私の先生
「おや。まだ残ってらしたんですか」
扉が開く音の後、低い声がした。
生徒達には聞き取りにくいと評判が悪く、眠ってしまいそうになる声でもあるけれど、私にとっては、とても心地良い響き。
「資料作りが少し残ってまして。もうすぐ終わりますから」
私の返答に中野先生は柔らかい笑みを浮かべた。
「そうですか。私も調べ物があるのでまだ居ますけど、暗くなる前にお帰りになった方がいいですよ」
「はい」
私は中野先生が自分の机に腰掛けるのを見てからモニタに向き直り、明日の授業に使うためのプリント作成を再開する。もうこのまま使ってもいいくらいだけど、もっと見やすいようにレイアウトを整えたかった。
職員室には私と中野先生の二人だけ。他の教員はもういない。
外は霧雨が降っている。日はまだ落ちていないはずだけど薄暗く、普段より少しだけ肌寒い。
これだけ静かな職員室を体験するのは初めてだった。廊下から生徒の声もなく、学年主任からの小言も無く、ただキーボードを叩く音や紙をめくる音などの、普段あまり気にしない音が響いている。
私は横目で中野先生の方を見た。私の机とは離れ、窓際に座っている。顔は本やプリントなどいろんなものに隠れてよく見えないけど、何かの本を見ているようだった。
眼鏡の奥にある、小さな瞳が真剣に文字を追っている。少し小じわが目立つようになってきているのが、離れていてもわかる。
無意識のうちに、その顔を私はじっと見つめていた。
私は、私がまだ学生の時から、中野先生の顔を見つめ続けている。
私の想いを知る人は誰も居ない。学生の時から中野先生は優しいというよりも甘い先生で、生徒からはどちらかといえば馬鹿にされる方だった。教師になり、母校に戻ってきた今でもその扱いは変わっていないらしく、先生の授業の時は生徒の雑談がよく聞こえてくる。
始めは私も冴えない中年親父としか思っていなかった。三年の時にクラス担任になった時も、つまらない教師に当たったなあとしか思わなかった。
進路相談の時、何となくで進学を選択し、夢も何も無かった私が何気なくつぶやいた教師にでもなろうかなという言葉に、中野先生は何がそんなに嬉しかったのか、私の成績だとか住んでいる所だとかからあれこれ考え、いくつかの大学を薦めてくれた。
どこか異常とも言えたその行為に、冗談とも言い辛く困惑したけれど、真剣に私の将来のことを考えてくれているのはよくわかった。何度か相談をするうちに私も本当に教師を目指そうと考えるようになり、また、この先生ともっと話をしたいと思うようになっていたけれど、この時はまだ自分の想いには気づいていなかった。
進学し、勉強を続け、実習でここに戻ってきた時に再会した中野先生を見たとき、誰も気づかない程度の涙か浮かんだ時、初めて私は私の想いを知ったのだった。
「少し雨が強くなってきましたね。鷲野先生は電車でしたよね。私は車ですから、駅まで送りましょうか?」
先生が窓の外を見て言った。私の胸が少しだけ強く鼓動する。
「いえ、そんな。歩いて10分もかからないし、大丈夫ですよ」
「どうせ通り道ですし、遠慮なんか必要ありませんよ。……学生のころはもう少し我侭だったような気がするんですがね」
中野先生は思い出したように呟き、笑い出した。
「先生!」
慌てて必要以上に大きな声を出していて、顔が火照るのが自分でもはっきりと分かる。
「ああこりゃ失礼。まあ、あの頃と比べたら鷲野先生も成長してますよね」
それが単なるお世辞じゃなく、本心からそう言うのが、中野先生だった。だから、嬉しかった。でも、少し恥ずかしくもある。
「あの、中野先生、前から思ってたんですけど」
「なんでしょう」
「私が『先生』って呼ばれるのは、なんかくすぐったいです。特に中野先生には」
私の言葉に中野先生は顔を上げた。
「……だから、その、学生の時みたいに、鷲野さんって言ってもらえないでしょうか」
私にしてみれば、それは思いを打ち明けるに等しい告白だった。もちろんそんなことまで伝わりはしないだろうけど、私の心臓はいつもの倍くらい動いている。
なるべく平静を保つようにして、中野先生の返答を待つ。中野先生はふむ、と腕を組み、少し目線を上げて思案する。
「確かに、私から見ても教師としてはまだまだですしね、鷲野先生は。しかし、他の先生方の手前もありますしね……まあ、二人の時ならそれでもいいでしょうかね、鷲野さん」
中野先生はそう言いながら、珍しく意地の悪い笑い方をした。少し子供っぽく見えて可愛くて、またこの人を好きになってしまいそうだった。
「それから、敬語で話されるのも何というか、恐れ多いというか……」
「これは私の癖なので」
中野先生の微笑みは、どこまでも優しく、温かかった。