102話 階級。
廊下で楽しげに会話をする兄と祖母の会話の内容はわからない。
しかし、その中に麦が顔を出せば水を指すことになる。
そのぐらいのことは麦は理解していた。
だから、黙って、くるりと回り2人に背を向けた。
背中から包まれるような深い闇。
それがすぐそこまで来ていて、背を向けた麦に冷や汗を流させた。
心臓は激しく音を鳴らし、手は勝手に震え始める。
母よりも祖母のほうが麦に対して、嫌悪感を抱いていた。
麦を見るなりにいつも祖母は言うのだ。
“汚らわしい”と。
幼い頃の麦も今の麦も祖母がそれをどのような意味で口にしているのかわからない。
だが、それでも祖母が自分のことを愛していないことはしっかりと理解していた。
あまりにも歓迎されない自分の存在にため息をついて、諦めることしか麦にはできない。
そう、愛されることを諦めることしか。
「おい、麦!」
後ろから迫る闇は大きく手を伸ばして麦の動きを止めた。
麦を呼ぶその声は甲高く、機嫌が良いことがわかる。
決して、弟の麦を見かけたから兄の大也の機嫌が良い訳ではない。
見下し、自身の自尊心を高めることができる存在を見つけたからこそ、大也は機嫌が良いのだ。
そんな兄と話すことはない。
しかし、この状況で兄の手を払うことは麦にはできなかった。
父がつけた“ファザーカースト”に逆らうことになるからだ。
下民は王様の手に機嫌良くキスをしなければならないのだ。
「兄さん……。どうしたの?」
「どうしたって……。別に用なんてないさ、ただ、可愛い弟を見かけたから声を掛けたってだけさ」
嘘だ。
麦は大也の黒い瞳を見てそう、心の中で呟いた。
大也の瞳は純粋さを表現するかのように透き通った黒色をしている。
誰が見ても、大也のことを人として立派で純粋な人であると感じるだろう。
しかし、麦は違う。
大也の瞳の黒が心の黒さだと感じていた。
平気で自身の弟を自己満足の出汁に使う男なのだ。
麦にとって、これほど黒い人間はいないのかも知れない。
「ねぇ、お婆様」
大也は祖母が麦を煙たがっているのを知っている。
知っているからこそ、祖母に顔を向けた。
祖母の表情が先程と違い、嫌な表情になっていくのが麦には容易に理解できた。
祖母はあからさまに麦に嫌な顔をしている。
その瞳や仕草は早く消えろ、と麦に言っているようで麦に後退りさせた。
「どうした?麦」
一見すれば、大也は麦の体調を心配しているように見えるかも知れないがそれは違う。
大也の顔は優越感に満ちており、愛情の差を見せつけているのだから。
“愛”は目には見えない。
その為、感じ方がものを言うものだ。
だから、人は全力で愛しい人に“愛”を表現するのだろう。
愛を口にしたり、思い切り抱き締めたり。
そうやって、人は愛を知り、それを継承していく。
それらを与えてこられなかった麦には愛が何かを知らない。
どれだけ、温かいのか。
どれだけ、優しいのかも知らないのだ。
ただ、知っているのは愛されない者の扱いである。
瞬時に理解できるほどの差は麦にとっては当たり前の日常。
「いや……調子が悪いからオレは…部屋に戻るよ」
「そうか、大事にな」
大也と祖母に軽く頭を下げた麦は足早にその場を去った。
同じ空気を吸っていたら、潰れる。
麦の心にあるのはそれだけで、その思いが麦を急がせた。
そんな早送りの時間の中、麦は聞いた。
「チッ……」
振り替えることはしなかった。
なんの配慮もなく、人のことを考えない舌打ちを鳴らしたのが誰なのかを理解していたから。
祖母である。
なぜ、舌を鳴らしたのかはわからない。
ただ、麦を気に食わなかっただけなのかも知れない。
しかし、それは無防備の相手にナイスを突き刺すかのようなものであり、その傷は深い。
なぜ、相手の心のことを考えないのか。
なぜ、人を傷つけることに躊躇いがないのか。
なぜ、人のことを考えずに自由なのか。
色々な思いが交差して、麦の心に激しい打撃を与えた。
傷ついた心は涙となり、麦にそれを知らせる。
「くっ……く…く……」
誰にも見られてはいけない。
この涙は誰にも見られてはいけない。
涙を見ても、誰も助けてくれないから。
涙で歪んだ視野では自分がどこを歩いているのか、わからない。
それでも、人の気配を察知し誰もいない所を選んで進んだ。
ポタポタと絨毯に吸収されていく涙は単純である。
涙は吸収されても麦の心は誰にも受け入れてもらえないのだから。
歩いて、歩いて、歩いて、麦が辿り着いた場所。
そこは自分の部屋ではなく、地下へと続く階段であった。
鶴巻家の屋敷は広く、家の人間でも屋敷を網羅している人物はいない。
だから、麦は地下へと続く階段に驚くことはなかった。
「ここは……」
なんの根拠もなかった。
この先に救いがあるとは思わなかったが、それでも麦の足は自然と階段に伸びた。
“愛”を求める為に…。
次回の更新は4月30日(火)です!
【登場人物】
花形 麦→修復屋ウィートの修復士。
半 重春→修復屋のオーナー。
水野 蛍→??
春下 舞火→蛍の友達。蜜柑高校の生徒。
月並 零花→病気が完治。
嵐山 轟太→学校の問題児?
嵐山 雪子→轟太の6つ下の妹。
青野 温子→ゴミ屋敷の住人。
青野 槙子→ゴミ屋敷の幽霊。
剣持 境矢→聖人?
謎の女?→浄化。
鶴巻 大也→鶴巻グループの人間。
犬川→手紙の主。
水野 空→??
槍の男→麦の命を狙う者?
鶴巻 栞菜→鶴巻 大也の妹。
鶴巻 賢次→鶴巻グループの社長。




