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夜がすべてを支配するそこは、『魔界』と呼ばれている。
その地には光は届かず、辺りには暗闇だけが広がる。そこは、かつて反乱を起こした天使が仲間と、神との戦闘に備えるために身を置いた地とされていた。
しかし、彼らの反乱は神には届かず、四人の天使によって鎮圧される。反乱を称えた天使は裁きの炎に焼かれ、天界に封印された。加担した同族達も拘束されたもの、堕とされたものと、天界は多くの天使を失うこととなった。
第一次天魔境戦争が終焉を迎え、生き残った両者は互いに干渉しないことを約束に自身の国の復旧を急いだ。
五百年という年月をかけ現在、文明が元々無かった魔界には経済や文化が誕生した。今ではそれぞれの階層に都市や町が構築され、多くの多種多様な魔族達が共存し生活をしている。
魔界第一層。
魔界でも唯一光が届く階層が二つ存在する。その一つがここ第一層である。
空は一年を通して分厚い雲に覆われているが、辺りの荒野の風景や岩の形、色までもがはっきりと認識することが出来る。
その灰色の空に、一つの黒い物体が捉えられた。風で飛ばされてきた布かと思いきや、それは小さな生き物だった。しかし、飛行手段となるものが生えている様子はない。
背丈からまだ幼い少女の姿で、黒いブーツを履きその底から淡い青色の光を永続的に噴出している。ロケットのような仕組みで、その風圧を利用して少女は高い空を飛行出来ているのである。
直にかかる前方の風に、微かに白い短髪が荒ぶる。それに対し、開かれた二つの淡いオレンジ色の眼は気にも留めていなかった。
そんな少女の何より注意を惹いたのが、大きな黒いガスマスクらしき装備品だった。目元から口、首を覆い隠し、口がある両端からチューブ状のものが両肩を通って小さな背中へと繋がっていた。僅かにスースーという音から、これで肺から直に酸素を送り込んでいるのであろう。
「………」
少女が視線を地上に落とすと、荒野の上を九匹の巨大なトカゲのような魔獣が荷車を転がしていた。それぞれのトカゲには帽子を深く被った商人たちが手綱を引いていた。
彼らは『旅の商人』と呼ばれ、あらゆる地方を旅している。そこで見る珍しいものを各階層の街などに売りに行き、今はその最中である。
その道中、彼らが進む前方より一頭の馬を走らせる騎士が現れた。それ以外に人の気配もなく、徐々にその姿が大きくなっていく。
その様子は上空にいる少女からもはっきりと見えた。視線を一人の騎士に移し、事の行方を見守る。
しかし、騎士は荷車を止めさせる素振りもなく、商人たちとは真逆の方向へと激走していった。
接触は免れたが先頭を行くトカゲが騎士に驚き、前足を上げた。
「うおおっ?!」
手綱を持っていた商人が声を洩らすと同時に、それを離してしまう。身体が一瞬宙に浮いたかと思った次に、下へと落下する。地面に叩きつけられるかと目を瞑った瞬間、大きな何かに受け止められた感覚に陥った。ゆっくりと目を見開くと、そこには先程まで空を飛んでいた少女の姿があった。顔のほとんどがガスマスクで隠れているため、どんな心情でいるのかがわからなかった。
「…あ、ありがとう。済まないな、あんた」
商人は少女にお礼を言うと、手綱のところまで少女に案内してもらうことにした。興奮するトカゲの頭部を優しく撫でながら、手綱を手に取る。
「どうしたあ?!」
「なんでもない! 少し驚いただけだ。ここで一旦休憩としよう!」
後方の心配した仲間に商人がそう伝えると、仲間たちはそれぞれの荷車を止めに入った。
その間に、落ち着きを取り戻してきたトカゲに対し商人は安堵の表情を浮かべた。
「いやあ、一時はどうなるかと思ったよ。助けてくれてありがとなっ、お嬢ちゃん」
いえいえ、と言うように少女は首を左右に振った。そして、先程の騎士と馬の行方を気にして後方を見た。しかし、そこには一人と一頭の姿はなく、休憩に入った商人たちとトカゲの姿だけがあった。
「しっかし早え馬だったな。もう見えねえや……」
その横で、商人も少女と同じ方向を見つめながら呟く。
「あんなに急いでどこ行くのか。確かあっちからじゃ都市には行けないはずだが……、騎士も大変だねえ」
その言葉に、少女は首を傾げて商人に向き直った。
「ん? ああ、知らないのか? なんでも今日は魔界最大都市こと、第四層の大魔王様のお城に魔界の猛者たちが集まるって話だ。勿論、彼らを一目見ようと多くの魔族が第四層に集まる。俺たちからしちゃどうでもいいけど、一儲けくらいは出来るだろ」
商人の瞳がギラギラと輝く。少女は両目をぱちくりさせてそれを半ばほど聞きながら何かを考え始めた。何かを忘れているような気がしたが、少女の思考は商人の商売話によって中々遮られ続けた。
魔界、第五層。
そこに広がるのは氷の世界。異様なまでの冷たい空気は、そこを生息地とする魔獣達にしても極寒である。
なぜこの階層に光があるのかは謎に包まれている。一部の研究者の間では上の第四層が問題ではないかと議論されている。それも、第四層には月が存在し、その光が下層の氷に反射した結果ではないかとされている。
そのすべてが氷で埋め尽くされた地に、男は愛馬と共にやって来た。
前方に広がる白銀の山脈を逆の山から見、その下の森へと視線を落とす。素顔は兜で窺うことは出来ない。
男は手綱を引き馬を走らせた。
下に広がる森は、まるでガラス細工で出来ているのではと思いほどに幻想的だった。その間を下山した男はゆっくりと馬と進み、辺りを見渡す。
僅かではあるが、辺りにはここに生息する白い体毛を持つ魔獣達の姿が窺えた。地面に生えた草や木の実を食し、移動を繰り返している。その横を通り過ぎる度に、魔獣達の視線が騎士に注がれる。警戒しているのか、こちらを凝視したまま動こうとしない。
男も彼らに注意を払いながら先を進むと、前方から氷の破片が頭部目掛けて飛んできた。左手を手綱から離し、甲手でそれを払い退ける。標的を仕留め損ねた凶器はその横の木を貫通し、地面に深々と突き刺さった。
その音を合図に、周りにいた魔獣達が一斉に分散して逃げる。
重装備だとはいえ、甲手の傷が先程の凶器の威力を語っていた。甲手の破損具合を確かめると、男は破片が飛んできた方に顔を上げる。
氷の森の奥から、冷気を帯びてそれは姿を表した。全身が氷で出来た人型のそれは、手足は鋭く尖った刃物のような形状をしている。体から奥の景色が薄っすらと見えるほどの透明度を誇り、侵入者である彼らを静かに見つめていた。




