海
「海が見たい」
夜勤から戻り、コンビニで買った朝食のサンドイッチをテーブルに置いている途中で、起きたばかりらしい彼女がベッドの上で寝転んだまま開口一番、そんなことを言い出した。
彼女の目線はテレビに。画面に映っているのはどこかの海岸。海でのボランティアか何かの特集をしている。
なるほど。
思いつきで物を言い出すのは良くあることだから、発言内容に特に疑問には思わない。だけど護岸された港ならともかく、画面内のような綺麗な海岸を見ようと思ったら、ここからはかなり距離がある。今日は休みだが今すぐとなると気が乗らない。
「海、ねぇ」
サンドイッチのビニールを開けながら気の無い返事をしてみる。
どうしてもというわけではないけれど、夜勤明けに遠出するのは少々辛い。学生の頃ならノリでそういうこともよくやったが、体力も気力も昔ほどではない。
僕の声で乗り気でないことが伝わったのか、こちらに向き直り、一瞬何かを言いたそうに僕を見たが、すぐに視線を外し、ゆっくり起き上がった。
無言でサンドイッチを手に取り、ぺりぺりとゆっくりビニールを剥がしていく。それを横目で見つつ、持ってきたカップ二つをテーブルに置いて、一緒に買った牛乳を注いでいく。ここしばらく、朝はこのメニューから変更していない。
取り出したサンドイッチの端っこを咥え、少しずつ食べていく姿を見ていると、おや、と思う。
朝はいつもこんな感じではあるけれど、どこと無くテンションが低い。どの辺りがと言われると何となくとしか言えないが、普段とは少し違う。あまり眠っていないのだろうか。
サンドイッチの切れ端を口に放り込み、牛乳で流し込む。飲み込んでから口元を拭い、
「なんで海?」
一応聞いてみる。多分テレビで見たからとかそんな理由なんだろうけど。
すぐに答えが返ってくると思っていたら、口を止め、意外に時間をかけて悩んでいた。数秒程度でも朝食を中断してまで考えるほどなのだろうか。
普段の無表情よりも少しだけ真剣な表情に、こちらも無意識にテーブルについていた片肘を下ろし、姿勢を正す。
「何か変わるかな、って思って」
ぽそりと呟いた言葉に、僕は返事が出来なかった。
知り合ったのは高校時代。進学先が同じだった為にクラスが同じで、予備校でも何度か顔を合わせる内に自然と二人でいることが多くなり、大学の二年に入った頃にはほぼなし崩し的に同棲状態になっていた。
僕は大学を卒業しても就職をしなかった、というか出来なかった。在学中に内定をもらった企業が卒業直前の正月頃に社長だか幹部だかの使い込みが発覚し、そこからあれよという間に事実上の倒産にまで発展した。
研究室の教授は何とか代わりを見つけようといろいろ当たってくれたものの時すでに遅しで見つからず、僕も積極的に探そうとしなかった為、目出度くプータローとなった。
一、二年は派遣などで食いつないで、それからは24時間営業のファミレスでバイトを続けている。本当は日中に働くつもりだったが暇だろうからという理由で夜勤に回されたけど、収入は悪くないしやや忙しいけど職場環境は悪くないので、現状に不満はない。
彼女の方も卒業後は割と大きなアパレル関連会社に就職したが、すぐに辞めた。その時に理由を聞いてみたけど、詳しくは教えてくれなかった。
辞めたこと自体はあまり驚かなかった。どちらかと言えば感覚的に生きている彼女が普通の会社で続くのだろうかと思っていたことは、まだ話していない。
それからはいろんなことをやっていたけど、どれも長続きしていない。今現在は仕事はせず、一日中家にいるかたまに外をふらふらして過ごしている。
僕の見る限り、彼女は少し疲れているようだった。精神的に。だからというわけでもないけれど、僕は彼女の今の状態に何か言うつもりは無い。何れはどうにかする必要があるだろうけど、まだ猶予はあるはずだ。
それに、僕だって偉そうなことを言えるほど真面目に生活しているわけじゃない。どうにかしないといけないのは僕だって同じだ。
彼女が朝に起き、同じくらいに僕が家に帰り、午前中は二人とも家でごろごろして過ごす。昼も簡単に済ませた後は僕が夜勤の為に夜まで眠りにつき、その間の彼女の行動は分からない。
夜に起きてからバイト先に向かう。夕飯は一緒にとることもあるけど節約の為、僕だけはバイト中のまかないだけで済ませることも多い。
今のそんな生活スタイルになってからは3ヶ月ほどだろうか。時折僕の休日に外に出ても何かするわけでもなく、何となく街をぶらつくだけ。それでもお互い特に不満も出さず、日々を過ごしていた。
焦りが無かったわけじゃない。というか常に心のどこかでは持っている。出会ってから10年近くが経っていて、やることやってるはずなのに、僕らは互いに殆ど成長していない気がする。
このままでいいんだろうか、と彼女が同じ思いを抱いていても、何も不思議じゃなかった。
だから、この時、僕は内心の動揺を抑えつつ、彼女の申し出に頷いていた。
平日の朝、都心ではなく港に向かう電車の中に人はあまり多くない。
朝食をすませ、着替えとシャワーだけ浴びてからすぐに海に行くことになり、ただ遠出となるといろいろ調べないとと思っていたら、
「ただ海が見たいだけだから」
だから電車で30分もかからない市内の港でいい、ということになった。
規模としては大きく、大型の船が頻繁に出入りするほか、市民や観光客向けの施設も多い。水族館やちょっとしたテーマパークもあるから、高校生などにとっては手頃なデートスポットでもある。
僕も彼女や友人達と何度か遊びに行ったことがあるが、数年ぶりなので今どうなっているのかはよく知らない。
ともかく僕らは並んでロングシートに座り、海に向かった。彼女のテンションは朝からあまり変わらず、会話はあまり無い。
ぼんやりと車内の広告を眺めたりしていると眠気が襲ってくるが、本格的に襲われる前に目的の駅についた。路線の終点なので乗客は全員降りていくが、その数は少ない。
この駅で降りるのも久しぶりだったが、出口は二箇所だけなのであまり迷わずに外に出る。駅前に備えてあった案内板には海までの道のりが描かれていた。
振り返ると、彼女はもう歩き出していた。信号を一つ渡るとその先に公園があり、いくつか施設が見えた。家族連れや僕らと同じくらいの年代の男女はその大半が水族館のある施設に向かっていて、公園を真っ直ぐ進む人はあまり居なかった。
公園を抜ければすぐに海が見えるはずだ。
数歩前を進む彼女の後姿を見つめる。急に海を見たいと言い出した彼女は、今何を思っているのだろうか。本当に何かを期待しているのだろうか。
5分も経たない内に海は見えた。
公園の端、柵の向こう側に海が広がっている。といっても視界一杯の水平線ではない。大小様々な船が港湾の内外を出入りし、積荷のコンテナやそれを降ろすクレーンなどがどこを見ても眼に入る。
眼下の海はお世辞にも綺麗とは言い難い。釣り人もぼちぼち見かけるから魚は居るのだろうし、こういう人工物で構成された風景も嫌いじゃないが、感動を覚えるようなものでもない。
僕等は並んで柵に手を掛けて海を眺めていた。見た目はともかく、妙に静かで時々聞こえる波の音は悪くなく、ただこうしているだけでも気分転換にはなるかもしれない。
彼女を見ると、表情は変わらず、顔も視線も動かさず、ただ真っ直ぐ海を見つめていた。いや、もしかしたら海じゃない何かを見ているようだ。
もう一度海に視線を戻す。やっぱり特に感じ入るようなことは無い。
けれど、考える切っ掛けとしてはどうだろう。
……それからしばらくの間、僕らは言葉も交わさず、ただ前を見ていた。
家に着いてまず最初にしたことは、残っていた牛乳を鍋に移して火にかけることだった。短い時間でも海風に当たっていた所為で、少し身体が冷えた気がしていた。
結局海を見ていたのは10分にも満たなかった。二人して立っているのが辛くなり、どちらからとも無く近くのベンチに腰を下ろして、帰るか、と言うと彼女も頷いた。
鍋の縁が泡立ち始めるのを見つつ、帰路のことを思い出す。相変わらず会話は少なかったけれど、僕等はそれなりに満足していたと思う。正直なところ行く前はただ疲れるだけで終わると思っていただけに意外だった。
温まったホットミルクに少しだけ砂糖を加え、カップに分けて注ぐ。それをテーブルに置くと、彼女はカップを両手で包むように持ち上げて一口つけた。
「それで、海はどうだった」
僕の質問に、彼女は口からカップを離して軽く息を吐き、微笑んでこう言った。
「うん。別に何も変わらなかったな」
あっさりとした言葉に僕も釣られて笑った。予想通りの返事だった。
「このままじゃ良くないってずっと思ってた。けれど、自分が何をしたいのかも分からなくて、あなたに甘えてずるずる過ごしてた。
だから変わらなくちゃって思って、普段しない様なことをすればもしかしたらって思って」
「それで海?」
「今朝テレビ見ててぴんと来たんだよね。結局ただの気のせいだったわけだけど」
それは本当に気のせいだったのだろうか。
海である必要は無かったかもしれない。けれど、そのおかげで少なくとも、今僕たちは普段しない会話をし始めている。
「疲れてるのにごめんね。今日のお昼は私が作るから」
「僕は少し変わったかもしれない」
出し抜けにそう言うと、彼女はカップを持ったまま顔を上げた。
「別に海を見たからじゃないけどね。でも君が海を見たいと言ったから、きちんと考えようと思った。だから、それが切っ掛け」
「考えたって、何を?」
それはいろいろある。考えたことも、これからまだ考えなければいけない事も沢山ある。だけど何も一人で抱え込まなくてもいい。
今日考えたことはとりあえず、
「君とこの先をどうするか、とか」
言うつもりじゃなかったけど口に出てしまった。
はっとして彼女に向き直ると、彼女は無言で無表情のまま、まだ湯気の昇るカップを口につけて、中のホットミルクを飲み干しそうな勢いで持ち上げていた。
カップの向こう側の表情は見えないけれど、無表情ではないだろう。
多分。