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雑文集  作者: 木下
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見えざるもの

 いつもよりもペースが速いのは分かっていた。けれど速度を緩める気は無く、むしろどんどん早くなっていく。

 とは言え逸る心に身体がついていくかといえばそうでもなく、当たり前だがいつもより息が切れるのも疲労がたまるのも早い。夜は冷えるが汗を拭っても止まらない。

 それでも速度は落とさない。今日はそういう気分だった。

 時折、休憩に使っている神社が見えてきた。横目で時計を見ると、普段より到着が10分近く早い。相当なオーバーワークが急激に圧し掛かったようで、目的地が近いことも相まってさすがに身体が動かなくなってきた。

 速度を落とし、軽いジョグに切り替えて、静まり返った神社の中に足を向けた。

 住宅街の中にあるこじんまりとした神社。昼間でも閑散としているのだから日が落ちた後ここに人が来ることは殆ど無く、静まり返っている。拝殿は左右と後方が樹で囲まれるように建てられ、夏でも涼やかさが保たれている。

 夜に時々ランニングをするようになった時にコース上に見つけた神社で、家からは走って10分くらいの場所にある。神社があること自体は知っていたものの中に入ったことは無かった。始めは何となくで入ってみただけだったが、雰囲気がよく休憩するには丁度いい場所だったのでたまに利用している。

 境内に入ったところで走るのをやめ、呼吸を整え、汗を拭きながらゆっくりと歩く。それから拝殿の階段に腰を下ろし、空を見上げた。

 もう日は落ちて星が見え始めている。月は雲で隠れて見えず、境内に灯はないが、柵の向こう側の家々や街灯の灯だけでも十分視界は確保できる。

 しばらくして息が落ち着いてくると頭の中に別の思考が入り込む。その内容はつい何時間か前、夕方の出来事だった。

 やっぱり友達でいましょう。

 別れ際、目を逸らしながら言った都築の言葉と姿が鮮明に蘇る。これを忘れたくて思い切り走ったというのに、全く効果は無かったらしい。

 友達。ともだち。

 都築とは中学で知り合い、しばらくは友達としての付き合いだった。高校の卒業までは仲がいい程度だったけど、大学に入る前の休み中に街中で偶然会い、家も大学も割りと近かったこともあり、それから何度か遊んだり食事をするうちに自然と恋人となった。

 といっても夏に入る前から秋……今日までのほんの3ヶ月ほどの極短い間だったけど。

 今日、昼からデートして夕食でもと店を探している途中、突然そう告げられた。確かに会ってからどこか上の空だったけど、今日まではそんなそぶりを見せなかったのに。

 短く、唐突な言葉に俺はすぐには反応できず、どこか無表情だった都築の顔を見ている間に、都築は二言三言何か呟いた後、去っていった。

 取り残された俺はぼんやりしたまま帰路につき、部屋で起こったことを思い返し、胸に何かがこみ上げてくるのを感じ、気がつけば外に出てランニングを始めていた。

 一体何が悪かったのか。どこを間違えたのか。考えても何もわからない。

 上げていた顔を下げてうな垂れる。まだ流れている汗が顎を伝い、階段にシミを作るのをただ眺める。

 悲しいとか寂しいとかはあまり感じていなかった。それよりあまりに突然の出来事過ぎてまだ頭がついていかず、どうして、という疑問ばかりが渦巻いている。

 これからどうすればいいのだろう。

 そうしている内に呼吸は落ち着き、汗も止まったけれど、立ち上がる気力が沸いて来ない。腕時計を見てみると、神社についてからはまだ10分も経っていなかった。

 しばらくここで頭も冷やそうか、と少し冷静な気持ちになってきたところで、誰かが歩くような足音が聞こえた。

 こんな時間に人が来たのか、と自分を棚上げし思いつつ顔を上げると、。

 目の前に白い犬の顔が。

「うわっ」

「あら」

 驚いて少し後ずさると、女の人の声がした。その犬の後ろを見ると、暗くてはっきりとは見えないが、確かに女の人が立っている。

 犬の散歩、だろうか。日が沈む前に走っている時は時々見かけるけれど、神社の中で見るのは初めてだ。まあ住宅街だし、別に珍しいことではないと思う。

「ごめんなさい。人が居たのね」

「いえ、俺こそ邪魔してすみません」

 参拝の邪魔になる位置ではないが、何となく階段の隅まで移動して中央を空ける。そんな俺を目の前の犬が首だけを動かして見つめている。見たことのある犬種だったが、何と言っただろうか。

 犬は不意に動き出すと、階段の一つ上の段に前足だけを乗せる。それから女の人も、足元を確かめるようにして登っていく。なんだろうか、足取りが重そうだった。

「ここ?」

 女の人がそう呟くと、犬は賽銭箱に顔を乗せた。その位置を確認するようにしてから、女の人は握っていたらしい小銭を賽銭箱に投げ入れた。

 この人はもしかして目が不自由なのだろうか。よく見れば犬の方も首輪とは少し違う、胴にベルトのようなものを付け、小さなカバンのようなものが付いていた。これは盲導犬というやつか。

 女の人は参拝を終えると、その場にしゃがみ、犬を優しく撫でながら俺に話しかける。

「もしかして休憩中でした? お邪魔してごめんなさいね」

「あ、いえ、別に」

 二十代の後半か三十代くらいだろうか。淑やかな雰囲気で柔らかい笑顔だったが、よく見ればやや視線が定まっていない気がした。

 目の不自由な人を街中で見かけることはたまにある。けれど盲導犬は募金活動か何かをしているところ以外で見た覚えがないが、付けているもの以外は普通の飼い犬と特に変わり無さそうだった。

 無意識に撫でようとして手を出したが、触る直前で躊躇った。犬は別に好きでも嫌いでもないが、こいつはそれなりに大きく、ちょっと怖い。

「撫でても大丈夫ですよ」

 俺の行動か気持ちが伝わったのか、女の人が俺の隣に座りながら言った。

 お言葉に甘えてというわけでもないが、少し背中を撫でてみる。ふかふかの毛が気持ちよかった。

 調子に乗って頭や首筋も撫でてみたが、犬の方は少し目を細めたくらいで微動だにしない。とても大人しい、というかそう訓練されているのか。

「あの、この犬って、もしかして盲導犬ですか」

「そうです。私、目があまり見えないので、外に出るときはこの子と一緒なんです。名前はチコ」

 チコと呼ばれたその犬は自分が呼ばれたと勘違いしたのか、俺から離れて飼い主のほうに向き直った。

「始めて見たかも」

「そうですね、少しずつ広まっているとは思うけど、まだまだ数は少ないですね。あなたは学生さんかしら」

「あ、はい。大学生です。ここへはランニング途中で休憩に」

 何となく緊張しながら答えると、「そうなの」と優しげで人を落ち着かせる声で答える。

「私も散歩中なんです。ここに立ち寄ったのは気まぐれなのだけど。隣よろしいですか」

「どうぞ」

 そう言うと彼女は少し段差を探るようにしながら隣に腰を下ろした、チコと呼ばれた犬の方はそれを見守るように、じっと彼女の前にお座りをしている。

 彼女の顔が近くなり、さっきよりははっきり見える。

「ここは落ち着くので時々来るんです。あなたはいつもランニングを?」

「まあ大体は。僕もここで時々休憩してるんです」

 自分で言って、そういえば休憩中だったことを思い出す。それと同時に、考えていた都築のことも思い出して、軽くため息を吐く。

「疲れてるのかしら。それとも何かお悩み?」

 ため息を聞かれた所為か、女の人は俺を覗き込むように顔を近づけた。

 悩みと言われて図星を突かれたようで、少し鼓動が早くなる。

「いきなりごめんなさい。私、よく人の相談を受けることがあるので、つい」

「ええと……もしかして、カウンセラーか何かですか」

「ただ聞くことが多いってだけですよ。もしよろしければ、言ってみてはどうですか。話すだけでも落ち着いて考えられることもありますから。初対面で何を、と思われるかもしれませんけど」

 確かに初対面の相手に話すようなことでもなかったかもしれない。けれどどことなく雰囲気のある彼女に引き込まれ、それからこのモヤモヤを晴らしたくて、俺はつい口に出していた。

「その、まあ、彼女に振られまして」

 言いながら、俺は何で話してるんだと思う。自然と冷えかけていた全身に熱が戻ってくる。本当に、初対面の女の人にこんなこと言ってどうするんだ。

 恥ずかしくなってそれ以上話ができなかった。女の人も黙ってしまって、ついでにチコは全く興味が無いかのように彼女の前に寝そべり、尻尾をたまに動かしている。

「そうだったんですね。……でも、あまり落ち込んでる感じではなさそうですけれど」

 少し意外な返答だった。

 だが確かに、なぜどうしてという疑問は沸くのだが、意気消沈してはいない。そうでなければ、速度は上げたものそもそもランニングをすることも無かっただろう。

「落ち込んでるようには見えませんか」

 と言ってから、しまった、と内心舌打ちをする。彼女は目が見えないのだった。

 だがそれに気づいているのかどうか、彼女は気にした様子もなく頷いた。

「声色とか抑揚でそうなんじゃないかな、と。それに本当に気分が滅入っているときは他人の話なんか録に聴かないですし」

「そういうものですかね。まあ確かに、落ち込むというのとは違うかも」

「彼女さんにどうして振られてしまったのかを思い悩んで、走ってみたものの何も思いつかずにここまで来た、と」

 図星過ぎてぐうの音も出ない。この人が鋭いのか俺が判りやすいのか、どちらにしろ筒抜けのようで、少し苦笑してしまう。

 そこまで見抜かれているならどうせならと、俺は都築とのことを掻い摘んで話した。短い話ではあったが彼女はそれを黙って、真剣に聞いている。

「自分的には良い関係だと思っていたんですけどね」

 そう。俺は、俺達は上手くいっていると思っていた。それなのに。

「酷いと思われるかもしれませんが、若いうちはそういうことも多いでしょう。こう言ってしまえばおしまいですが、他人の心なんて、本当のところはわかりませんし」

 その言葉は真実かもしれないが、寂しいものだと思う。

「どれだけ相手の表情や仕草が見えようと、幾ら話の聞き方が上手かろうと、人の本当の心は自身にしか分かりません。知ろうとする努力は必要でしょうが、限界はあります」

「でも、それじゃあ」

「だからと言って対話をしないのは、やはり間違いです」

 言葉が不意に強い調子になる。彼女に顔を向けると、彼女もまた、俺の顔を殆ど正面から見据えていた。俺の目をしっかりと捕らえるように。

 本当に目が見えてないのか、と思えるほど彼女の視線が強い。

「あなたがすべきことは、その子ともう一度話をすることです。きちんと向かい合って、目を逸らさずに」

 でなければ後悔することになる。

 言葉は切られたが、そう言っているように思えた。

「……なんて、それっぽい感じに聴こえたでしょうか」

 妙な迫力に俺が言葉を失っていると、彼女の声と表情が柔らかいそれに戻った。

「まあ、友達でいましょうって言われたなら、嫌われたわけじゃないでしょう。恋人に戻れるかはともかく、理由はきちんと聞いておいた方がいいですよ。でないとお互い納得できないでしょうし」

 正直なことを言えば少し怖い。けれど確かにその通りだ。そんなつもりは無かったが、俺は逃げていたのかもしれない。

 とにかく向き合ってみなければ始まらない。そう思うと、胸のつかえが少しだが取れたように感じた。

 遅い時間になってきた。そろそろ帰らなければと思うと、彼女の方が先に腰を上げる。それに合わせてずっと寝そべっていたチコもスッと立ち上がった。

「そろそろ私は行こうと思います。変な事を言ってごめんなさいね」

「いえ、とても参考になりました」

「それならば良かったです。それでは、また」

「はい。お前も元気でな」

 チコを軽く撫でると、顔を少し震わせてから、主人の前に移動する。

 お互い軽く頭を下げ、彼女は先に神社を出て行った。結局名前も聞かなかったが、近所に住んでいるならまた会うこともあるだろう。

 すっかり冷えて固まった身体を伸ばし、俺も神社を出、走り始めた。今度はペースを崩さずに落ち着いて。

 もう一度空を見上げると、さっきよりも星の数が増えているような気がした。


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