夜の空気の中で
枕元から伝わる振動で目を覚ます。
あれだけ頭が冴えていたのに、いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
ゆっくりと、出来るだけ音を立てないようにしながら体を起こして振動を止める。時間を見ると深夜の1時。この時間にセットしたのだから当たり前だけど、こんな時間に起きていることなんて滅多に無いから、どこと無く現実感が薄い。
窓を少しだけ開けてみる。外は風も殆ど無く、綺麗な月明かりで満たされていた。まだまだ寒さは残っているけど、春になったばかりだからそれは予想通り。
約束の時間までは30分、あらかじめ準備しておいた服に着替えてからそっと部屋を出て、キッチンに向かった。
当たり前だけど家の中は真っ暗で静まり返っている。暗闇の中、電化製品の僅かな光を頼りに冷蔵庫まで辿り着き、ペットボトルを取り出してひと口だけ口に入れて喉を潤した。
部屋に戻る途中、親の寝室の近くでギシリと床が鳴った。一瞬体が硬直し、思わず寝室に目を向ける。
数秒待ってみるものの特に何かが動く気配は無い。小さな音だったから気づかれはしないだろうけど、何となく悪いことをしているような気がしていたから、ほっとした。夜中に起きて水を飲むくらい何でもないことだけど、今日に限っては特別だ。
部屋に戻り、ジャケットまで羽織っていつでも外に出られる状態にしておいてから、またベッドに腰を掛ける。しばらく何もせずに外を眺めていたけれど、ただ待つだけなのも退屈だ。
少し考えてから、まだ待ち合わせには早いけれど、家の中でごそごそしているのも嫌なので、私は意を決して外に出ることにした。
細心の注意を払ってドアを開ける。服がこすれたり靴を履いたりでどうしたって多少の物音はするけれど、可能な限り抑えたつもりだった。それが功を奏したのか、そもそもただの杞憂だったのかは分からないけれど、とにかく家の誰にも気づかれること無く外に出ることに成功する。
鍵を掛け終わると私は大きくため息を吐いた。
ここまで来たら後はなる様になれとしか思わない。そう開き直ると急に解放された気分になり、足が軽くなった私はさっさと階段を下りてマンションの入り口から歩道に出た。
入り口側の壁にもたれて空を見上げる。好天で雲一つ出ていないけど、星は月と街の灯の所為で殆ど見えない。田舎のおばあちゃんの家では星で空が埋まるほどだったのを思い出す。
見ても面白くもなかったので目線を戻す。住宅街はやはり静まり返っていて、動くものは何も無い。何となく足音を鳴らしてみたけど、すぐに消えるだけだ。 息を吐くとまだ白くなるくらいの寒さの中で身動きせずにぼんやりとしているうちに、チリン、と軽い自転車のベルが響いた。
「早いじゃん。そんなに楽しみだったの」
そう言う絢子の声は普段通りだった。これが普通なのか常にテンション高めなのか知らないけど、多分後者な気がする。
「まあね。こんな時間に外に出るなんて、お正月の時くらいだし」
「ひとみは真面目だもんね」
「それが普通だよ。絢子と一緒にしないで」
そう言うと、絢子はそれもそうだねえと呟いて私の隣に立ち、コートのポケットから何かを取り出した。缶コーヒーだった。
「寒いし、暖まるかなと思って買っておいた。今日は付き合わせてるから、奢るよ」
「うん」
買ったばかりなのだろう、まだ素手で持つと熱いくらいだった。
絢子は自分のコーヒーを空けて一気に煽る。確かに寒かったので、私もそれを真似るようにして缶を開けて口をつける。缶コーヒーなんて全然飲まないけれど、少し甘すぎるのを除けば悪くは無い。
「それで。これからどうするの」
半分ほどコーヒーを飲んでから私は尋ねた。
「そうだねえ。あ、今日って黙って出てきたの?」
「当たり前じゃない。こんな時間に出かけるって言っても許してくれないもの」
「そりゃそうか。私は普段からこんなだから何も言われないけど、もしばれたら怒られる、っていうか心配されるんじゃない?」
「部屋を覗かれることは無いと思うけど、一応、出かけてくるってメモは残しておいた。まあバレたらすぐ電話かかってくるだろうけど、その時はその時かな」
「そっか。まあいっか」
興味が失せたようなセリフの後、絢子は残りのコーヒーを飲み干すと自転車を歩道の脇に止めた。どうやらここからは歩きらしい。
「じゃ、行こうか」
「待って。どこに行くのか聞いてないんだけど」
「決めてないし。ま、夜の散歩を楽しもうよ」
言いながら絢子は歩き始めてしまう。普段散歩なんてしない私は何となく不安に思いながらも彼女の後に続いた。
深夜の空気はそれなりに新鮮だった。昼も夜も明るさ以外はさほど変化はないだろうに、普段やらない行為の所為か、知らない場所にいる気分だ。
通りに出ても歩道に人はいない。車の数は昼間と同じかちょっとだけ少ないくらいに思えるけど、トラックが多く、やや騒々しい。
「今日は川の方に行ってみようか」
前を行く絢子が振り返って提案した。私としては行き先やらは全部任せるつもりだったし特に異論も無く、すぐに頷く。
数分歩いてから土手に登る。風が少し川の方から流れ、身体を震わせると、また暖かいものが欲しくなる。
絢子は二、三度首を左右に振った後、川上の方に向けて歩き出した。
土手の上から川上の方を眺めてみる。このままずっと登っていけば繁華街に出るはずだけどさすがにそこまでは遠すぎる。まさかそこまで行くつもりじゃないだろうけど、少し不安になって、尋ねてみた。
「いつもこんな行き当たりばったりなの?」
「まあそうだね。駅の方に行ったり、逆に離れてみたり、通学路を歩いたり、全部その時の気分次第。その方が面白いでしょ」
でしょ、と言われてもよく分からない。
普段から気分屋な絢子だからその返答は予想通りで、その様子も想像できるけど、私がそれに付き合いきれるかどうかはわからない。私は絢子と違い、ちゃんと計画とか目的を決めてからでないと行動しない性質だ。
そんなだから学校ではどちらかと言えば意見が対立する方だ。まあ、絢子は楽観的で根に持ったりするタイプでもなく、友達も多いけど、こんな夜の散歩に誘うほど私と仲良くは無いと思っている。
切欠は春休みの直前となった今日、教室で一人日誌を書いていたところでカバンを取りに来た絢子に見つかったことだ。
「まだ居たんだ」
絢子の台詞に私は返事の代わりに日誌を見せた。どうせすぐに帰るだろうと思ったのに、何故か絢子は私の正面の椅子に座り、日誌を覗き込んだ。
私が訝しがっていると、絢子は少し笑いながら、今夜は暇なのかと尋ねて来た。最初何を言っているのか分からず、何か企んでいるのかとすら思ったけど、別に私に何かしたって絢子の得にはならないだろう。
「じゃ、今夜一緒にお出かけしよう」
心の底から良いことを思いついたような笑みから投げかけられたその言葉に、私は反射的に頷いていた。
その時は軽い気持ちだったけど、家に帰って両親を見た途端、どうやって誤魔化すかを考えないといけないことに気がついて、いろいろ言い訳を考えてみた挙句何も思い浮かばなかったから、諦めて黙って出ることにした。
両親とも寝ている私の部屋に入ることはあまり無いし、就寝中に起きることも少ない。そっと出入りする分には多分ばれないだろうと思いつつ、ベッドに潜ってからも、早めに寝たことすら何か不審に思うんじゃないかと、不安が離れなかった。
流石に今は気が楽だ。とは言え、稀にすれ違う大人たちは大体私達に視線を向ける。考えてみれば、子供二人が深夜に徘徊してるなんて不良以外の何者でもなく、もし警察にでも見つかれば問答無用で捕まってしまうだろうし、親も呼ばれるかもしれない。
視線を地面に向ける。土手道は街灯も少なく、足元は暗くてあまり見えない。どうしてこんなことをしているんだろうと考え始めたところで、「ねえ」と声を掛けられて顔を上げた。
「ひとみって、下ばっかり向いてるよね」
「え?」
そんなに地面ばかり見ていただろうか。と思ったけれど、そうではなかった。
「何ていうか、毎日面白くなさそうっていうかさ。悩み事でもあるのかなって」
「そんなことは無いけど」
実際、大した悩み事なんて無い。けれど、絢子の言葉は不思議と私の胸に刺さる物があった。
「ならいいんだけどさ。でもあまり笑ったところも見たことないし。前から気になってたんだけど話をする機会なんてなかったから」
「今日誘ったのってそれが理由?」
「真面目な子を悪い道に引き込むってのもなかなか刺激的なものだよ」
「傍迷惑なだけじゃない」
「けど、いい気分でしょ」
そう言われるとその通りなので言い返せない。全く悪気の無い絢子の笑顔に苦笑するしかなかった。
「意外とお節介だね。こう言っちゃ悪いけど、絢子って自分さえ楽しければあまり他人のことなんて考えない人だと思ってた」
「ひとみも意外にはっきり言うねえ。そういう人は嫌いじゃないけど。それにまあ、自分さえ良ければってのはその通りかもしれないし」
絢子は再び前を向く。頭の後ろで手を組んで、少し顔を上に向けているようだ。釣られて私も空を見るけれど、相変わらずの暗闇しかない。
「私も最初は親への反発で夜に抜け出したんだけど、帰ったときにどこに行ってたのか聞かれただけで、説教も何もなかった。馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうくらいなんだけど、散歩自体は面白かったから、気が向いたときにやってるの」
絢子は親に信頼されている、というわけではないのだろう。学校の成績は悪くは無かったと思うし、特別素行不良ってこともないのに諦められているのか、それとも初めから放任されているのかわからないけど、とにかく複雑な家庭らしい。
「そんなに頻繁にしてるんだ」
「本当は毎日やりたいとこなんだけど流石に寝不足になっちゃうし、週に一回くらいかな。今日みたいに天気のいい日もいいけど、雨とか雪の中を歩くのも悪くないよ。冬は寒いけどね」
「補導とかされたことないの?」
「補導員っぽい人に見つかりそうになって逃げたことはあるよ。何とか巻いたけど、流石にその後はすぐに帰ったわ」
「逃げたって……」
そんな簡単に逃げ切れるものなのだろうか。
「でも、誰かと一緒に歩くのは始めてだよ。何人か誘ったことはあるけど、やっぱり夜中に家を出るのは難しいよね、普通は」
「私だって普通よ。今日は何ていうか、そんな気分だっただけで」
「ワクワクしてた癖に。でもやっぱりお散歩仲間がいると、いつも見てる景色も何となく違って見えて楽しいわ」
絢子は本当に楽しそうにそう言った。確かに一緒に歩いてはいるけれど、並んでいるわけでもなく、会話もそんなに多いわけでもない。これなら一人でいてもあまり変わらないんじゃないかと思えるけど、絢子にとっては違う何かがあるようだ。
多分一種の才能なんだろうと思う。さらりと流したけど問題のありそうな家庭だし、悪い噂も多くて嫌ってる人も少なくないのに、絢子は毎日本当に楽しそうにしている。自分がどんな状況に置かれても捻くれずに前向きにいられるというのは素直に羨ましい。
「ひとみの事は結構好きだから、気に入ってくれると嬉しいな」
あと、割と恥ずかしいことも躊躇せずに言うらしい。
変な意味じゃないと分かっていても、こんな直球で好きと言われたのは初めてだったから、顔が火照るのを抑える事はできなかった。
しばらく土手を歩いた後、私の家の方に進路を変えた。長い時間歩いていたらしく、気がつけば空の暗闇が薄れ始めていた。
結構歩いてお腹もすいたので、コンビニで運よく二つ残っていた肉まんを購入した。店員のお兄さんが少しだけ不審がっていたけど、特に何か言われる事も無く、店を出る。
二人同時にほおばって、また歩き出した。冷えた身体には熱すぎるくらいで、口の中でしばらく冷ましてからでないと飲み込めなかった。
「あー、美味しい。やっぱり寒い日はこれだよね」
絢子には熱さが気にならないのか、私が二口目を躊躇っている間にもどんどん湯気の立つそれを食べ進めていく。
私は今度は自分で払うつもりだったのだけど、絢子は私が払う暇も与えずに会計を済ませてしまい、私がお金を出しても受け取ろうとしない。多分絢子なりの誠意というか感謝だろうから、私もすぐに引っ込めた。
食べながらまた歩き出す。散歩の始めに通った通りに出ると、通勤の人だったりジョギングしていたりと、人の数が増えていた。
「そろそろ帰らないとね」
絢子の呟きに私は少し残念になった。
絢子の言う通り、夜の散歩は思った以上に刺激的で楽しかった。特に目を見張るような何かがあったわけでもなく、普段と違う風景を味わったくらいだというのに、どことなくモヤモヤしていた胸の中が晴れている気がする。
絢子に悩みがあるかを聞かれた時、悩み事なんて無いと私は答えた。けど、毎日の生活に対してどこか不満のようなものはあった。何に対してのものなのかが分からずずっと判然としないままで、それが余計に気持ち悪かった。
多分それは自分自身への不満だったのだと思う。淡々として同じことを繰り返す日々がつまらなかった。
少し考えてみれば当たり前だ。だって私はそれを何とかしようともせず、下ばかり見ていたのだから。それじゃ何も変わるわけが無い。
絢子はそれを私に気づかせてくれた。多分本人にそんなつもりは無いだろうけど、絢子の言葉や仕草を見ているうちに、いつしか自然とそう思うようになっていた。
「ありがとう」
肉まんを食べ終わった絢子に私はそう言った。
「だからいいってば。それも今日付き合ってくれたお礼なんだって」
どうやら肉まん代のことだと思ったようだ。それならそれでいいかと私はそれ以上続けず、少し温くなったそれを食べる。いつもよりも美味しく感じたのはきっと気のせいじゃないだろう。
食べ終わった頃にはもう夜明けだった。通りから路地に入るところで振り返り、ハッキリしてきた建物の輪郭と、明るさを増してグラデーションのかかった空を仰ぎ見た。
隣の絢子も同じ方向を眺めていた。
「ね、また誘ってもいいかな」
「私も同じこと思ってた」
「ほんとに?」
跳ねるような絢子の声。私がもう一度頷くと、てっきり笑顔で喜ぶと思っていたのに、何故か照れるように頭を掻いていた。
どうしたんだろうと訊こうとしたところで、不意にポケットの中が震えた。
「あ」
液晶画面には『母さん』の三文字。どうやらばれたらしい。
二人で画面を覗き込んだ後、顔を見合わせて苦笑する。
「許してくれなかったら、ひとみ、もう出てこられないんじゃない」
「それならまた黙って出て行くだけよ」
「ありゃりゃ、ひとみが悪い子になっちゃった」
誰の所為だと思いつつ通話ボタンを押すと、途端に耳を離してもはっきり聴こえる怒声が鳴り響いた。
「一緒に謝ってあげるよ」
これは骨が折れるなあと思っていると、絢子はそう言って困ったように笑っていた。