月20日(金)です!
【登場人物】
花形 麦→修復屋ウィートの修復士。
半 重春→修復屋のオーナー。
水野 蛍→蜜柑高校1年1組。父親を探している。
春下 舞火→蛍の友達。蜜柑高校の生徒。
月並 零花→病気に苦しんでいる。




