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第14話 戦後処理

ようやく投稿です。楽しんでもらえれば幸いです。

 真里谷・北条水軍をどうにか破った里見水軍は、損傷艦と負傷者を金谷城、館山城に戻し、里見義堯らと合流。


 椎津城攻略戦に参加した。


 この椎津城は周辺に豊かな穀倉地帯を持ち、江戸湾の海上交通、陸は房総一帯に通じる交通の要所であり、これら物流を警護するための要害であった。

 そのため、以前からこの地を抑えれば江戸湾、上総国西部を抑える事が出来たため、度々里見と北条が衝突する緊張地帯でもあった。


 この時、農繁期に入ってしまったために里見軍は庁南城(ちょうなんじょう)の攻略を止め、兵力を集中。

 陸海から迫りくる里見軍に対し、椎津城主、真里谷信政(まりやつのぶまさ)は北条からの更なる救援は期待できず、籠城は無意味として城から出て、山を盾に里見軍を迎え撃った。


 軍勢は、

 里見軍8,000+水軍  (里見義堯、義舜、義頼、正木時茂、土岐為頼、)

 真里谷・北条軍6,000 (真里谷信政ら真里谷一族、間宮景頼)

 となった。


 真里谷・北条軍は一縷の望みをかけて里見軍本陣に目掛けて突撃をするも、義頼ら里見水軍の艦砲射撃と安西実元の砲兵部隊による砲撃を浴びせられ、更に横列を組んだ銃兵と擲弾兵(てきだんへい)による攻撃を受け、潰走。

 この戦いで信政は敵本陣へ突撃しようとし、討ち死。参加した真里谷一族、家臣の大半が信政と共に戦死し、間宮景頼ら北条軍は武蔵国へ退却した。


 戦が終わり、生き残った真里谷城主を含む真里谷一族は里見方へ帰属。里見家は上総国の大半を占領した。

 残りの上総国北部、庁南城の庁南吉信は北条方へつき、北条の支配下となった。


 義堯は椎津城の守将に木曾左馬介を置き、里見軍は安房国へ凱旋した。


    *

 

 天文20(1551)年10月 安房国 久留里城


 今回の戦、真里谷、北条を打ち破り、上総国の大半を領有することになった里見家。

 城内や城下町では、稀に見る圧勝で終わり、無事に多くの兵たちが帰ってきたことと、恩賞と乱取り――里見家では領地を治めるのが難しくなるために、特に人身売買を含めて禁止していたが、完全には取り締まれていなかった――で得た金を持ってきたことに喜んでいた。


 しかし、喜んでいない者もいた。


「まさか、此処まで金がかかるとは……」


 〝会合〟で使う一室で、義堯は酷く疲れた声を上げた。

 見れば参加する全員が、特に義頼は目の下にべっとりと隈を作って疲れ切っていた。


 理由は、戦費である。


 今回の戦で、

 陸は正面戦力に兵8,000、小荷駄に兵500を充て、200頭の馬を動員。

 山砲8門に小銃300挺、大量の手榴弾。

 砲弾は1門当たり40発、計320発。小銃の実包は1人当たり30発、計9,000発。

 兵と馬を養うための豊富な糧秣(りょうまつ)(兵と馬の食料のこと)。

 ここに消毒用の焼酎、さらし、ほか治療薬の類。


 水軍は第一艦隊が艦12隻324名、第二艦隊が艦33隻933名を動員。

 野砲を転用した艦砲8門に小銃132挺、そして手榴弾。

 砲弾は120発、実包は2,600発を使用。そして食料と医薬品。


 そして、用意した糧秣は全て兵馬の胃袋に消え、弾薬は全て撃ち切っていた。これに加え、参加した兵全員――この時代は戦後に兵の数が増えることがあった――に恩賞を出したのだ。

 陸は損害が軽微だったため、米や鹿肉などの現物支給が殆どだったが、多くの恩賞を出さなければならなかった。

 

 これらかかった費用を算出し、また占領した領地を誰に任せるかで揉め、またこの後に控える論功行賞で頭を悩ませていたのだ。

 

「見通しが甘かったですね……。我々も此処までかかるとは思いませんでした」


 ある程度、そう言ったことに詳しい義舜や実元、安泰たちが考えられる量より多めに用意していたが、それでも1,2会戦で使い切ってしまった。

 今回の戦で、里見軍は従来では考えられない程に快進撃を続けていたが、途中で弾薬の補給を受けるために足止めを受けたため、想定より遅くなったのだ。

 真里谷や北条が聞いたら顔を赤くしてふざけるな、ということ間違いなしである。


「ふん、これならばもっと兵の損害を出しても良かったと思ってしまうぞ」

「殿、それはそれで面倒ですから、勘弁してください……」


 時茂が窘めるような口調で言う。


「分かっている。冗談だ」


 義堯はそう答えたが、半ば本気で思っていた。


(もう少し、こちらの損害が大きければ恩賞は減ったのだ。それと砲撃を減らすべきだったな。山砲は軽量化のため強度がやや落ちるため、実元の行った試験によれば砲身寿命は100発程度で、砲弾の製造費はまだ高い。技術が発展すればもっと安くなるらしいが、そこまで――)


 ここまで考えて、義堯は苦笑する。

 一大名が圧勝した戦の内容に不満を持ち、勝ちすぎて味方が減ったほうが良いと思うのが、普通ならばおかしい考えであったからだ。

 その考えを仕舞い込み、話を切り出した。

 

「だが、この戦で問題も粗方出たか」

「ええ、兵に、運用方法に、使用する砲弾や実包の数。運用方法は戦訓を基に、弾薬は、現在の倍を用意すれば良いでしょうが、兵に関しては――」


 砲兵部隊を率いた実元はそこまで言って黙った。言いづらい内容だった。

 代わりに、時忠が平坦な声で続けた。

 

「兵が集まらないのも、この国が豊かになったせいでしょう」


 ここ数年で、安房国は豊かになった。それは喜ばしいことだが、問題もあった。

 兵が集まらなくなっているのだ。

 元々、戦とは武将から見れば己の野心のためにするものだが、農民からすれば「口減らし」と「小遣い稼ぎ」である。

 戦は基本的に春や秋の農繁期では行わない。そのため、食料の少ない冬に動くことが多かった。

 招集された兵が死ねば「口減らし」で、生き残れば「恩賞」で暫くは家族を養えた。また、兵として従事している間は飯が食えるため、良く集まるものだった。


 しかし、安房国は近年では大規模な戦は無く、前線で小競り合い程度である。また、農業改革や画期的な漁法の開発、交易の拡大で普通に働いていれば食うに困らない環境であった。わざわざ危険な戦場に行く必要が無くなっているのだ。

 

「平和ボケしている感じですね。自分の住む場所まで戦場となれば、民衆も目を覚ますと思いますが……」

「そうなる時にはかなり押し込まれているな。我々の人材と技術が全て奪われる」


 人材と技術の流出。戦を優位に進めるには、それだけは避けなければならない。


「となると、常備軍、ですか?」

「それしかあるまい。どのみち銃兵や砲兵は訓練が必要だ。いざと言う時に動ける軍は欲しい」

「金、またかかりますね……」


 義頼の言葉に、全員が沈痛な面持ちになった。


 常備軍は即応性があり、兵は常に一定以上の練度、結束力を保持することができたが、凄まじく金がかかる。

 史実でも、織田信長が常備軍を維持できたのも、貿易で莫大な利益を上げていた堺を押さえていたためであった。実際に、この時期に欧州の覇権国的地位にあったスペイン王国でも常備軍を持っていたが、植民地からもたらせられる富でも耐えきれず、何度か国家の破産宣言をしている。


「……まあ、現状の国力なら常備軍を編成してもある程度は耐えられるでしょうが、どのような形にするので?」


 時忠が義舜に問いかける。


「現行の(そなえ)を改良する」義舜が続けて答えた。

「まず、水軍と区別するために「陸軍」と呼称し、徴兵制を始める。兵の登録番号も作る。訓練場を設け、銃兵と砲兵、そして武士階級が優先されるが、前線での指揮官を増やす。備は前から順に[銃兵―槍兵―騎兵―士大将(指揮官)―砲兵―小荷駄]と編成し、銃兵はミニエー銃と銃剣を、槍は管槍(くだやり)を、騎兵は胸甲と太刀、砲兵は山砲を装備させる」


 備とは、戦国時代から編成される単体での戦闘行動が可能な部隊である。

 特徴として西洋の密集陣形よりも地形を選ばず、各兵が1列、もしくは2列横隊を組み、備単体で機動や迂回、配置転換など高い機動力を持っていたが、正面への攻撃力が劣っていた。

 

 義舜は主力となる銃兵を多く配備し、射程の長く、火力の高い砲兵と、防御用の槍兵、突撃用の騎兵を入れて運用しようと考えた。

 銃兵と砲兵は近代戦場の主役であり、先の戦でも大いに活躍していた。

 槍兵の使う管槍は2間半(4.5m)で、柄に拳一握りほどの長さの(つば)付きの管を通したものである。管は革製で、左手で管を握り、右手で槍を前方に繰り出すと、この管の中を重い槍が滑り飛ぶように繰り出される仕組みになっており、貫通力を高めている。

 騎兵は(かぶと)と胸と背中を覆う胸甲以外の防具を無くし、胸甲の防御力を上げた胸甲騎兵である。銃兵と砲兵によって崩れた敵陣に短めの槍か、太刀を持って突撃させるのだ。


「他にも工兵や狙撃兵も育成するが、優先的に欲しいのは正面戦力だな」

「ははあ、サーベル突撃の代わりにカタナ突撃ですか」

「しかし、陸軍式の戦術は使わないのですか?」

 

 疑問に思った実元が声を上げる。

 確かにこの時代では横列を組んだ銃兵による一斉射撃は有効だろうが、陸軍式の方が有用では、と実元は思ったのだ。


「塹壕戦や潜伏戦などは部分的には取り入れるが、完全には無理だ。それを行うだけの武器も、時間も金も無い。教育を含めて一から全て変えなければならない」

「あ、確かに……」


 近代の戦術、戦列を組まない散兵を育成するには、高い士気と高度な教育がいる。

 この時代の大部分の民衆は愛国心――郷土愛でもいい――が希薄だ。嫌になったら土地を離れて移動してしまう。また、この戦乱の時代では識字率も低い。

 いくら転生者たちでチートを繰り返している安房国でも、他国よりはマシだが、例外では無かった。


「ですが、やるにしても、馬の品種改良と生産を大々的に行わなければ揃わないですね」

「ああ。だから父上と時忠と共に馬の牧場を作る」

 

 上総国を押さえたため、これからは戦場が山岳から平野に移る。また北条は意外に思うかもしれないが、騎兵を戦国大名の中でも最も多く所有していた。

 機動力を上げ、対抗するためには良質で大量の軍馬が必要になると前々から考えられていた。

 

「既に峯岡牧(みねおかまき)を復興し、南部馬と資金は確保している。だが良い餌が無い」

 

 義堯は途絶えていた馬の育成牧場を再興しており、軍馬の育成にも力を入れていた。

 現代の嶺岡(みねおか)山地一帯が牧場であり、そして南部馬は南部(青森県)で生産された馬であり、古くから大型馬を産することで有名で、背丈は5尺(150cm)以上の馬も数多く作られていた。また日本在来馬は、比較的温和で強健、粗食でも育成でき、また力が強く、骨や蹄が堅いため骨折も滅多に起こさず、蹄鉄もあまり要らないという特徴を持っていた。

 義舜らは東北の大名、南部氏と交渉し、冬国には嬉しい食料や度の高い酒、木綿布、そして鯨肉を渡し、代わりに繁殖用の南部馬を手に入れたのだ。

 粗食でも育成は可能とはいえ、質の高い軍馬を生産するには良質の餌が必要である。


「馬と言えば牧草ですが、確か今の日本に無かったはずでは?」

「ええ、明治時代に欧州から導入しています。シロツメクサやアルファルファ、チモシー、カモガヤなんかはそうですね」

「なんです、その植物名は?」

「シロツメクサはクローバーの方が分りやすいですかね。大抵は道端にも生えている雑草です」


 ああ、あれか、とかつて見ていた光景を思い出し、納得する転生者たち。

 「まあ、それはともかく」と時忠が言い、襟を正す。

 

「一先ず、堺の商人に頼んで南蛮商人に交渉します。序に欲しいものが有れば後で知らせてください」


 その後も、陸軍で優先的に行うべきことを話し合い、そして水軍の話へと移った。


「水軍は、壊滅か」

「申し訳ありません」


 義頼は深く身を屈め、平伏する。第二艦隊が壊滅した理由は、油断し、敵水軍を甘く見ていたことだ。総大将の義頼に責任は有るのだ。

 もし、第二艦隊が居なくても、当初の戦術通りに接近していたのが自分らだったらぞっとしない。


 義堯はその姿に内心溜息をつき、義頼に頭を上げるよう言うが、一向に頭を上げようとしない。


「……既に詳しい報告は聞いている。あの状況では誰がやっても損害は受けただろう。話が進まん、早く頭を上げろ」

「はっ……」


 僅かに怒気を滲ませると、義頼はようやく頭を上げた。その表情は陰りがあったが、合流した頃に比べれば、幾分かマシになったように思えた。

 暫くは他の家臣にも義頼の補佐をさせるか、と義堯は考え、そして話が再開される。

 

「さて、北条だが、陸もそうだったが水軍の動きが早いな」


 陸は以前から守将を置いており、不思議では無かった。だが、北条水軍は開戦前と後も拠点から動いたなど知らせが無かった。そのため、水軍は少ないと判断したのだ。


「それなのですが、北条水軍の生き残りに尋問したところ、元は三浦水軍の者で、江戸湾で新しい船で編成した水軍に入るよう、言われたそうです」

「水夫は他所から引っ張ってきて、軍船は新しく建造したのか。何とまあ、よくやるものだ」

 

 安泰の言葉に、義舜は呆れた口調で答えた。


 北条水軍は、清水康英を筆頭とし、笠原氏、山本氏ら伊豆衆からなる伊豆水軍と、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍、後に熊野から招かれた梶原景宗(かじわらかげむね)を船大将とする「傭兵」水軍からなっていた。

 確かに、育成に時間のかかる水夫さえいれば、船があれば早く戦力化も出来るが、遠くに水夫を連れていくには一時金や何やらで色々と金がかかり、また水軍自体に人的な余裕が無ければ出来ない。新しく水軍を編成したほうが時間はかかるが結果的に問題も無く、安くすむため、北条の考えは凄まじく贅沢に思えた。


「それと真里谷・北条水軍が行った火攻めですが、使われたのは鯨油、安房国で生産されたものです」

「一応聞くが、間違いないのか?」

「はい。あれだけ大量の鯨油を用意できるのは我々だけですし、それに、油樽に安房国で生産されたことを示す焼印が有りました」


 捕鯨が始まり、鯨肉や鯨油が安定的に生産されるようになってからは輸出も行っていたが、転売となると何処に売られたかまでは把握していなかった。

 反発するのが目に見えているため、商人に売買を規制するわけにもいかない。対処するには近隣国に忍びを多く配置し、物流を監視するしか手が無かった。


「それよりも内房だ。海域を守る軍船が消えたのが問題だ」


 この言葉に全員が顔を顰めた。

 金谷城主の正木時治(まさきときはる)は今回の戦で、多くの軍船と人員を失った。

 再び元通りに水軍を整備するのに莫大な資金と、10年単位の時間がかかることだろう。

 早急に艦隊を再編成するため、どこからか人と船を持ってこなければならない。

 

 里見水軍の規模が大きい順に並べると勝浦正木氏、内房正木氏、安西氏、岡本氏となる。勝浦は時忠の水軍だが、大半は北条から強奪した軍船と交易用の商船で編成されており、東北との貿易の要である。

 岡本氏は安泰の梃入れで拡大しつつあるが、他に回すほど余裕はない。


「……館山の安西を金谷城、峰上城へ回す」

「納得しますか?」


 安西氏は、古くから安房国にいる豪族であり、安房国西部を治めていたことから安西と名乗るようになった。水軍の総数は内房正木氏より劣るものの十分な戦力を持ち、現在は勝山(現在の鋸南(きょなん)町)と館山湾周辺に領地を持っており、特に館山は安房国でも石高が高い地域で、関東でも随一の貿易港である。

 対北条の最前線である金谷城に移すには精強な安西氏は適任だろうが、果たして納得するだろうか。


「納得させる。一部の領地は残させ、金銭と上総国の天羽郡(あまはぐん)天羽荘も出す」

 

 義堯は続けて言った。

 天羽郡は富津岬から浦賀水道に面しており、現在の富津市の大部分にあたる区域である。

 そのうち、北の佐貫郷は義舜が領有しているので、南の天羽荘を安西氏は領有することになる。

 

「大盤振る舞いですね」

「今回の戦でも活躍している。功績は十分だ。それに天羽荘は正木時治と吉原玄蕃助ら内房正木氏の領地だ。戦での失態と北条への内通容疑で領地を取り上げる」

 

 史実では、来年の天文21(1552)年に正木時治らが北条綱成(ほうじょうつなしげ)の誘いに乗り、反乱を起こしていた。またその年の暮れには北条氏康が襲来し、小櫃を占領。天文22(1553)年4月には北条綱成が|水軍を率いて保田妙本寺ほたみょうほんじ(鋸南町吉浜)に侵攻し、更に6月26日にも北条氏康が侵攻し、7月には金谷城が攻撃を受け、数年に及ぶ争乱となった。特に、吉原玄蕃助ら二十二人衆は在地勢力で地理に詳しく、各地で攪乱や戦闘を行っていた。

 

「奴らには残りの領地で反乱を起こさせる。反抗的な連中を一掃できるからな。まあ、起きたらとっとと捕まえて、あとはやって来るだろう水軍を迎撃すればいい」

「内房正木氏も、全員が正木時治に従っているわけでは有りませんしね。色々とチラつかせれば此方に付く一族も出るでしょう」

 

 精々役立ってもらおう、と黒い顔で互いに嗤い合う義堯と時忠。

 その笑みがとても良く似合っていた。

 

「し、しかし、そうなると安西氏には移転してもらうため加増、内房正木氏は排除ですか。文句を言ってきそうですね。自分らは悪くないと」


 ドン引きしながらも話を変えるべく、実元は強引に進める。

 それを聞いた義堯は憮然とした表情を浮かべた。


「ふん、既に言ってきている。今回の海戦でこれほどの損害を出したのは義頼の所為だとな」

 

 全員が嫌そうな顔を浮かべた。

 既に義頼や安泰から事情は聞いており、また従事した水夫たちからも作戦を無視して壊滅したのが分かっているからだ。

 

「ですが、余り無視はできません。古くからいる勢力だけあって声は大きいですし、身内だけを優遇していると思われかねません」

「分かっている。義頼は論功行賞の場で真里谷・北条水軍を撃破したために館山城主となるが、水軍を壊滅させたため叱責のうえ当面は謹慎、だな」

 

 つまり、茶番である。

 義頼は前々から館山城主になることは決まっており、これは誰もが知っている。

 そのため、実際には義頼に恩賞は無く、その後、壊滅させた責任を取るのだ。そうなると総大将の命令違反をした第二艦隊、そして金谷城の正木時治にも責任が発生する。


「実にくだらない事だが、付き合ってもらうぞ。それと此処にいる全員は金銭支給の方が良いだろう。新しく手に入れた土地は他に功績を挙げた奴らに渡す」

「それが一番でしょう。なまじ土地を頂いても、他の仕事が忙しいので管理できません」

 

 その言葉に大きく頷く。

 正直、土地はまだいらないのだ。上総国は穀倉地帯が多く農業が盛んだが、この当時の農業は運任せな所があり、生産量が安定しない。税を安定して取り立てるには農業改革や行政の出来る代官がいるが、それが出来る者たちは他の領地を任せていた。上総国に回すだけの人手が足りず、また近く起きるだろう戦の準備もしなければならないため、負担になりかねない。

 そのため、転生者たちには管理が楽な金銭の方が有難かった。関東では室町期に輸入されていた「永楽銭」が使用されており、精銭(良質の貨幣)の2倍の価値とされていた。東海の尾張より東国でしか通用しないが、価値は高く、佐竹氏との貿易にも使える。名刀や茶道具などの名物は貰ってもあまり興味は無く、良く分からない。


 その後も話し合いを続け、今後の戦略について話し合われた。


 後日、久留里城にて今回の戦の論功行賞が行われ、上総国は功績のあった者に振り分け、残りは直轄領に。義舜らは金銭で恩賞を受け取った。

 

 その後、義頼は艦隊を壊滅させたため館山城にて1ヶ月の謹慎。内房正木氏は連座で責任を取らされ、減封(げんぽう)。領地の取り上げられ、勢力を大きく減らした。空いた領地には安西氏が移転し、館山湾周辺は岡本氏が入ることとなった。

誤字・脱字が有りましたらご報告をお願いします。


2014/10/14 ご指摘を受け、文章の一部を修正しました。


用語説明


南部馬

幻とも呼ばれる日本在来種。昭和初期に絶滅。

日本在来種は一説には戦国時代は戦のため、大型の馬として生産されていたが、江戸時代に入ると農耕に使いやすい小型の馬が好まれ、馬体が小さくなったと言われる。


牧草

ユーラシア大陸原産。日本には明治時代に導入された。

以前からもガラスなどの緩衝材として使われていたので、戦国時代でも入手は可能だったのでは?と考えています。


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