憎い
午後八時。一人の男が現行犯逮捕された。
罪状は殺人未遂。懐にナイフを忍ばせ、夜道を一人で歩く女性に襲いかかったのだ。しかし女性は男の襲撃を頬の傷と引き替えに逃れ、そのまま最寄りの交番へ逃げ出した。
男は女を追い続けた。女が警察に助けを求めている事にも気づいていなかった。そして女がその建物の中に駆け込んだのを見て、男は初めてそこが交番である事に気がついた。
しかし気づいた時には手遅れだった。男はそこに詰めていた警官二名に取り押さえられ、その場で逮捕となった。警官の一人はすぐに所轄に連絡し、後は迎えの刑事が来るのを待つばかりであった。
「二階堂充。二十歳。学生か」
「貴女の方は萬田秋子ですね。二十五歳の会社員」
迎えが来るまでは三十分あった。それまでの間、二人の警官は犯人と被害者の身許を確認していた。そしてその中年の警官と若い警官の二人からの質問に対し、男と女は揃って素直に答えていった。
なおこの時、男と女は別室に別れていた。警官二人はそれぞれに一人ずつ付き、同時並行的に質問を行っていた。中年が被害者、若年が犯人である。
「それで間違いないね?」
「はい。その通りです」
「そっちの、二階堂さん? あなたも間違いないですね?」
「……はい」
男は完全に観念していたようだった。厚手のコートを羽織っていた彼は見るからに打ちひしがれており、その顔は青ざめていた。
少し哀れにも見えたが、犯罪は犯罪。警官二人は同情を捨て、簡単な聴取を続けていった。
「次はどうします? 動機くらい聞いておきますか?」
「それは所轄でやってくれるだろ。俺達が出しゃばる必要は無い」
そうして一通り話を聞いた後、二人の警官は外で合流し、そんな事を話し始めた。若い警官の問いかけに中年警官は苦笑してそう返し、後輩格の警官もそれに従った。
若い警官は物分かりの良い、「出来た」青年であった。
「私、何で襲われたんですか?」
そんな時、唐突に襲われた女が部屋から出てきた。そしてその女は出てくるなり、外にいた警官二人にそう問いかけた。
「それは後で、所轄の方で話を聞くことになっています。とりあえずは我慢していただけないでしょうか」
それに対しては年輩警官がそう対応した。しかし女は引き下がらなかった。
「今聞きたいんです。何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんですか? 私何か悪い事したんですか?」
「いや、だから、それは後で聞くことになりますので。今はとりあえず待機していてくれませんか?」
「今知りたいって言ってるじゃないですか。私、のろまなのって一番嫌いなんです」
女は若い警官の言葉を一蹴した。それどころか、彼女は自分から犯人がいる部屋のドアに向かい、そのドアノブに手をかけた。
「止めなさい。危険過ぎる」
「どうせあっちには手錠が掛けられてるんでしょう? なら問題無いですよね」
中年警官の言葉すらも通用しなかった。そして女はそのまま扉を開き、大股で部屋の中に入っていった。
なんて気の強い女なんだ。警官二人は額に汗を浮かべながら揃ってそう思った。しかし放置するわけにもいかないので、二人は彼女の後を追った。
男は萎れたままだった。逃げ出す素振りも見せず、素直にパイプ椅子に腰掛けていた。そこにいきなり女が現れ、テーブルを挟んで反対側の椅子に座ってきたのを見て、男は見るからに動揺した。
「ちょっとあなた、どうして私に襲いかかったのかしら?」
そしてそのまま、女は男にそう問いかけた。女は全身に怒気を漲らせ、男はそんな彼女の気迫に圧倒されていた。
遅れて警官二人がやってくる。そうして部屋に入った二人は、本来被害者である筈のその女が自分を殺しかけた男に詰め寄る光景を見て、ただ呆然とした。ここまで気が強い女が今までいただろうか?
それとも、理不尽に自分の命が狙われた事がそんなに憎いのだろうか?
「いつまでも黙ってないで、はっきり言ったらどうなの? 私はね、あなたみたいな根暗が一番嫌いなのよ。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
女の詰問はなおも続いた。男は俯いたまま何も言わない。その煮え切らない態度が、余計に女の機嫌を損ねていった。
「ちょっと! 聞こえてるの!? いい加減にしなさいよこの人殺し! いつまでも黙ってないで何か言いなさいよ!」
「萬田さん、もうその辺で」
「人殺しはお前の方だ!」
若い警官が制止しかけたその時、唐突に男が口を開いた。三人は一斉に男の方に視線を向け、対してその男はじっと女を見つめていた。
男の目は怒りに震えていた。その顔立ち柔和で幼げであり、虫も殺せないような穏やかなものであった。だがその中にあって、目だけがギラギラと、別人のように獰猛な輝きを湛えていた。
「な、なによ」
「ひ、人殺しは、お前のほうだ」
それを見た女が、ここで初めて気圧された。男は笑いもせず、ただ怒りを見せながら言葉を続けた。
「お、お前のせいだ。全部お前が悪いんだ。お前があんなことしなければ、俺もこんなことしないで済んだんだ」
「はあ?」
女が呆れたように首を傾げる。若い警官の方も、彼女と同じリアクションだった。
「どういうことかな?」
そこに中年の警官が食いつく。女と若い警官はすぐに意識をそちらに向けた。
「先輩? なんでそんなこと聞くんすか?」
「ちょっと気になったからさ。それで? さっきの言葉は、いったいどういう意味なんだい?」
後輩の質問に答えた後、中年警官が男に問いかける。男はそれには答えず、黙ってコートの前を開け始めた。
「お、俺、生まれつき心臓が悪かったんです」
男がそう言って、左胸が見えるように服をはだけさせる。その左胸、肩胛骨の下辺りに、白く薄い物が貼り付けられていた。
「ペースメーカー?」
それを見た中年警官が呟く。男は首肯し、いそいそとそれを隠しながら言葉を続けた。
「じ、十年前くらいのことです。そ、その日は、心臓の手術で、病院にいたんです。今回の手術は、その、今までよりも難しくなるって前もって言われてて。それでその、不安で」
「だからなんだってのよ」
「まあ落ち着いて」
男の辿々しい口調に苛立つ女を、若い警官がなだめる。一方で中年の警官は続きを促し、男は頷いて話を再開した。
「手術の三日前くらいになると、途端に怖くなって。ひょっとしたら、こ、これで失敗して、俺は死ぬんじゃないかって、思うようになって。毎日憂鬱で。そ、そしたら」
「そしたら?」
「と、隣のベッドに、あの子が来たんです」
「あの子?」
「真奈美ちゃんです。あの、アイドルの」
男がその名前を口にした直後、聞き手の三人は揃って表情を堅くした。そして若い警官は咄嗟に中年の警官に向き直り、「今の聞きました?」と問いかけた。
「真奈美ちゃんって、あれですよね? 十年前に、その、あの」
「十年前に死んだアイドルの日向真奈美だろ? 知ってるよ」
中年の警官はあっさり返した。それを受けて若い警官も、頭の中で件のアイドルの事件を思い返していた。
日向真奈美。本名は新城明日香。かつて若年層に大きな支持を得ていた学生アイドルである。しかし彼女は今から十年前、自分が通っていた高校で階段から足を滑らせて死亡。多くのファンがその突然の死に涙を流した。
「そ、その真奈美ちゃんが、俺の隣に入院することになったんです。その、学校で腕の骨が折れたとかいう、理由で。お、俺、真奈美ちゃんのファンだったから、凄い嬉しくて」
そう話す男の顔は喜悦に満ちていた。本当に楽しそうであり、彼が真奈美を真に好いていた事は一目瞭然であった。
「そ、それに、真奈美ちゃんは優しかったんです。お、俺にも親身に接してくれて。病気とか、人生とか、悩みも色々聞いてくれて。俺、真奈美ちゃんから勇気をもらったんです。それからはもう、手術を怖いとか思わなくなって」
「いい子だったんだな、その真奈美ちゃんは」
「は、はい。それはもう。真奈美ちゃんは、お、俺の、命の恩人なんです」
若い警官からの問いかけに、まるで自分の事のように顔を輝かせて男が答える。警官二人はそれを穏やかな表情で見守り、一方で女は面白くなさそうに渋い顔を浮かべていた。
「そ、それで、その時、真奈美ちゃんの悩みも聞いたんです。そこで俺、真奈美ちゃんが、その」
「いじめられていた?」
「は、はい。それを知ったんです」
中年警官の問いに男が答える。誰もそれに驚かなかった。
新城明日香がいじめによって死に至った、というのは、彼女の死を知る人間にとっては周知の事実であった。人気アイドルが死亡したという報道が出された直後、そのメディアが大々的にそれを報じたのである。
リーク元は彼女が通っていた高校の生徒。さらにはネットの掲示板にも、ニュースで流れたのと同等以上の詳細な情報が書き込まれた。そこでは彼女をいじめていたグループに属する面々の名前も、全員実名で公開された。
そして死亡後もいじめと死を繋げる明確な証拠が出ず、事故として処理された事もまた、ネット上での炎上に拍車をかけた。
「確か、そのグループのリーダー格っていうのが」
「萬田秋子です」
若い警官の問いに男が答える。男はそのまま女を睨みつけ、女はバツが悪そうに視線を逸らした。
おかげで「新城明日香の死」の原因と理由は一瞬で広範囲に広まり、「正義の鉄槌」という名目での関係者へのバッシングが一気に始まったのである。
「でもその時は、まだ誰も真奈美ちゃんがいじめられていたって事は誰も知らなかったんです。いじめも他の人に見えない所で、じわじわ受けていたみたいで、真奈美ちゃんも俺以外、誰にもその事を相談していなかったみたいなんです」
「どうして?」
「真奈美ちゃんのご両親は、と、共働きだったみたいなんです。それで忙しくしている二人にめ、迷惑はかけられないって言って、それで」
そこまで言って、男は再び顔を俯かせた。そして声を殺し、耐えるように嗚咽を始めた。
「お、俺はね、許せなかったんですよ。真奈美ちゃんが死んで、なのに真奈美ちゃんをいじめて、死にまで追いやった連中がの、のうのうと生きてるなんて。しかも証拠が無いから、裁くことも出来ない。ふ、不公平にも程がある」
再度、男が女を睨む。目頭は真っ赤に腫れ上がり、頬には涙の跡が残っていた。
「だ、だから、俺はね? ふ、復讐してやるって思ったんです。お、俺を助けてくれた真奈美ちゃんをこ、殺した奴に、天誅を下してやるって」
「だから、萬田さんを殺そうとした?」
若い警官の問いかけに男が頷く。そして男はそのまま、話を再開する。
「引っ越してるって聞いたから、一から住所を調べ直して。それで本当はまだここに住んでるって聞いたから、もっと調べて。そ、それで、スケジュールとかも手に入れて調べて、一人になるタイミングを見計らって」
「今日実行した」
今度は中年の警官が口を開く。男はそれにも頷いた。
「冗談じゃないわ」
そこで初めて女が口を開く。女はそのまま憎らしげに男を見つめ、あからさまに肩を落としながら彼に言った。
「あんた、知らないの? あれはただの事故。いじめが死に繋がった証拠なんて少しも出てないのよ。勘違いもいい加減にしてほしいわね」
「う、うるさい! たとえそうだったとしても、お前らが真奈美ちゃんをいじめてたのは事実なんだ! それが原因で真奈美ちゃんは死んだんだ!」
「私はいじめてなんていないわ。ただちょっと、からかっただけよ。いじめてなんかない。むしろこっちが不当なバッシングに遭っただから。そう、被害者。こっちが被害者なんだからね?」
女はまったく悪びれていない様子であった。しかしその口調は足早で、額にはほんのわずか汗が浮き出ていた。
それでも女は、まるで「自分は悪くない」と言わんばかりに強気な態度を取り続けた。
「ほんと、勘弁してほしいわ。私はただちょっとからかっただけなのに。それを向こうが勝手に誤解して、勝手に絶望しただけなんだから。これだからアイドルは嫌なのよ。根性無しのくせにぶりっ子キャラ作ってさ。目障りなのよ。自分が特別な存在だと思ったら大間違いなのよ」
「ふ、ふざけるな!」
男が激高し立ち上がる。突然の事に女は本気で恐怖し、警官が素早く男の両脇を押さえる。
「そこまで! そこまでだ!」
「落ち着け! じっとしろ!」
そして暴れる男を、警官二人が無理矢理椅子に座らせる。男は抵抗しようともがくが、それでも訓練を受けた警官二人に抗する膂力は持ち合わせていなかった。
「お前の気持ちはわかった」
そうして無理やり座らせた後、男の横で中年の警官が声をかけた。男は警官の方を向き、その顔を見ながら中年警官が続けた。
「悔しかったんだな。自分を勇気づけてくれた子が死んで、その子をいじめてた連中が普通に生きてたのが、死ぬほど悔しかったんだな?」
中年警官の表情は迫真のものだった。男はその迫力に気圧され、警官はそのまま言葉を続けた。
「だがお前のやったことは犯罪だ。それにそんな事をして、真奈美が喜ぶと思うか? お前の無念はわかるが、これ以上罪を重ねるな。お前が暴れても何も変わらないんだぞ」
警官の言葉は男の心に直に響いた。男はすぐに体から力を抜き、警官に押されるままに椅子に座り直した。
「俺、おれ……」
そのまま男はテーブルに突っ伏した。警官二人は相手が抵抗の意志を無くしたのを察し、彼から手を離した。
「先輩」
若い警官が中年の警官に声を掛ける。中年警官は黙って首を横に振り、それを見た若い警官はそれ以上何も言わなかった。
「ふん。バカじゃないの?」
一方でそのやり取りを見て、女はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「どうも久しぶりです。こちらの二人が?」
「そうです。よろしくお願いします」
所轄の刑事が来たのは、それから暫くしてからの事だった。刑事は警官から事情を聞いた後、男と女の二人とも引き取ると告げてきた。
「は? なんで私も行かなきゃいけないのよ?」
不満を漏らしたのは女の方だった。しかし歳を食ったその刑事は頑として譲らなかった。
「あんたからも色々事情を聞かなきゃいけないからな。なんで襲われることになったのか、こっちでもう一度説明してもらうよ」
「ふざけないでよ。理由ならさっきここでそいつが話したでしょ? なんで私の方からもう一回言わなきゃいけないのよ?」
女がそう言って男を指さす。男は完全に意気消沈しており、何も言い返さなかった。
しかし所轄の刑事はなおも頑なだった。
「だから、その裏付けを取るんだよ。片方の意見だけじゃ、信憑性に欠けるからな」
「だ、だからって、私がいちいち」
「大丈夫。そんなに時間は取らないから。それともなんだ? 何か言いにくい、後ろめたい事でもあるのか?」
刑事の追求に、女は一瞬息をのんだ。その後女はすぐに平静を取り戻したが、その一瞬の感情の揺らぎを三人の警察官は見逃さなかった。
「では、お願いします」
「ええ。後はこっちでやっときますよ」
しかし誰もそれを追求しなかった。代わりに中年警官が刑事に話しかけ、彼と同じくらい歳を食っているように見える刑事もまた、それに対して軽い態度で答えた。
「それじゃあ新城さん、私はこれで」
そうして男女を引き取った刑事が出し抜けに返す。刹那、被害者と加害者は揃って中年刑事の方を見た。
彼らの顔は驚愕に染まっていた。
「え」
「まさか」
二人は中年刑事を凝視していた。若い刑事は何も言わず、渋い顔のまま俯いていた。
「刑事さん、まさか、真奈美ちゃんの……?」
「……」
男が尋ねる。中年刑事も何も言わなかった。が、やがて彼はゆっくりと、二人を見ながら口を開いた。
「新城明日香は私の娘です」
女はその刑事の顔を見て、初めて自分のしたことを後悔した。