ハロー、テトラポッド
だから、私はちょっとだけ無理して笑って、そしてほんの少しだけ泣いた。
この町には、とてもいい風が吹く。海沿いの小さい町だから、潮の香りがそこかしこの路地を駆け抜けていく。
「―であるから、このXに先ほどの数字を――」
この町には、気持ちのいい太陽光が降り注ぐ。布団をぱしぱしと叩く新婚の奥さんに、カブトムシを捕まえて満足げな少年に、午後からの営業に気合を入れるおじさんに、塀の上を誇らしげに歩く猫に。
「―の公式は受験に出るから、しっかりと――」
この町には、優しい人が住む。すれ違う人はみんな笑顔で挨拶を交わし、お互い助け合って生活している。
「―い、聞いてるのか?おい、ウナバラ!」
「……はい」
それなのに、私だけは今日も塞いだ気分でいる。
時計の針がいくらか動いて、解放を知らせるチャイムが鳴った。私を注意したときに黒板に叩きつけたせいで短くなったチョークを先生が手放したことを確認して、学級委員が高らかに号令を響かせる。
「きりーつ、れーい」
みんなが一斉に立ち上がり、頭を下げる。クラスの団結力を確認するために、先生に感謝するために。私も皆と同じように立ち上がり、背中を曲げる。すぐにここから出ていくために、床から鞄を拾い上げるために。
いつからこんなに息苦しくなったのか、もう覚えていない。理由はいくつか思い当たるけれど、別に悪い事をしたわけじゃない。せいぜいクラスメイトからの遊びの誘いを断ったこととか、くだらないイジメに加担することを拒否したこととか、教室で告白してきた男の子を振ったこととか。きっとその中のどれかが、クラスで幅をきかせる女子のグループにとって気に入らなかったんだと思う。そうして、悪いことをしていない私と、悪気もなく私の陰口をたたく女子グループの仲はとても悪くなった。
大嫌いなクラスの空気で窒息する前に、傍観を選んだクラスメイトの隙間を縫って、後ろのドアから教室を出る。ちょうど入れ違うように前のドアから教室に戻ってきた担任の声が、教室から聞こえる。
「連絡を忘れていたんだが、ウナバラはいるか?なんだ、もう帰ったのか」
先生が私を呼んだ理由はわかっている。指定鞄の底に折りたたまれたまま入っている、進路希望調査票のことだ。この一週間ずっと、これを提出していないのはお前だけだから早く提出するように、頼むから先生を困らせないでくれ、なんて言われ続けている。でも、私だって困っているのだ。だって、その紙に何を書けばいいのかわからないのだから。
手早く上履きを靴箱に突っ込んで、校門を出る。太陽の熱でじりじりと揺れるアスファルトを底の硬いスニーカーで踏みつけるようにしてひとり歩いているうちに、少しだけ気分が楽になる。帰り道と真逆の方向へ歩みを進める私の頭にぼうっと浮かんでくるのは、いつか図書館で読んだ本に書いてあった知識だ。
種類の違う魚をひとつの水槽に入れる時には注意してください。体の大きい魚が、小さいほうの魚を傷つける可能性があります。また同種であっても、せまい水槽の中では集団が1匹を苛める可能性があります。そして、水にも注意が必要です。放置して淀んだ水は、魚にとって大きなストレスです。魚はとてもデリケートな生き物であることを理解してください、むやみに水槽に手を指しこみ魚に触れることは、魚の寿命を縮めます。
ああ、魚と私たち。そこにはなにも違いなんてないのだと、他人事のように思う。私のいる水槽にはクラスという名札がついていて、そこではちょっとだけ強い魚が私をつつく。水槽の小魚たちは見て見ぬふりをして泳ぎ続ける。間違って割って入れば、次につつかれるのは自分かもしれないから。クラスに満ちる水は魚にとって十分なほど淀んでいるけれど、水槽を管理する先生にはその違いなんて分からない。
でもきっと、誰も悪くないのだと思う。ただ少し、ほんの少しだけ水槽が狭かっただけなのだ。私はそれを知っているから、水槽の外をひとりで泳いでいる今、こんなにも悲しい気持ちになっている。
「……うわあっ」
そんな沈んだ気持ちに追い打ちをかけるように、スニーカーの蝶々結びがするりと解ける。涙をこらえるために太陽とにらみ合いをしていた私は、もちろんそれを踏んでコンクリートとハグをする。
「大丈夫、大丈夫」
家の集まる方向とは逆へ向かう、人通りの少ない海沿いの道だから、私の鮮やかなミスの一部始終を見ていた人は誰もいないし、もちろん『大丈夫?』なんてケガを気遣う声をかける人もいない。それでも、自分に言い聞かせるように声を出す。大丈夫。私はまだ、負けてない。
10カウントぎりぎりまで粘って体力回復を待つボクサーのように、コンクリートの地面の上にそのまま座り込む。地面は相変わらず焼け付くような温度だけれど、海から流れてくる涼しい風が髪や服の裾を撫でていくから耐えられる。そのまましばらく、緩やかに曲がりながら続くこの道の先を眺めていると、規則正しく続くガードレールの切れ間から、海へと続く小さな階段に目がとまる。それはこの道の一段下、海に沿うようにして伸びる細道に続いているように見えた。これまでこんなところで立ち止まることはなかったから、階段があるなんて全然知らなかった。
「……よし」
ガードレールをすり抜けて階段を降りた先も、同じコンクリートの道だった。けれど、上の道が壁になって、昼過ぎまで日が当たっていなかったからだろう、こちらの道はさっきと比べ物にならないくらいに涼しい。
ここらは整備された観光地用の浜とは程遠く、陸を目指し近づいてきた波は、積みあがったテトラポッドにざぱざぱと衝突しては消えていた。どうせなら海に近いところまで行ってやろうと、私は金平糖の出来損ないのような石に足をかけた。
不安定な足場に苦戦しながらじりじりと歩を進めて、やっとのことで海と岸のちょうど真ん中あたりにあるテトラポッドの、上に向かって伸びたトゲに腰を下ろす。そうしてしばらくの間、テトラポッドに飲み込まれた波が引いていくときの、ざぱぱぱぱという無念そうな音に耳を澄ませた。本当はいつか見た映画の主人公みたいに、海にちなんだ歌でもひとつ鼻歌で歌いたかったけれど、残念なことに私がちゃんと覚えている曲は音楽の授業で無理やり歌わされたカントリー・ロードしかなかったから、黙って海を眺めていた。
それからどれくらいそうしていただろう。繰り返す波の音と空を朱に染める夕日のせいで十分に感傷的な気分になった私を少し現実に引き戻したのは、ポケットの中で揺れるスマートフォンだった。一度目はそれも無視しようとしたけれど、二度三度と振動は続く。画面を見ないでそのまま電源を落とせばいいとわかっているのに、それでも文字を見てしまう。設定で少し輝度を落としてある画面には、クラスメンバーがSNSで遊びの計画を相談している様子が表示されていた。通知欄に次々と積み上がっていく楽しそうな文字の連なりのどれもが、私のことを忘れていた。
もしかしたら私から手を離したのかもしれないし、振動で手から滑り落ちたのかもしれない。あるいは、ひときわ大きく押し寄せた波のせいかもしれない。私の手から離れたスマートフォンはクラスみんなのわくわくを抱きしめたまま、テトラポッドの隙間に飲み込まれて消えた。
最新機種だったのに。ねえ、私も仲間に入れてよ。まだ保証期間中だといいなあ。お母さんになんて言い訳しよう。頭の中に泡のように浮かんだ言葉は全部はじけて消えて、代わりに口をついて出てきたのは「ざまあみろ」だった。
だから、私はちょっとだけ無理して笑って、そしてほんの少しだけ泣いた。
ちょっと前の自分に泣くことを許してもらった今の自分の頭は、結局大泣きしたせいでまだぼんやりしていた。ローギアで回る重たい思考は、私の居場所はここだったんだな、という確信に至る。
きっと私は、新築の家や学校の塀を形作るレンガのようになることが出来なかったのだ。皆と形を揃えることもできず、上下左右にピッタリと詰め込まれることにも耐えられず。デコボコでいびつな私の居場所は、海沿いの町の、壁の外。私と同じ形をした、テトラポッドの上だったのだ。
もういいや、真っ暗になる前に、今日は家に帰ろう。明日からも耐えて、またダメになりそうになったら、ここに来よう。立ち上がって海に背を向けた私に、予想外のところから声が飛ぶ。
「うわ、ダメダメ、死んじゃダメだよ!考え直して!」
私が来た方と逆側の細道から、日焼けした青年が駆けてくる。息を切らして苦しいだろうに、現世に引き留めるための説得は続く。
「ほら、明日はきっといいことあるって!元気出して!」
私は今そんなに死にそうな顔をしているか、なんて聞くわけにもいかないから、黙って青年の顔を見る。私の意図が伝わったのか、ぱきぱきとした語調はそのままに、今度はわたわたと状況の説明を始める。
「いや違うんだ、ボクは夕方よくこの道を散歩するんだよ。今日もここを歩いてたんだけど途中で君を見かけてさ、そうしたら君が何か落とした後に泣き始めたのが見えたから、出ていくに出ていけなくって。あんまり泣いてるものだから、もしかしたら自殺しちゃうんじゃないかと思って。それで海に飛び込まないか見てたんだよ、ごめんね」
「大丈夫、もう戻ろうと思ってたから」
とりあえず悪い人では無さそうな彼が私の涙の跡に気づく前に、顔をごしごしと袖で拭ってから、来た時と同じだけの時間をかけてテトラポッドの道を渡った。
私が一歩踏み出すたびにハラハラとした顔をしていた彼の傍に着地して、お互いに向かい合う。半分地平線に沈んだ夕日が照らす彼の顔は、一度も見かけたことが無いものだった。そして彼も同じようなことを考えているということを、彼のわかりやすい表情は伝えていた。
「そのさ、もしボクでよかったら、話をきかせてよ。泣きたくなるようなことって、一人で持っているとすごく重たいじゃない」
さっき会ったばかりの人に個人的な悩みを話しても許されるのだろうか、と悩んでいるうちに、彼は言葉を重ねる。
「いやごめん、いきなり話せっていうのもよくないよね。えっと、じゃあ僕が自分のことを話すから、よかったら聞いてよ。袖触れ合うもなんたらかんたら、ってやつだと思ってさ」
そうして彼は、自分のことを話してくれた。
「ボクも君と同じ高校の出身だったんで、3年前までは同じ指定の制服を着てたんだよ。だからボクがちょっとだけ先輩だね。ボクはそんなに頭の良いほうじゃなかったから勉強が苦手で、いつも数学のおじいちゃん先生に名指しで怒られてたんだけどね。それでもなんとか3年生まで無事に進級したんだけど、今度は自分の進路を書いて提出するって課題が出て、それがもうホントに辛くってさ。そうそう、たしか今ぐらいの時期。何も書けないから、いっそ破り捨てて海に流してやろうかと思ってここに来たこともあったんだよ。懐かしいなあ。結局未定って書いて担任に出したら『出すのが遅いし字が汚い』なんて笑われたんだけど、なんかすっきりしてさ。最終的に父親の仕事を継いで漁師になることに決めたんだ」
自分のことを話すことが、自殺者を止めるのに効果的なのかは知らないけれど。少なくとも私は、くるくると表情を変えながら一生懸命に話す彼のことを少しだけ信頼した。
「だから、ボクは今日も朝から船に乗ってたんだ。まだまだ未熟者だから、父親に見てもらいながらだけどね。港は、あっちにあるんだ」
そう言うと誇らしそうに、彼が走って来た方を指さした。それで、彼の話は終わったようだった。
自分の順番が回ってきたけれど、彼ほど素直に話せない私はわざと抽象的な言葉を選ぶ。この人にこれで伝わるといいなあと思ったし、この人に私の悩みは分からないといいなあ、とも思った。
「学校の皆は肩を組んで町中にあるレンガの壁になったのに、私だけ町外れのテトラポッドになっちゃったなあ、って考えていたの」
私の悩みが伝わったかどうかはわからないけれど、彼はちょっと考え込んだあと、返事をくれた。
「ボクは、テトラポッドも悪くないと思うよ。テトラポッドは周りと距離をとるために角を突き出しているけれど、あれは大事なことなんだ。例えば大きな波が来た時、積み上げたレンガは簡単に崩されて、ばらばらに流されていくんだ。けれど、こんな風に腕を突き出して、手を組み合って、ちょうどいい距離を保って。テトラポッドはそうして、打ち付ける強い波に耐えることができる。いいじゃない、渋くて」
日に焼けて煉瓦色になった腕を私のほうに突き出して、彼は楽しそうに肩を震わせる。どこか確信したようにそう話す彼も、きっと制服を着ていたころはテトラポッドだったのだろう。悩みなんて無さそうに笑う彼が羨ましくて、わたしもそうなりたいなあ、なんて思う。
彼のほうに一歩近づいて、こちらに向けられた大きな掌に、自分の手のひらをぺたりと合わせる。
「今ね、少しだけ、ほんの少し。ここにあるテトラポッドの気持ちがわかった気がする」
「よかったら、ボクにもわかるように教えてくれない?」
「こうしていれば、なんだって耐えられそう」
それを聞いた彼は、本当にもう大丈夫?と訊くかどうか迷っている、という顔をしていた。だから彼にそれを言わせる前に、口を開く。
「大丈夫よ。私はきっともう、大丈夫」
安心して腕を下ろそうとした彼の手のひらを捕まえて、訊く。
「だけど、また来てもいい?」
「待ってるよ、いつだって」
夕日はとっくに、地平線に沈んでいた。
「もー、今日も遅刻?」
「ごめん、久々に漁が休みだから気を緩めてたら、朝ご飯食べながら寝ちゃってた」
「まあいいわ、行きましょ!」
デートの集合場所は、いつものところ。いつものように、手をつなぐ。
「ここのテトラポッドも、変わらないわね」
「初めて会ってからまだ5年だからね。その程度じゃビクともしないよ。テトラポッドは、強いから」
この町には、とてもいい風が吹く。海沿いの小さい町だから、潮の香りがそこかしこの路地を駆け抜けていく。
「キミが鼻歌を歌うなんて、珍しいね」
この町には、気持ちのいい太陽光が降り注ぐ。布団をぱしぱしと叩く新婚の奥さんに、カブトムシを捕まえて満足げな少年に、午後からの営業に気合を入れるおじさんに、塀の上を誇らしげに歩く猫に。
「カントリー・ロードよ。私の好きな曲」
この町には、優しい人が住む。すれ違う人はみんな笑顔で挨拶を交わし、お互い助け合って生活している。
「いいね、ボクも好きだよ」
こうやって手を組み合って、ちょうどいい距離を保って。私はきっと、これからどんな波が来ても耐えられる。それを知っているから、お日様の下を二人並んで歩く今、こんなにも楽しい気持ちでいられるのだ。