星空の志願者
なるほど。
崖の上から海を覗きこみ、険しい岩場と打ち付ける波の荒々しさを見て、私は思わず感想を漏らしていた。
これは確かに人が死ぬには十分な場所だろう。こうして覗き込んでいるだけでも引きずり込まれそうな、魅力とも呼べるものがある。
年間に何十人も自殺者が出ている有名なスポット。深い森を抜けた場所にある断崖絶壁で、道路からはかなり離れて車も入り込めず、徒歩で何十分もかけて道なき道を歩くしかない。途中にあったのは何十年も放置されたようなあばら屋と誰も手入れをしていなさそうな小さな祠だけだった。
なかなかの絶景ではあるからそれさえなければ観光地としても悪くないと思うのだが、今の私には都合がいい。
周りには何も無い。人里からも離れ電気も何も通っていないからか、こういう場所ではお約束の電話ボックスも置いていない。ただ波と風の音が聞こえるだけで、寂しさを通り越して恐怖すら感じられる。
ついにここに来てしまった。が、流石に躊躇する。
もう一度海を見て、私はのどを鳴らす。この崖から飛び降りるには相当の勇気が必要で、今までそうしてきた人に対して、妙な話だが畏敬の念すら感じた。
とりあえず一息つこう。荷物を降ろし、スポーツドリンクを取り出して口につける。ここまでに体力を使ったからか一口だけのつもりが一気に半分近くまで飲んでしまった。まあ、ここで死ぬのなら、どうでもいいことだ。
それから白い封筒を取り出した。
大した内容ではない。単純にここに来た目的と、少しの謝罪が書かれているだけの簡単な遺書。書くときはどうするのがいいのか悩んだが、死んでしまえば関係ないだろうと思ったら、非常に簡潔になってしまった。
崖から離れた地面に置き、風に飛ばされないように石を上に置く。
準備は出来た。後は実行するだけだ。そう思うと少しだけ落ち着いて、私は崖から見える水平線に目を凝らした。
そろそろ日が落ちる時間らしく、空が少し朱色になっている。この方向から太陽は見えないが、なかなかのものだ。最期に見る景色としては悪くない。
「ダメですよ」
ダメだろうか。
と心の中で返事をしてから、その声に気がついた。
私は勢いよく周囲を見回した。私が来た森の方角から誰かがやってくるのが見えた。
それは女性だった。若い、といっても二十代半ばくらいか。登山でもしそうな格好と荷物を背負い、私の方へと歩いてくる。
内心で舌打ちをする。人が来てしまっては事を成し遂げられないではないか。いや、もしかしたら私のような人間を止めるための見張りか。
「死んで楽になろうなんて思ってもダメですよ」
私に近付きながらその女性はどこか淡々とした口調で言う。私と崖の間に入り込むように立ち、女性は大きく息を吐いた。
肩の上くらいの髪はボサボサだが、綺麗な黒髪。顔は整っており、あまり登山をするような雰囲気ではない。
「それにここはそんなことをする為にあるんじゃないんです。あなたに何があったのか知りませんが、やめてください」
「……放っておいてくれないか」
「お断りです」
驚くほどの激しい剣幕で真正面から突っかかる女性。鋭い目が私を捉え、目を逸らすことも許されそうにない。
とりあえず、彼女が居てはどうしようもない。押しのけて飛び降りてしまおうかとも思ったが、不思議とその場から動こうとは思わなかった。
今度は私がため息を吐いた。
「君は見張りか何かか」
「本当は違いますけどそんなようなものです。時々貴方みたいな人が来るので、止める様に頼まれてるんです。そういうわけなので、諦めてください」
有無を言わさない言い様に、少し苛立ちを覚える。
「君には私のような人間の気持ちは分からんだろう。こうするしかなくなった人の想いがどれだけのものか、考えたことがあるのか」
「だから、知りません。世の中に死にたいほど辛いことがあるのは分かりますが、私はそう思ったことがありませんから、辛くなった人のことまでは分かりません。
それから、私は別に貴方の為にこんなことを言ってるわけでもありません」
「ならなんで止めようとするんだ」
「頼まれたと言ったでしょう。私だっていつまでもこんなこと続けたくはないんですよ」
彼女の方も苛立った様子で、さらに捲くし立てる。
何か様子がおかしいようにも思うが、やり取りをしている内に私の心は幾分か落ち着いていた。まだ諦めたわけではないが、一旦地面に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺めていると、自然に口が動き始める。
「私はね、裏切られたんだ」
もう一度確認するように、私は話し始めた。
長年勤めてきた仕事。上司の横領。それを指摘した私に会社がした仕打ち。
怒りよりも虚しさが勝っていた。それが無ければ訴えることも出来ただろうが、家族すら離れ、勝ったとしても何も残らないと気づいた時にはもうそんな気は失せていた。
今まで何の為に生きてきたのかと自問自答して、答えが出なかった。今思えばそれが止めだっただろう。何もかもが無駄に思え、全てを捨てるつもりでここに来た。
その経緯を語っていると、あまりの滑稽さに笑いすら込み上げて来る。
彼女は私の後ろに立っていたが、私が話終えるまで何も言わなかった。
「君はまだ若そうだから、理解できないかも知れないがね」
と、お決まりの文句を言って話を終えた。
既に日は落ちている。飛び降りるにしろ帰るにしろ、そろそろ決断をしなくてはならない。
「ここがどういう場所なのか知ってますか」
場所を変えないまま、唐突に彼女はそう言った。
「自殺する人が多いことで有名な海岸だろう」
「違います。上を見てください」
上。空のことか。
言われるがままに私は腰を下ろしたまま顔を空に向け、少しの間、言葉を失った。
満天の星空があった。
幾ら都会から離れ、周囲に街灯も何もない場所とは言え、これほどの夜空を見られる場所が他にあるのか、少なくとも私は知らない。
「辺鄙な場所だし、かなりの好条件じゃないとここまでの星空は見れません。所謂知る人ぞ知るというポイントですが、私はこれを見に来たんです。今日はラッキーでしたね」
確かにこれは苦労してでも見る価値があるかもしれない。彼女のような登山を趣味としている人間にとっては一度は来るべき場所なのだろう。
彼女はこの空を私に見せたかったのか。しかし今の私にとって、この光景は素晴らしく綺麗だとは思うが、それだけだ。
だがそうではなかった。彼女は続ける。
「ここに辿り着いた時、貴方のように飛び降りようとしていた人が居ました。私はとっさにその人に駆け寄って、助けようとしました。でも、揉み合いになって、結局二人とも落下して」
「ちょっと待て。何を言っている」
彼女の話がおかしな方向に行っている。振り返ると、確かに先ほどの姿のまま、彼女は立っている。
少し違うと感じたのはその目つきだった。最初の無表情、私が話す前の怒りとも違う、憎むような、背筋が寒くなるほどの蔑んだ視線。
「何をも何も、貴方のような人に殺されたんですよ」
吐き捨てるような言葉に、私は何も出来なかった。
「ふざけた話だと思いませんか。私はこの星空を見たかっただけなのに、何で見ず知らずのどうでもいい人の所為で死ななくちゃならなかったんですか。いつまでこうしていればいいんですか。教えてくださいよ」
「それは……」
彼女の言うことが本当なら、今ここにいるこの女性は何だというのだ。私は非科学的なことに興味は無く、幽霊など信じていない。
冗談か、自殺者を帰らせる為の方便に決まっている。頭では理解していても彼女の迫力に言い返すことが出来ない。
「死にたがる人は他のことなんて何も考えない。そりゃ死んでしまえばそれまでですから考える意味は無いんでしょうけど、それに巻き込まれた方はたまったもんじゃないです。
こんな理不尽があっていいんですか。死ぬなら何したっていいんですか。貴方、私よりずっと長く生きてきたんでしょう。答えてくださいよ」
彼女の詰問が心を抉るようだった。
私は世の理不尽を受けた側だ。だったらこれくらいの仕返しをしたって良いだろう……そう言えなくも無いが、彼女の語る無念には応えられそうもない。
裏切られ絶望した私は、それから笑うことも泣くことも無く、感情までも消え去ったかと思っていた。だが痛む良心と、星空を見て洗われるような心は残っているらしかった。
「生きるしかないと言うのか」
希望があるわけではない。金も仕事も家族も無くし、支えすらなくどうしたら良いのかは全く分からない。だが、それでも。
「どうせいつかは死ぬんです。でもそれまでは足掻いてでも生きていればいいんですよ。私はそれもできなかった」
彼女は星空を見上げたまま、二度と私を見ようとはしなかった。
あまりに暗く、来た道を辿るのも困難だ。鬱蒼とした森の中では星空も見えず、道しるべになるものも無い。
幸いなのは夜でもそれほどの寒さではないことだった。これならいっそあの海岸で一晩過ごした方が良かったかもしれないが、森に入ってからしばらく時間が経ち、何となく戻るのも憚られる。
彼女はまだあの場所に居るのか。生きている人間なら泊まる場所があるはずだが、結局それについては聴けず仕舞いだ。
辛うじて来た道が残っていて、慎重に辿っていく。いくつかの木々には見覚えがあったが、それも錯覚かもしれない。電波は入らないが、コンパスを頼りに進めば何れは舗装された道路に出るはずだった。
ふと、視界の隅に何かが入り込む。
動物か。この辺りは熊の出没は無いはずだが、猪くらいは居るかもしれない。だが目に映ったものは動く気配が無い。
近付いてみると、そういえばと思い出す。来る時にも見た、人から忘れ去られたような小さな祠だった。
苔に覆われて、いつからあり、いつから手が入っていないのか分からない。形がしっかりしているのが不思議なほどのそれは、来る時には気に留めなかったが、今は妙に存在感を増しているように思えた。
ふと、私はその祠を見てみることにした。
私の胸の辺りまでの高さのそれは道祖神の祠のようにも見えるが、こんなところに道祖神があるわけもない。
祠の扉は閉まっている。どうしてか、私はそれを無意識に開けていた。
中には倒れた観音像が一体あるだけだった。詳しくないのでそれがどのような像なのかは分からない。
だが、それを見た途端、私の脳裏にある考えが浮かんだ。
「もしかして、こいつなのか?」
頼まれた。
いつまで居ればいい。
教えて。
彼女の言葉を思い出す。
根拠は何も無いしそもそも彼女の言葉を信じたわけではない。彼女は生きた人間で、ああやって自殺志願者を追い返す活動をしているだけだ。そのはずだ。
私は頭を横に振ってから、その観音像を台座の上に戻した。扉は開けたまま、残っていたスポーツドリンクを祠の前に置いた。
「……行くか」
私は再び暗い森の中を歩き始めた。