番外1話 義頼の和船講座
注意。
まず、本編の更新ではありません。番外編です。
簡単ですが、和船の補足説明となります。読まなくても本編にはあまり関係がありません。
興味がある方には、多少でも参考になればと思います。
ある日の出来事。
「そういえば、疑問だったんだけど」
本日の会合も終わり、転生者たちだけで雑談をしている中。
ふと、思い出したかのように安西実元が声をあげた。
「なんで帆船の設計ができるの?」
それは里見義頼に向けてだった。
今更だが、当然の疑問だった。
「ああ、そのことですか。昔、帆船の設計依頼を受けたことが有りましたし、木造船の設計自体、稀にありましたしね」
「え、あるの?」
「離島だと木造貨物船はまだ現役でしたし、海自の掃海艇も米松や欅を使った総木製ですよ。まあ、ひらしま型を最後にFRP(繊維強化プラスチック)船に移行しましたが」
掃海艇、つまり機雷を除去する軍艦だが、磁気機雷が出現するようになってから鉄製ではなく、磁気に反応しない木製が基本となった。
しかし、コストと木造船を建造できる技術者の減少、更に船体を大型化できるFRP船が登場してから軍艦としては建造されなくなっている。
かつて、義頼の中身が勤務していた会社は手広く艦船設計をしていた上、珍しく木造船を建造できる技術者がいたため、それなりに木造船を設計したことが有ったのだ。
「和船は流石に梃子摺りましたけどね。根本的に違うので」
「ふうん、どう違うんだ?」
「構造から建造方法、色々ありますが……」
そこまで言って、黙り込む。ややあって、顔を上げると「良い機会ですから、和船について解説しましょう」とのたまった。
「え”っ」
なんでそうなる。
そんな声を無視して、義頼は話し始めた。
ではまず、和船とはなにか?
日本で使用された船のことです。
いや、そんな目で見ないでくださいって。ゾクゾクするじゃないですか。
……そんなドン引きしないでくださいよ、冗談ですって。
さて、本題です。
和船は歴史は古く、室町時代からと言われています。
と言うのも、これ以前の確度の高い史料が見つかっていないからですね。
丸木舟のような巨木を刳り抜いた、いわゆるカヌーのような船から始まり、室町時代の遣明使船は中国のジャンク船や現在の和船に近い構造だったのでは?と考えられています。
さて、そんな和船ですが、当然幾つかのバリエーションがあります。
まず、艦首の構造ですが、有名なので伊勢型、水推型、二形型があります。
伊勢型は、箱型の先の角ばった艦首。
水推型は、水切りの良い先の尖った艦首。
二形型は、上部を箱型、下部を水推型とする折衷式の艦首。
基本的に、和船の構造は古代から共通しており、西洋式帆船のように竜骨や肋財ではなく、外板が応力を受け持つモノコック構造でした。
いわゆる棚板造りですね。近代まで使用された建造方式となります。これに似た方式はポリネシアなどの航海カヌーなどにも使用されています。
これは船底材に板状の舷側材を下から棚の形で継ぎ足していくモノコック構造であり、船殻に使用する分厚い外板で強度を保つ方式です。
一例として、江戸時代初期の[安宅丸]ですと外板の厚さが1尺(30cm)と言われてます。
日本では板を接ぐ(これを「はぎ」と呼ぶ)のに「かすがい」「縫い釘」「通し釘」と呼ばれる長く軟鉄製の和釘が使用されました。この接合方法は強固で、船体が破損するときは接合部ではなく、他の部分が破損したと言われています。
そして、戦国時代になると戦や交易が活発になり、船が大型化していきます。
軍船ですと、大別して安宅、関船、小早の3つに分けられます。
これは後で解説します。
他に有名なのは織田信長の鉄甲船でしょうか。
諸説ありますが、全長は30~50mほどで、装甲に使う鉄板は3mmだったと言われています。まあ、実物を見てみないと分かりませんが。
この船が使用されたのは第二次木津川口の戦いであり、鉄甲船5隻、滝川一益の大船1隻で毛利・村上水軍を撃破しましたが、この時、大船は明から購入したジャンク船という説があります。
海外との交流が盛んな時代でもあったので、中には西洋式帆船やジャンク船などの技術を取り入れた船も建造されたことでしょう。
その後、徳川幕府が成立し、平和な時代が訪れます。また、海禁策もあって規模の割に金がかかる水軍は縮小していき、西海、伊豆など一部の水軍は捕鯨組として存続していきます。
戦国時代に伝わったであろう技術も、ここで途絶えたのかもしれません。
このころに登場したのが弁才船です。関船が元になったとされる内海航行の傑作帆船です。弁才船は総称で、舷側に垣立(垣根のように立てた囲い)が高く、菱形の模様が付いていたことから菱垣廻船、醤油や酒など、樽物を扱う船は樽廻船なんて呼ばれてもいました。
船体には樫、檜、欅、松、杉が使用されていました。
樫と檜、欅は硬く丈夫で長持ち、杉は油が多く腐食しにくい、松は柔らかくしなやかで、それぞれが合う場所に使われていました。
これ以外にも楠、椈なんかも使いました。
江戸時代初期では帆走と艪走を併用し、1,000石積みですと乗員は20~25名前後。これまでの帆は藁やイグサを編んだムシロや、竹製の帆などが使用されていました。
後に安い国産の木綿布、航海技術が発達しますと陸の見える「地乗り」から「沖乗り」へ移行し、また帆でも十分な速力が得られるようになったため、帆走のみで江戸中期は15名ほど、後期になると12名ほどとなりました。
帆走する際、横風を受けて帆走することを「開き走り」、逆風、つまり風上に向かってジクザクに帆走することを「間切り走り」と言いました。
「浪華丸」という全長29.4m、船幅7.4m、喫水2.4m 帆柱27m、1,000石積みの弁才船の航走実験では、逆風、向かい風に対しては風の来る方向から左右60°まで切り上がり、秒速9mの横風で7.5kt(13.9km/h)を記録しています。
同時期の帆船ですと英国のフランシス・ドレークの乗艦「ゴールデン・ハインド号」は全長36.5m、3本マストのガレオン船で8kt(15km/h)、明治時代の焼玉エンジン付き機帆船が6kt(11km/h)ほどです。
一枚横帆の船としては十分な速力を持っていました。
また、弁才船は地域によって船形は異なります。例えば、上方型は笹の葉の形、北前型はナスビの形となっていました。特に北前型は艦首と艦尾のそりが強くなっているのが特徴です。
これは課税の方法が異なっていたためと、荒天が多い日本海を航行することによる違いですね。
また、船体構造が初期と後期で若干違います。
上の図は、弁才船の船体断面図となります。
棚板同士を繋ぎ合わせ、梁を取り付けます。この梁の上に取り外しが出来る甲板を敷き、貨物を載せていました。
よく言われるのが甲板、竜骨、2本以上のマストを幕府が禁じたという説がありますが、これを裏付ける史料がありません。
2本マストの船は存在しましたし、竜骨の代わりに航がありました。水密甲板は積載量が落ちるので、商人たちは嫌ってつけませんでした。
1本マストの弁才船が主力になったのも、省力化、経済性、速力の点で優れていたためです。
西洋式帆船より優れた点は
・全体重量が軽い。
・喫水が浅い。
・浅瀬や湖、川など活動範囲が広い。
・船内に肋材が無いため、積載量が多い。
・水の抵抗が少ないため、速力が出る。
・舵が大きいため、操船がしやすい。
・コストが安く、建造期間が短い。
となります。
逆に欠点として、
・西洋式帆船と比べて、耐久性が低い。
・外海航行能力が低い。
・艦尾が開いており、水密甲板が無いため高波に弱い。
となります。
外海に出る必要は無いので、また経済性を優先したために安全性は軽視されていました。
ですので、難破する船も多かったんですね。
これらは改善されないまま幕末、そして明治維新を迎えます。
さて、明治時代となり、西洋一辺倒な明治政府は500石以上の和船の建造を禁止します。
これに対し、内海運送を扱う船主たちの大半は抵抗しました。
当然ですね。
和船はそもそも当時の日本の実情に合わせて設計されていました。
湾港整備をしなくとも浅瀬に入ることができ、船底が平らなため、ドックが無くとも修繕が可能。
そもそも内海に限れば西洋式帆船よりも性能が高く、また新しい技術である西洋式帆船を設計・建造できる技術者が殆どいませんでした。
ですので、西洋式帆船は全くと言っていいほどにメリットが無かったんです。
それでも明治政府は近代化(西洋化)を進めようとしたため、船主がとった抵抗策が和洋折衷船です。
ここで言うと、図南丸型や日新丸型のような船になります。
図は江戸期の弁才船。
全長とほぼ同じ長さの帆柱と一枚の横帆、取り外しのできる大型の舵を持つ。
図は和洋折衷船である弁才船。
二本マストで、縦帆に変更されている。また竜骨に当たる航が延長され、船首にバウスプリット、西洋の小型舵を持つ。
他にも、艦尾にスパンカー(補助帆)を追加しただけの船や、強度を上げるために肋材や水密甲板を追加した船もある。
この和洋折衷船は、和船の特徴である経済性の高さ、活動範囲の広さ、建造期間の短さをそのまま残し、西洋式の帆装、肋財を取り入れたこの船は、内海用としては西洋型帆船よりも高性能でした。
更に、当時の法律は海外のを基にしていましたが、当然、和船を規制する法律なんぞ海外には有りません。
ですので、結構いい加減な法律だったので法制面、税制面から見ても和船が有利でした。
結局、余りにも強い抵抗に政府は匙を投げ、和洋折衷船は構造が簡素な焼玉エンジンが全国に普及するまで活躍を続けました。
21世紀ですと、和船は川船や屋形船などに残っていますが、木造船は重く、安定性が高いので近海漁業用として再び注目を集めています。
さて、次は戦国時代の軍船です。まだ続きますよ、ええ。
皆さんは水軍を率いることもあるので知っているでしょうが、おさらいと言うことで。
軍船は大別して安宅、関船、小早の3つになります。
この3つは船の規模、矢倉、艪の数で分けられます。
・安宅
大型で重厚、伊勢型の艦首で全体に矢倉と呼ばれる船体の上に箱型の構造物がある。艪は50挺~150挺。艦隊の指揮官が乗る軍船である。
・関船
中型、艦首は伊勢型か水推型。これも矢倉を持ち、艪は40挺~80挺まで。元は海上の関所を運用するために開発されたと言われ、快速さを持つ艦隊の主戦力である。
・小早
小型で足を隠す程度の楯板を持ち、艪は40挺以下。軽く速いため連絡や偵察など補助的な支援の船に使われた。
軍船は共通して船体中央に折りたたみ式の帆柱に一枚帆の横帆を持ち、平時は帆走、戦闘時は帆柱を倒して艪で航行するようになっています。
これらの軍船の最大の特徴として、矢倉と櫓が挙げられます。
矢倉は船体から張り出すような箱形の構造物であり、楯板と枠組み、そして上から蓋をするように甲板があります。この楯板と甲板は外せるようになっています。
よく構造上、和船は脆弱なため、体当たりできないと言われていますが、それでは接舷して斬り込む、といったことが出来ないことになります。
和船では体当たりした際に船体ではなく、この矢倉が先に当たり、衝撃を吸収するようになっています。中には艦首を鉄で補強し、攻撃を可能とした軍船もありました。
接舷時には楯板が外され、渡し板として用いられます。
矢倉の中には水兵と櫓の漕ぎ手がおり、接舷時には戦闘に参加します。また火縄銃が海戦に取り入れられると、狭間と呼ばれる穴から銃を出し、矢倉内から攻撃をしました。
矢倉上の甲板では指揮官と弓兵がおり、指揮官は帆柱の後方に甲板を一部下げ、腰から上が矢倉上に露出する位置に立っています。この位置だと戦況を把握し、船内を観察、指示が可能な場所でした。
櫓は現代で見るカヌーに使われるような櫂とは違い、漕ぎ手が少なくて済み、戦闘員が多く乗せられます。また立ったまま漕ぐので直ぐに戦闘に参加でき、熟練の漕ぎ手ならば片手で櫓を操り、片手で長柄や焙烙で攻撃が出来ました。
さて、これら軍船は船の規模の割に、乗員数が多いです。スーパーの特売に群がる方々のように、すし詰めと言っていいです。
そのため立ちっぱなしで居住性は劣悪。喫水の浅さと上部に矢倉と多くの人を乗せているため、重心が高い。
沿岸部で使用するのが前提とはいえ、ちょっとした高波でも動きにくくなるのが難点です。
とまあ、大雑把に言えば和船はこんな感じですかね。
これらを聞いて、私は少しでも役立つことを願います。
やっつけですが、図を載せてみました。
現在、他のイラストを追加予定です。もう少し待ってください。




