ブルーリバー
玄関に入り、誰かいないかと見回すと、丁度カウンターにいた祖母と目が合った。
「あらぁ。早かったわねえ」
「ばあちゃん久しぶり。お言葉に甘えて来させて貰ったよ」
荷物を降ろし、スリッパに履き替えながら挨拶をした。祖母はカウンターの中で何が作業しているらしく出てこなかったが、俺の顔を見て笑みを浮かべていた。
最後にこの民宿に入ったのはもう6年以上前だったが、見た目も雰囲気も俺の記憶と殆ど変わっていない。古民家を改築した宿は古き良き日本の家の味を旨く残していて嫌いじゃなかった。
山間にある、夏に夜通しで行われる踊りで有名な小さな町。祖母が経営しているこの民宿にもほぼ満室になるほど客が入っているらしく、夕方のこの時間は忙しさに満ち溢れていた。
ロビーに荷物を置いてカウンターに近付いて、改めて祖母に挨拶をする。
「本当に久しぶりだねえ。引っ越してから一度も顔を見なかったから少し寂しかったけど、まあ大きくなったわねえ」
「最後に会った時はまだ中学生だったからね。ばあちゃんも元気そうでなによりだよ。これお土産」
来る時に買った菓子折りを渡しながら再会の挨拶を交わす。両親の様子だとかを軽く話した後、俺はロビー内を見回しながら、少し声を抑えて呟いた。
「ここも無くなっちゃうんだなあ」
この民宿は今年で畳まれることが決定していた。経営が苦しいわけではないが、単純に跡継ぎがいないのと、建物自体の老朽化が目立ってきた為だ。
祖父は既に他界し、祖母が定年を迎えたのも二十年近く前の話だ。両親は別の仕事を持ち、跡継ぎの話は出たものの建物の建て替えも必要となるとその経費を出すのは難しく、何より祖母が「爺さんと共通の趣味でやってただけだから」と一代限りで終わらせたがったので、惜しまれつつも畳むこととなったらしい。
客として泊まったことは無かったけど、小さい頃は掃除や片付けを少し手伝った覚えがある。忙しかったがそれなりに楽しかった。
「始めてからいろいろあったけど、辞め時が見つかってよかったよ」
清々しく言うが、やはり言葉の端には寂しさがあるように思えた。
「さて。部屋は二階奥の客間を使ってちょうだい。お友達が後二人明日の夕方に来ると聞いたけど、部屋は同じでも大丈夫かね」
「それで大丈夫。野郎三人だから気兼ねすることないし、それより只で泊まらせてもらうんだから贅沢は言わないよ」
「はいはい。あと、夕食も用意できるけどどうするね?」
「あー、迷惑じゃなければ明日は友達の分も用意しといて貰えると」
「それじゃそうするかね。そんじゃゆっくりして行きなさい」
一通りのやり取り後、荷物を持ち、鍵を受け取って二階に上がる。廊下を進んでいると床の軋む音が幾度か鳴り、やはり建物の古さを感じさせた。
二階奥の客間は通常の客室とは少し違うゲスト用だ。豪華な部屋ではないが眺めがいい所で、街並と周囲を囲む山々が綺麗に見える。
部屋の隅に荷物を置き、中央の机にご丁寧に用意してあったお茶をいれて一息つく。ここまでの喧騒が一気に収まり静寂が訪れ、俺は大きく息を吐いた。
正直なところ、この街に戻ってくるのは少し憂鬱だった。中学の時、親の仕事の都合で夏休みに入った直後に引っ越すことになり、友人達と別れるのは子供心に悲しかったが、それとは別に心にしこりを残す出来事もあった。
「……腹減ったな」
時計を見ると夕方の五時過ぎ。まだ外は明るく、夕飯にはかなり早い。かと言ってテレビを見ても特に面白い番組もなく、茶請けを摘みながら呆けても仕方がない。
窓際に寄って外を見る。既に今夜の祭りの為に浴衣で歩く人の姿が多くなってきている。日が落ちて町中の街灯や提灯に灯が点る頃には、歩く隙間も無いほどの人通りになっているだろう。
そうなる前に数年ぶりに懐かしい故郷の町を歩いてみるのもいいんじゃないか。少しだけ重い足を動かして、俺は外に向かった。
※
俺の記憶力が悪いのか、街並が変わりすぎたのか分からないが、久しぶりどころか全く知らない町を歩いているようだった。
辛うじて町の中央を流れる川と、大通り沿いの商店街を見てこうだったような気がすると感じる程度で、細かい道は全然覚えていない。
ここからでは見えないが町の駅も何年か前に比較的大きな駅ビルに建て替えられ、少し離れた場所に大型のショッピングモールも出来ている。古くからある商店街の活気はまだ保たれているものの、シャッターが閉まっている店もちらほらあった。
それが寂しいというわけではない。中学まで生まれ育った町で、人並みに思い入れはあるけれど、変わってしまうのは仕方が無いことだと思う。
歩道の人は地元の人よりも観光客らしき人の方が多い。夜からの祭りがある所為か店もこれからが本番というように道行く人に声をかけている。
川の方に行ってみると流石に川に入っている人は居ないが、子供はまだ近くで遊んでいる。俺も小学生の時は毎日のように川で遊んでいた気がする。中央付近が結構深い川で、岩場からよく飛び降りていたものだ。
そうこうしている内に段々と日が沈み始めている。気がつけば戻ってきていて、祖母の民宿に宿泊客が入っていくのが見えた。
この近くには地元民向けの食堂もいくつかあったはずだ。歩きながら拙い記憶を辿っていると、大衆食堂と書かれた看板が目に入った。表に出ているメニューを見るとそれなりに安くて量がありそうだ。
「ここでいいか」
あまり深く考えずに俺はそこで夕飯にすることにした。
「いらっしゃい」
厨房から主人らしき人の声がした。
中はいかにもといった個人経営の食堂だった。客の姿は無く、テーブル席では店員らしき女性が新聞を広げていた。
カウンター席に座ると店員が水を持って置いていく。メニューを見るとチャーハンやラーメン、カツ丼といったものから焼肉や秋刀魚の定食などいろいろある。普通にご飯を食べたかったのであり難い。
「何にするかい」
「えっと、生姜焼き定食。ご飯大盛で」
厨房の親父にそう告げて水を一口。少し歩いた所為か水が旨かった。そういえばここは湧き水が多いことでも有名だったか。
店内には客用の新聞や雑誌が置いてある棚と小さなテレビが一つあり、俺はテレビに目を向ける。ニュースが映っていて、祭りの話題が丁度映っている。
祭り自体はもう始まっている。特にお盆付近の四日間、昨日からは夜中どころか明け方までずっと町中で踊りが行われ、その熱気と騒がしさは他に類を見ないほどだ。子供の時はその時期だけは公然と夜更かしが出来たから、何時にもまして遊び尽くしていた。
今夜もそれが行われる。宿でのんびりするのもいいが、少しは祭りにも参加してこようかと考えていると、ことん、とカウンターにご飯が置かれた。
生姜焼きはまだ来ていない。まあとりあえずご飯をと箸を持ったが、ご飯を置いた店員が離れていかずその場に立ったままだ。
何か、と言おうとして店員の顔を見る。その時、俺はここに戻ってきてから始めて明確に懐かしさを覚えたような気がした。
「もしかして、天地君?」
店員が驚いた様子で俺の名前を呼び、俺の箸が止まった。
「……谷屋か?」
急速にフル回転を始めた俺の脳は、正しくその店員の苗字をはじき出した。
谷屋は中学の時の友人、だった。
同じクラスで、クラス委員で同じになったのが切欠で話すようになった。始めの内は委員の時にし話すことはなかったが、意外と話が合い、休み時間とか放課後に時々話をしたりするようになった。
付き合っていたわけではない。一緒に居て楽しかったのは確かだけど、当時はまだ思春期に入ったばかりで、少なくとも俺は好きだとかそういう感情が良く分かっていなかった。
谷屋のことが好きだと自覚したのは転校することになった時だ。その話を谷屋含む友人達に話したところ、谷屋は聞いて直ぐに泣き出してしまった。困惑しながら家に帰り、そのことを考えている内に気がついたのだ。
ただその後、谷屋とはあまり話すことなく、俺は町を離れてしまった。ちゃんと挨拶できなかったことや、気持ちを伝えられなかったことを悔やみ、何度か連絡を取ろうとも思ったが、結局今まで音信普通のままだった。
俺がここに戻ってくるに辺って少し憂鬱だったのはその所為だ。あの時の苦い思い出がまだそのまま残っている。
しかしまさか、こんなところで会うなんて予想だにしなかった。
「ここでバイトしてんのか」
だからと言うわけでもないが、数年ぶりの再会の台詞は、そんなどうでもいい話題になってしまった。もっと他にあるだろうにと内心後悔する。
「ううん。ここ、私の家だから」
しかも予想も外れてしまう体たらくだ。
「ああそうか。そう言えば、昔家の手伝いがあるとか時々言ってたっけか」
「うん」
谷屋は質問に答えてから、しかしそこに立ったままだ。
「座ったら?」
「一応仕事中だから」
と言っても俺以外に客は無く、谷屋もさっきまで新聞を読んでいただろうに。
厨房では谷屋の父親だろう店主が料理を進めているが、どこかこっちの様子が気になるらしい。まあ、それはそうだろう。
当たり前かもしれないが、谷屋は中学の頃と比べるとずいぶん変わり、綺麗になったように思う。しかし、何処と無く地味と言うか、大人しい雰囲気はそのままのようだ。
「天地君、こっちに戻ってきたの」
「大学が夏休み中で、祭りの期間だけ遊びに来たんだ。近くにばあさんがやってる民宿があるからそこに泊まってる」
「そう、なんだ」
呟くと、谷屋はようやく椅子に腰を下ろした。しかし俺のほうは見ず、少し俯いている。
谷屋の頭の位置が俺よりもかなり低く、俺は彼女を見下ろすようになる。中学の時はそこまで差は無かった気がするが、数年の歳月はやはり色々な物を変えるんだなと思う。
早くも会話が途切れてしまった。あまりに突然で、何を話していいのかが分からない。お互いがそんな状態のようだ。
気まずい時間だけが過ぎる。
軽い感じで昔の話をするべきか。それとも連絡しなかったことを謝るべきか。それも気にせずに世間話でもした方がいいのか。
そんなことを考えている内に、目の前に皿が置かれていた。
「生姜焼きあがったで。おい、みそ汁とお新香」
「あ、はい」
親父に促され、谷屋は慌てて立ち上がって厨房の中に入っていった。俺はその姿を追ったが、それはそれとして空腹に耐え切れず生姜焼きに手をつける。少し甘みが強いがいい味だった。
食事に夢中になっているうちにみそ汁とお新香が出てくる。谷屋のことは気になるが、ひとまずそれは置いておき、食事を進めた。そうしている内に客が少しずつ増え、谷屋も親父も俺にかまう暇が無くなり、結局その後、谷屋と話す機会は無くなってしまった。
勘定を済ます時に谷屋が何かを言いかけたが、「……またどうぞ」と呟くだけだった。
※
窓の柵に身体を預け、外を眺めていた。
少し離れた大通りでは今まさに大勢の人々が踊りに明け暮れているはずで、民宿前の通りにも人が溢れている。
引っ越す前までに何度も見た、毎年恒例の光景だ。ただこうして宿から見ていると少し違った風情があり、新鮮にも感じる。
ついさっきまで大通りに出、様子を見ていたがあまりの人の多さに少し中てられてしまったようで、少し頭がぼんやりする。道中で買った酒を入れつつ、やや抑えられた喧騒をBGMにしていると、少しだけ当時のことが思い返され、珍しく感傷的になった。
今日は朝から半日近く電車に揺られていた。それに夜も遅くなりアルコールも入っているが、不思議と眠気は感じない。もう一度祭りの雰囲気を味わおうかと考えたところで、ドアがノックされる音がした。
「はい」
何だろうかと扉を開けると祖母が立っていた。
「まだ起きてたかね、よかったわ。あんたに客が来とるよ」
「俺に客?」
どういうことだろう。とりあえず祖母の後についていく様にロビーに向かい、玄関の方を見てみると、脇の長椅子に谷屋が座っているのが見え、一瞬足が止まった。
谷屋は食堂の時と同じように、前方の斜め下を見つめて座っている。その姿勢は自然なようで何か決意しているようでもあり、神秘さすら感じさせるものだった。
近付くと向こうも気が付いて少し腰を浮かせたが、立ち上がりはしなかった。
「俺がここに居るって良く分かったな」
「近くの民宿って言ってたから。それに、天地君が窓から見えた」
そういえばそんなことを言った気がする。
「お店が終わったからお祭りを見に行こうと思うんだけど、その、天地君もどうかなって」
祭りは半分口実だろうということは分かっている。いや、もしかしたら俺がそうであって欲しいと思っているだけかもしれないが、ともかく断る理由は無い。
「いいよ。少し酒を飲んでたし、丁度外を歩きたい気分だった」
そう返事をすると、谷屋はようやく顔を俺に向け、微かに微笑んだ。
部屋着のままだったので、急いで着替えを済ましてロビーに戻る。祖母によるとお盆の期間は終日玄関を開けているからいつ戻っても構わないとのことで、俺と谷屋はそのまま並んで外に出た。
この地方では真夏でも気温があまり高くならず、夜ともなると半袖では肌寒いくらいの時もある。ただ人の密度が高い為、大通りにいると汗ばんでくる。
その大通りには民宿前の道を真っ直ぐ進めばすぐにたどり着く。隙間から踊る人の姿が見えると、流れている曲の音量も大きくなってきた。
それでも道を抜けると一気に雰囲気が変わる。何百か何千か、道を埋め尽くすように人が並び、老若男女が一心不乱に踊りを披露している。さらに両脇でそれを見物する人、それを目当てに客を呼び込む商店が活気に拍車を掛けている。
昔は俺もこの中に混ざって祭りを楽しんでいた。明日友人達が来たら折角だし少しくらいやってもいいだろう。踊り方は忘れたが周りと合わせていればどうとでもなるものだ。
谷屋も浴衣ではなく普段着で、踊りに来たわけではないらしい。
「ちょっと行きたいところがあるんだけど、いいかな」
「別にいいけど」
周りの音が煩い為、谷屋は俺の耳元で大声を出すようにそう言った。それでも辛うじて聴き取れるくらいだったが。
俺が頷くと谷屋は人の隙間を縫うように歩き出した。その方向は町の中央の方角だ。
「どこまで行くんだ」
前を進む谷屋に聞くと、谷屋は言葉ではなく手を上げて、前方を指差した。その先にあるのは、まさに祭りの中心地、曲の演奏などが行われている櫓がある。
演奏を近くで見たいのか、それとも知り合いでも居るのか知らないが、ともかく目的地まで歩いていく。谷屋は身体の小ささもあるからか意外とすいすい人の間を抜けていき、俺は逆に強引に掻き分けていく。
櫓までは一曲分くらいの時間で到着した。遠くからだと結構目立ち大きく見えたが、実際には一階建ての民家ほどの高さだ。
丁度大人の人の高さ辺りに畳が敷かれ、そこに十数人が座って演奏を行っている。まさに祭りの中心部だ。
今も演奏が行われている。演奏者の多くは中高年の男性だが、中には高校生か大学生くらいの男女もいた。
谷屋はその演奏の様子をじっと見つめていた。今までと違い真剣そのもので、あまり見覚えの無い表情だった。
彼女はこれを見たかったのだろうか。どことなく話しかけ辛く、俺は谷屋が動くまで待つことにした。こうして見ていると、踊りではなく演奏の様子を見るのも案外面白いものだ。
やがて曲が終わる。各々が楽器を下ろし、踊りが一旦止まったタイミングで、「お疲れ様」と谷屋が櫓の中に声を掛け、反応して何人かが振り向いた。
「あ、先輩。お疲れ様です」
高校生だろうか。最年少らしき女性が谷屋を見て、汗ばんだ顔で笑みを浮かべた。
「ちょっと様子見に来たんだけど、旨く出来てたみたいでよかった」
「緊張しちゃってところどころ失敗しちゃいましたけどね。大変ですけど、でも楽しくやってます」
「それならよかった。私はもう行くけど、この後もしっかりね」
「はい!」
元気よく声を上げ、その子は三味線を抱え直す。少ししてから次の曲が始まって、彼女の三味線も心地よく響いていた。
谷屋が櫓を離れて俺の側に寄る。
「先輩って言ってたけど、学校の後輩?」
「そうじゃなくて、私もお囃子で三味線弾いてるから。今の子は今年初めて参加してて、だからその後輩」
「三味線? 谷屋がか」
正直、意外だった。あまり目立たなかった谷屋が、こんな何万と人の来る祭りの中心で三味線を披露しているとは。着物で三味線を構える姿自体は似合っているかもしれないが。
俺の言葉に谷屋は照れているようでまた俯いてしまう。が、何か思いついたように顔を上げて、また耳元に顔を近づけて言った。
「少し、話がしたい」
大通りを出、中心から離れた川の近くの通り。道を流れる水路の側にあるベンチには疲れを癒す人が座っている。
その中の一つに途中で買ったアイスコーヒーを片手に俺達は座っている。演奏はまだ遠くに聴こえるが会話を邪魔するほどでなく、水のせせらぎの方がはっきりと聴こえるくらいだ。
櫓からここまでは十分くらい歩いただけだが、その間、谷屋は何度か人に話しかけられていた。多分祭りの関係者だろう。櫓で三味線を披露するくらいなのだから顔が広くてもおかしくはないが、やっぱり自分の中の谷屋のイメージとは離れている。
「三味線はいつから?」
ベンチに腰掛けて気分が落ち着いてから、俺の方から切り出した。
「高校の二年から。学校にお囃子のクラブがあって、一年の時にそこの先輩がやってたのを見て、私もやりたいって思って」
「じゃあ、もう何年もやってるのか」
「お祭りで弾くようになったのは高校の三年が最初。それから毎年少しだけど弾かせて貰ってるの。今年のお盆は昨日だけだったけど、お盆過ぎた後に何回かやる予定」
「そうか……谷屋の演奏姿、ちょっと見てみたかったかな」
冗談めかしたが素直にそう言うと、
「私も天地君に見て欲しかった」
谷屋は小さく、しかしはっきりと返事をした。予想外にしっかりした言葉に俺の動きと思考が止まる。
「私、ずっと後悔してた。あの時、天地君が転校するって話を聞いたとき、凄く悲しくて泣いてしまって、一言何か言うだけでもよかったのに、でも結局何も言えないまま天地君は行ってしまって。
手紙を書こうとしたけど何を書いていいのか分からなくて、ずっと心に引っかかったままだった」
俺に聞かせるというよりは独白に近い語り。あの時のことを悔やんでいたのは同じだったらしく、内心で少し嬉しく思う。
「だからせめて、もしもう一度会えたら、あの頃よりも成長した私を見せれたら、なんて思ってた。三味線なのは偶然だけど、思ったより楽しかったから」
そこまで一気に言った後、谷屋ははっとしたように顔を正面に向けて、それから勢いよく顔をこちらに向ける。
「あの、天地君、今彼女っている?」
唐突な台詞に俺は苦笑してしまった。順番がめちゃくちゃと言うか、それを今聞くのか。
「いや。高校の時は居たけど今は居ないよ。谷屋こそどうなんだ」
「私も高校の時に付き合った人はいるけど、直ぐ別れちゃった」
どうして、とは多数の意味で聞きづらい。
「その時は好きだとか付き合うってことがどういうことなのかよく分かってなかっただけだけど。意識はしてなかったけど、今考えれば天地君とのことがどこかにあったんだと思う」
「俺も多分同じだ」
訪れる沈黙。祭りの音も水の音も、何もかもが消えてしまったかのようだ。けれども実際にはそんなことはなく、直ぐに戻ってくる。
「転校前のあの時、俺はお前のことが好きだった。それは確信を持って言える」
「うん、私も。だけど、今もそうかって言われると、わからない」
そう。それは俺も判らない。
谷屋と再会したのは驚いたし、嬉しかった。こうして二人で話をしていると、それこそ昔に戻ったような気がする。
だけど俺達は何年も離れ、それぞれ違った生活を送った。その間にお互い別の人物を好きになったこともある。
別れるときに何を約束したわけでもなく、言ってしまえばそのまま忘れてしまっていてもおかしくなかった。そうでなくても単にいい思い出に変わるのも時間の問題だっただろう。
いや、もうすでにそうなりかけているのか。ともかく、もしも今どちらかが今も好きだと言ったとしても、付き合うことにはならないだろう。物理的にも精神的にも距離が離れすぎている。
「でも、天地君の事を好きだった私は好きだった」
「そうか」
手の中のコーヒーの氷はもう溶けかけている。薄くなったそれを飲み、俺は空を見上げる。酒はもう抜けているが、顔が少し火照っていた。
「こっちにはいつまで居るの?」
「明々後日の午前中に帰る予定。明日からは友達もくるけど。谷屋は予定あるのか」
「この時期はお祭り関係で毎日いろんな作業があって、手が空いていてもお店の手伝いしてると思う。少しなら時間は取れると思うけど」
「いや、それならいいや」
友人達に紹介しようかとも思ったが何て紹介すればいいか悩むし、男ばかりだからそこに谷屋を連れて行くのは何となく嫌だった。
俺達は殆ど同時に立ち上がった。もう少し話していたい気もするが、今夜はこれ以上は不要だろう。昔と今、両方の谷屋の想いが分かっただけで今の俺には十分だ。
どちらからともなく歩き出す。その間の会話は殆ど無い。ゆっくり歩いていたつもりでも、十分も経たない内に戻ってきてしまった。
既に灯が消えた食堂の隣にある谷屋家の前で立ち止まる。
「今日は会えてよかった。見送りには多分行けないけど、祭り中に顔くらい見るかもしれないね。
それと、良かったらまた食べに来て。私がいるかは分からないけど」
「生姜焼きは旨かったよ」
そう言うと谷屋は軽く微笑んで門の中に入った。
またお別れか。そう考えると、急に胸が締め付けられるようだった。何か、今度こそ何かを言わないといけない。そんな思いが渦巻いている。
殆ど何も考えずに「谷屋」と口に出していた。
「もし、もしもだけど。どれだけ先になるのかわからないし、そもそもこれからどうなるのか分からないけど」
谷屋がドアの前で振り向く。
「俺がこの町に戻ってきて、お前がまだこの町に居て、それでお互い隣に誰もいなくって、また会う事があったら……その時は今よりも成長した俺を見せるよ」
自分で何を言っているのか良く分からない。けれど、間違ってないはずだ。
谷屋は満面の笑みで手を振って、家の中へ入っていった。
お囃子はまだまだ終わらない。完全に醒めた身体の欲求を満たす為、俺は大通りに向かって軽く駆け出していた。
作中の祭りは岐阜県郡上市の郡上八幡で行われる「郡上おどり」をモデルにしています。
特にお盆の時期に行われる徹夜踊りは非常に見ごたえがあり、
またどなたでも踊りに参加して楽しむことができます。