第5話 〝会合〟 [後編]
どうにか間に合った……。が、実は終わらなかった説明会。
今度こそプロローグ的な話は終わりです。
楽しんでいただけたら幸いです。
「いやー、上手くいって良かった、良かった」
五郎は上機嫌な声で、岡本安泰と共に岡本城へ帰路についていた。
本来ならば安房里見家の血筋であり、まだ元服もしていない五郎は義堯の元にいるべきなのだが、義堯の許可の元、好き勝手に艦船設計と造船(ただし、直ぐに役立つものに限る)して良いこととなった。
また、館山湾の整備が決定し、屋敷の建設と人夫、職人たちを移住が済み次第、五郎と、この度に五郎の家臣となった岡本安泰と共に館山湾の開発指揮を執るために移ることとなったのだ。
口さがない国人衆や家臣たちは「殿(義堯)に嫌われ、遠ざけられた」「義舜様は優秀であるが、五郎様は暗愚だから」「兄弟の派閥争いに負けた」等々。
好き勝手に噂や陰口を叩いていたが、そんなものなんぞ五郎は聞く気も無いし、気にもしなかった。
「いやしかし、驚きましたな」
「んー、何がです?」
ルンルン気分(表現が古いか?)の五郎に、安泰が馬を近づけてきて、周りに聴こえないよう、小声で話しかけてきた。
「若様の発想ですよ。あそこまで思いつくとは凄いですな。本当に造船技師だったのですか?」
「まあ船に関する事なら色々やっていましたし、設計依頼にここいらの航路は調べましたしね。その時に知ったんですよ」
そういって、五郎は先日の事を思い返した。
*
「捕鯨?どういうことです?」
時忠は困惑していた。
確かに鯨は珍しいが、そこまで五郎が言う通り大型船の高額な建造費が賄えるほどの採算の取れるものだろうか?
時忠だけでなく、安泰も同様の思いだった。
現代では多くの国で捕鯨は禁止されており、また日本の調査捕鯨は赤字であった。
それを知っているために、あまり歴史には詳しくない時忠や安泰らには何故、捕鯨を積極的に進めたがるのかが分からなかったのだ。
「……あっ、そうか!そういうことかっ!?」
「流石は先生。ご存知でしたか」
実元には五郎の言いたいことが分かったらしい。
また元日本軍人の義舜も分かったのか、ようやく納得した顔をした。
「どういうことです?」
「ま、これから五郎が説明するさ」
未だ困惑顔の時忠に、義舜がそう言うと再び五郎に視線が集まる。
9歳の少年らしい、満面の笑みを浮かべ、説明を始めた。
「我々には鯨は必要です。なにせこの時はまだ捕鯨方法が確立しておらず、贈呈品に使うほどの、最高ランクの魚でしたから」
戦国時代、鯨というのは貴重で高価な魚であった。
現代の人たちには分りづらいだろうが、室町時代末期の料理書には魚の格付けが書かれており、最高位に鯨、二番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられている(ちなみに、現代では高級魚である鮪は腐りやすい魚であるため、最下位どころか名前が知られていなかった)。
また、この時代は他国の大名や城主に、また家臣が自らの地位を確保するために価値ある物、例えば有名な茶器や漆器、名刀などを献上することで、相手との好みを通じて戦を避けたり、同盟の絆を強めるといったことを図っていた。
その中に、鯨肉用の桶である「鯨桶」に入れ、鯨肉が送られることがあった。
古くから鯨肉は贈呈物としても最高級であり、織田信長も禁裏へ鯨肉を献上したことがあった。また、土佐大名の長宗我部元親が豊臣秀吉に覚えをめでたくする為に、100人以上の人夫を使い、大阪城まで体長9尋(約16m)の鯨を1頭丸々運び込んだという。これに見事成功し、長宗我部元親は一気に名を上げることとなったという。
そんな鯨だが、戦国時代では主に冬から春にかけて、房総半島では初夏から初秋にかけて海流に乗って回遊する鯨が沿岸近くまで来た際に小舟で近づき、捕鯨用の銛で突く、もしくは打ち上げられた鯨を捕るしかなかった。特に捕鯨は多数の死者が出るほど危険であり、捕獲が難しかったのだ。
江戸時代にはかつての水軍が中心となり、網に絡め、捕獲する「網取り式」が開発されたが、それでも危険な事には変わりなかった。
江戸時代中後期の話になるが、鯨1頭あたりの利益は4,000両にもなるとされた。
セミクジラ、コククジラな遊泳速度の遅い種類から捕獲の難しいナガスクジラなど、大きさもばらつきがあり、当時の米価から計算すると――物価の変動が大きいため、一概には言えないが――現代価値で金1両当たり約4万円。単純計算で16,000万円になる。
それだけの価値が鯨にはあったのだ。
鯨肉と鰭、軟骨は塩漬けにされ食料に、ひげや歯は釣竿、服、扇子、根付など工芸品に、皮は膠に、血は薬に、鯨骨と脂肪は鯨油に、絞り粕は砕いて肥料に、鯨油は灯油、農薬に使用され、無駄が出なかった。
更に言えば、鯨は近代工業に必要不可欠であった。
欧州では石鹸、マーガリンの原料に、日本では鯨油は機関銃などの機械油として使用され、鹸化させるとグリセリンが抽出できた。グリセリンは砲の駐座複退機に使用されており、また硫酸・硝酸の混酸を反応させればニトログリセリンとなり、爆薬の原料となった。
つまり、鉄砲や大砲の高性能化には大量のグリセリンが必要となるのだ。
そこで五郎が考えたのは太平洋の、特にマッコウクジラを狙った大型漁船による遠洋捕鯨、つまりアメリカ式捕鯨とノルウェー式捕鯨を真似たものである。
捕鯨砲の代わりに船の甲板に大型の弩、バリスタを設置し、縄を括った銛を撃ち出せるように改良する。動力付き捕鯨船の代わりには帆船を使用する。
鯨を発見したならば、まずバリスタで銛を撃ちこむ。縄と繋がっている為に鯨は逃げられず、更にバリスタで撃つか船員が銛で仕留めて捕獲する。
捕獲した鯨は解体され、肉、皮、骨、ひげ、歯と簡単に分類する。
骨と肉は船上に設置した炉と釜で煮て油を取り、組み立てた樽に保存する。鯨で満載になる、もしくは食料や薪が少なくなったら帰還する、というものだった。
マッコウクジラは食用に向かないものの、その分良質の鯨油が多く取れた。特に脳油から精製した滑純油は現代でも最高級品である。また腸内には高級香料である竜涎香が取れた。
また、太平洋側の捕鯨基地には館山湾のほば反対、外房の和田浦を整備する。未来では千葉県和田町、かつて日本全国に5ヶ所しかない捕鯨基地をもつ町であった。
この方法の利点は、波の荒い太平洋に長期間出るためには300t以上――木造帆船だと30mを超える規模となる――は必要だが、一隻当たり30人程の少人数で済むことにあった。また、連続で捕鯨するため一度の出港で大量の儲けを出すことができた。
「……といっても、遠洋捕鯨するには望遠鏡、六分儀、羅針盤、海図といった道具類からそれを扱える水夫が必要となるので、それまでは和田浦、勝浦湾、館山湾からの比較的近場での捕鯨になりますがね」
「それでも十分な利益が出ます!軍船としても使用できますし、望遠鏡と六分儀、羅針盤は交易で入手できますし、海図は測量して製作すればいけます!!」
五郎の話に聞き入っていた安泰は、興奮気味に言った。
実行すれば膨大なまでの利益が出る。今までの交易とは比にならない程に。
(確かに、鯨を加工して輸出するなり、大名に渡して同盟関係の強化も良い。が、堺の商人たちへ話を持って行けば食い付くだろう。こちらを喰い付くさんばかりにな。東国の販路、諸国の大名へ献上すれば覚えが良くなり、あわよくば御用商人になれるかもしれないという魅力があるからな。その部分を突けば湾港開発の投資を募ることも出来る)
時忠も言われて考えてみれば、その価値より、上手くやればもれなく付いてくる経済効果が凄まじいことに気が付いたのだ。
恐らく、義頼はそこまで考えていないだろう。ただ獲って売って金を稼ぐ。間違いではないが、このままでは商人にしゃぶりつくされるだろう。
だからこそ、面白い。
(大量に出回ればそれだけ値崩れは起こすだろうが、そこら辺は調節すればいいな。ついでに弁才船や綿布、俵物を高く売りつけられば……)
現在、里見の交易を一手に担っているのは、時忠である。鯨の販売も時忠がやることになるだろう。
つまり、後世にも残っているような海千山千で貪欲な堺の商人と遣り合うのだ。かつて、時忠と呼ばれる前は商社勤めであり、莫大な資金を動かし、海千山千の人と遣り合うときの緊張感、困難な仕事を成功させたときの達成感は何物にも代え難いものであった。
この時代の商人も、前世と変わらないほど貪欲だ。いやそれ以上かもしれない。戦国時代らしく弱肉強食。容赦なく身代を食い潰すような連中である。それと、あの手この手と遣り合える。
(これは暫くの間、楽しむことが出来ますね……!)
時忠は忘れかけていた、心が躍るような、興奮を覚えていた。
そう思案している間にも、五郎たちの話し合いは続いていた。
「あと、できれば捕鯨基地として伊豆諸島と小笠原諸島を押さえたい所ですが……」
「……難しいだろうな。小笠原は遠いし、特に大島は伊豆に近すぎる」
伊豆諸島、小笠原諸島の近海には大量の鯨が生息しており、太平洋での捕鯨基地として有望な場所であった。
しかし、流刑地であるため航路は比較的開拓されているが、伊豆諸島は敵国である北条の領地であった。特に大島は伊豆半島から直線距離で20kmほどしか離れていなかった。
房総半島からはやや遠く、敵国に近い島を維持するのは難しいのだ。
「若様、安泰殿」
時忠は安直だと分かりつつも、自分の考えを言う。
「直接、勝浦や館山から三宅島へ行く航路はありますか?」
「……正直、無理でしょう。未来でも大島を起点としていましたし、現状では沖乗りも出来ませんので確実に迷子になります」
この質問に対し、安泰が答える。
この時代は「地乗り」という、陸地が見える海岸沿いに船を走らしていた。
測量器具が無かったため、「沖乗り」という陸地が見えない海原での航海が発達したのも江戸時代に入って暫くしてからである。
「東へ、太平洋に出る場合はどのくらいまで伸ばせられます?」
「まあ沖乗りに慣れていないならば、2、3日程度で行き来できる距離が限界でしょう。その距離でしたら弁才船でも可能かと思います。単純な話、帆を二本スクーナー型に、あとバリスタをくっ付ければいいので。当然、航海術は要りますが、一定間隔でブイを落とせばそう迷わないでしょうし、水軍の航海練習になるかと思います」
何となく雰囲気の変わった、目を輝かせた時忠に五郎は困惑する。
実際は五郎によって焚き付けられたせいなのだが、そんな事は知るはずもなかった。
「……暫くは近海捕鯨を進めるのが良いかと思います。流石に大島を抑え、維持するのは難しいでしょう。鯨が取れると分かったら北条が出っ張ってきます」
「もう少し大島が近ければどうにかできたんですが、まあ仕方ないですね」
「その、提案ですが、1560年に北条討伐軍が結成されますし、その時に占領するというのは?その時には水軍は強化出来ていますし、徹底的に叩けばそう簡単には再編成できません。大島を水軍基地として整備できる時間は作れます」
実元は「先生」の渾名通りに、覚えていた史実を基に伊豆諸島占領を提案した。
永禄3(1560)年には関東管領である上杉憲政・佐竹氏・里見氏の要請により、長尾景虎が北条討伐軍を結成し、関東へ出陣した。丁度「桶狭間の戦い」があった年である。
翌年の永禄4年には北条氏は伊豆国まで押し込まれていたため、北条水軍を壊滅させれば伊豆諸島を占領するのは可能だろう。
「それが良いかと。10年後には兵器開発も進んでいるでしょう」
「では、10年後には北条を殲滅する気でやるか」
かなり過激な発言に、五郎はドン引きする。
「徹底的にやった方が良いだろう。下手に残すと物量で安房国まで押し込まれる」
「その前には大量のイベント(内乱と合戦、小競り合い)がありますがね……」
その姿に苦笑しつつ言う義舜に、実元はやや遠い目をする。
永禄3年までに里見家は北条方と幾つかの戦を行ったが、主に里見義堯・義舜、正木時茂が参加していた。当然、実元も義舜の家臣で有るため、参加しなければならない。これに加え、日常的に小競り合いの対処、兵器開発でまた一段と忙しくなるのだ。
自分でも思うが、誰か仕事を手伝ってくれないだろうか?
そんな実元の事など知らず、無情にも議論は進む。
「となると、内房正木氏はどうしますか?史実では確か、もうすぐ裏切りますが、3年後にはあの付近が戦場となりますし、此方へ引きこみますか?」
「はっきり言って、我々(時茂、時忠)は物凄く嫌われていますので何をしても北条方につくでしょう」
もう遅い、とバッサリ言う時忠にみな苦笑する。
この時、安房正木氏は内房正木氏と外房の大多喜正木氏、勝浦正木氏の3つに分かれていた。
外房のは正木時茂、時忠の2人が城主になった際に外房正木氏から分かれて興したもので、内房正木氏は正木氏直系と言われている。
そして内房正木氏から見れば、外房(分家)の連中だけが里見家重臣として戦や交易で多大な功績を上げていた。
要するに、外房(分家)ごときが活躍するのが気に喰わないのだ。
「内房の連中は能力が微妙ですし、重臣になれないのも昔、戦で大失敗を犯して殿の怒りを買った所為なのですがね」
「ま、それを使って罠に嵌めても良いし、3年後の戦には駆り出すから、父上に言ってこき使うようにするか」
そんな腹黒発言も交えた会話は進み、議論も出尽くした。
義舜は今回の〝会合〟の終了を宣言し、その後、五郎たちは義堯の元へ向かい、〝会合〟の結果を報告することとなった。
五郎も責任者として館山湾、和田浦の捕鯨基地開発、捕鯨船団の編成、弁才船・大型捕鯨船の建造を訴えた。
安房国の金を持っているのは義堯であり、流石に開発する規模が大きいために許可がいるのだ。
当初、義堯も弁才船、軍船となりうる大型捕鯨船の建造には肯定的だったものの、やはり莫大な資金がかかる館山湾の開発には躊躇した。
しかし、義堯も正木氏の勢力下にある勝浦城に交易が集中している現状を如何にかしたかったのもあり、五郎たちの熱意にも押されて、館山湾は段階的に開発する事として資金と許可を出した。
和田浦の捕鯨基地は時忠が資金を出し整備する事、捕鯨船団は安泰が編成する事、そして五郎は造船、館山湾の開発責任者となった。
ただし、「失敗は許さないからな」と至近距離からの重圧と眼光をもってかなり脅されたが……。
ともかく、五郎は館山湾にて、湾港整備、造船に取り掛かることとなった。
作中にもありますが、この時代の鯨の価値はとんでもなく高いです。
塩漬けが基本でしたが、特に新鮮な状態で持って行くと大変喜ばれました。
補足ですが、鯨は硬い骨、ひげ、歯以外は全身食べられます。
今でも時折スーパーで鯨肉やイルカ肉は見かけますが、やっぱり高いです。
江戸時代には行燈の油は鯨油を使用していたそうで、「鯨鍋を食べたら行燈の油臭くなった」なんて言葉もあります。
近代でも日本軍の機関銃は戦闘が終わると熱で滑純油が焼けたため、鯨を焼いたような良い匂いがしたそうです。
誤字、脱字がございましたら、ご報告をお願いいたします。
2014/9/6 文章の一部を修正しました。
2014/9/8 鯨の記述について、文章の一部を修正しました。
2014/9/20 タイトルの変更を行いました。