試合
まだ青桜第一のユニホームが揃っていないから皆、無地のユニホームに身を包んでいる。そんな部員たちをよそに一人ベンチに座っているユニホーム姿の中年男性がいた。良く見慣れた顔だ。髭を生やして、ボサボサの髪の毛、いつもと違うのはユニホーム姿といったところか
「監督、おはようございます!」
2年生の声に1年生みんなが凍りつく
「まさか、数学の鈴木先生が監督なのか…」
健太の声に原田が頷く。鈴木先生は知ってのとおり、やる気のない数学教師である。めんどくさがり、自習を多く行う。本人いわく生徒の自主性を育てるためらしいけど、みんな数学プリントそっちのけで寝たり、喋ったりしている
「よう、お前ら…授業中寝てるやつらばっかりだな」
凍りつく1年生たち。現に小川を除いた1年生はほぼ全員が寝ている授業、それが数学である。勉強のできる小川が寝ない、どの授業も真面目に受けているらしい。この前の中学卒業レベルの学年英語テストでは学年で5人しかいなかった、100点満点中100点という記録を残している。ちなみにまこっちゃんも勉強ができるため98点だったらしい…健太は76点、村澤91点、翼74点、コアラが21点であった。コアラがどうやってこの高校に入ったのかが気になるが、聞かないでおこうと思う
「数学と違って野球は適当にはやらんからな。まあ今日は見てるだけでいいや…」
何故数学の教師になったのかと全員が問いたくなるほどの言葉を投げたあと、手で部員たちを追い払いグランド整備をさせる
「宮崎マネ、今日は日ノ方だっけか…」
「はい、去年3回戦まで進み、浅山商業に5回コールドで敗退ですね」
「やけに詳しいじゃねえか。ベスト16くらいいける実力あったんだがな、浅山商業はベスト8常連だしな。ってかあそこは筋肉マンばっかでやべえ、特に4番の『蓮沼 元気』、あいつは特にやばい、去年の秋から1年生にして【埼玉の四番】と呼ばれてる。今年の日ノ方はパッとしないね…まあうちも村澤だけだけどな~」
「村澤君はすごいですよね。中学通算打率6割。得点圏打率は7割5分と飛びぬけてますからね…1番に足の速い翼君、2番に器用なまこっちゃん、3番に打撃の主軸村澤君、4番に長打力のある原田先輩、5番に打率の高めなミヤジュン先輩、6番に直球に強いやさ男先輩、7番にピッチャー健太君、8番にライトの小川君、9番に毒舌橘先輩。これで行こうと思います。後半チャンスがあればコアラ君を使おうかと」
「まあいいんじゃねえの…てか特徴はとらえていると思うけど…まあいいか」
監督の鈴木は何かを言おうとしてやめる
試合開始が近づくと日曜日だというのに多くの生徒が試合を見に来ている。体育館のところには洋平率いる女子軍団、真奈美や未来もいるようだ、他の部活動諸君、校長と教師数名、近所のおっさん、そして一番の人数を誇るのが村澤ファンクラブである
「あのキャーキャー言うのどうにかしろよ…」
小川がファンクラブを見て村澤に悪態をつく、いつも通りだけど何かにつけて小川は村澤に強く当たる。当の村澤は聞いているのか、いないのか、どこ吹く風である
「確かに、あの数は素直に嫉妬しますね」
ファンクラブの多さに絶句する翼だが、実は小さくてかわいらしいという評判があり、他のクラスの女子がわざわざのぞきに来たりしていたりする。本人は鈍感なのか全然気づいていないが
試合はこちらの先攻で始まる。監督はバックネットからみたいと言ってマネにベンチを預けると行ってしまった。まあ練習から指示など微塵も出していないのだから特にいなくても変わらない。そんな中キャプテンがチームを引っ張る
「とりあえず1点取るぞ。1点取れれば落ち着くし、久保も楽に投げられる。いいな!」
「「「はいっ!」」」
元気のよい声がこだまし、1番ファーストの翼がバッターボックスへと向かう
翼の持ち味はもっぱら足の速さにある。打力に関していえば普通以下、その小さな体に相まって筋力も低いようで打球が外野の頭を越えたところを見た者はない。しかし、脚の早さに関していえば超高校級、最近体育で行われている50m走では5.87秒という青桜第一高校の新記録をたたき出している。密かに野球部から引き抜けないかと陸上部が企んでいるという噂まで耳にしたくらいだ
1球目が投げ込まれ、ほぼど真ん中の直球。それほど速い球ではないが中学生上がりの翼にとっては速いと感じてしまう。なにせ投げているのは3年生の日ノ方のエース、紹介するほどの実績はないが1年生と3年生では実力も気持ちも何もかもが違う
3球目に変化球を使われると簡単に三振してしまう
次にバッターボックスへと向かったのはまこっちゃん。器用でバント、左右への打ち分け、ボールの見極め、何においてもそつなくこなすが打力に期待はそこまで持てない。1番の翼が塁に出てこそ力を発揮するだろう
粘った8球目をひっかけてピッチャーゴロに終わるが、適当手が持つ、【直球】【カーブ】【フォーク】という全ての球種を投げさせ、それを村澤に見せたのは大きい
村澤がバッターボックスに向かうと奇声、悲鳴、歓声何にでも聞こえる声が女子一同からあがる。村澤自身は何も気にしていないのだろう。相変わらずのポーカーフェイスである
ざわついていたグランドが静まり返る…
それだけで村澤の打者としての技量がどれほどの物かわかる。ただ立っているだけだというのに投手は飲み込まれ村澤から目を離せなくなる。キャッチャーのミットが豆粒ほどに見え、四角かったストライクゾーンは消滅する。どこに投げようが打たれるという思考に頭を占領される
村澤への初球は高く外れてボール球となる
それをわかっていたかのように村澤は球の行方すら目で追わない、ただただ静かに投手を睨みつける
「何笑ってんだ、クボケン…もしかして可愛い女の子でも発見したか?!でかした!」
試合中だというのに緊張感のないミヤジュン先輩は女子の集団の方を見て品定めする
「違いますよ…なんかあいつが打者でいると投手が可愛そうだなって思ったんです」
「確かに…」と口をはさむのは翼であった
「村澤君がボックスに入ると打ってくれる、きっと何とかしてくれるって思いますけど…ほんとに敵じゃなくてよかった」
翼は一塁手特有の細長いグローブをパンパンと2回叩きながらいう
その次の瞬間、グランドに気持ちのいい快音が響き渡り、女子たちの歓声がきこえてくる。見れば打球はライト方向に設置された100mラインのネットを越えて外で練習していたバレーボール部の部活を邪魔しにいってしまった
ソロホームラン
練習試合初打点はやはり村澤についたのであった
そこから敵の投手、守備陣は調子が崩れたかの如く失投、エラーを繰り返し健太が凡退するまでに2点を青桜に与えてしまう
スコアに刻まれるのは3の数字であった
「点差は考えるな、今日はお前がどの程度投げれるのか通用するのかを知りたい。常に無失点に抑えるつもりで投げろ。言っておくが…この試合次第ではランニングの量が増えるかもしれん」
原田はとてつもなく不安になるような言葉を残してキャッチャーの位置へと戻ってしまった。朝の15km、放課後の10km、休日の42.195km…これ以上走らせてマラソン選手にでもするのだろうか
少しの不安はあるけれど、それよりなにより、健太はマウンドの空間を楽しんでいるようだった。目を瞑り、ロージンを指先につけて、帽子のツバでロージンの量を調節する。帽子の右側のツバだけ白くなり、ロージンが付く
「静かだ…」
思わず口に出る。実際は周りには村澤ファンクラブに他の学生、近所のおっちゃんなど外野が多数おりざわついているのだがそんなの気にならないくらいにマウンドは静かであると健太は感じていた
静かなマウンドで聞こえてくるのはいつだって同じ、自分の心臓の鼓動
生きている、それを感じさせてくれる場所だ
きっと普通の人が聞いたら頭がおかしいのではないかと言われるだろうが、それはこのマウンドに投手として立った者にしかわからない心地よさである
鼓動はボールにまで伝わる
「ボールが喋った」と小学生の時に言ったことがある。しかし、それを聞いた母親は真顔で「そんなことない」と言い本気で父親に相談したらしい
それを聞いた父親は健太に珍しく優しい声で言ったのだ
「ボールは単体では動かない。お前自身が投手として鼓動を命を吹き込むのだ」
元々父親は名門校のエースを務め、甲子園こそいけなかったが活躍していたらしい。同じ投手として通ずる物があったのだろう
健太はそれ以来試合で使われるボールを「相棒」と呼んでいる
これにはさすがに母親も焦って一度精神科に連れて行かれた
振りかぶる動作に入る前に相棒に声をかける
「今日も頼むぜ、相棒」
振りかぶった健太は笑っていたらしい、後から聞いた話なのだが原田先輩は頭が狂ったのかと思ったらしい
14時から始めた試合が終わる頃には16時半を回っていた
試合が進むに連れて乱打戦になり、点数が重んだ。最終スコアは【青桜】9-8【日ノ方】で、最後はやはり村澤の逆転2ランで終わった
この試合結果によって健太の練習メニューは過激の一途を辿ることになる。5回を過ぎた頃から球速、変化球のキレ、全てにおいて衰え始め最後の回など全部がスローカーブ並みの速度になってしまっていた。走り込みをいくらしても試合での緊張感、疲労感を味わうことはできない。これだけは3年、2年、1年と蓄積されていくものだから時間が物を言う。まあ村澤のようなやつもいるが…
試合が終わると、ちさが駆け寄ってきて「お疲れっ!」と汗と土で汚れた汚いユニホームに飛びついてきて抱きしめられた。まさにオアシス、健太の心の中は癒されたのだった
「透兄、久しぶり!」という一声で、試合後女子に囲まれた村澤を助けて会話をしていた。村澤もちさだけは特別らしく他の女子とは一切喋らないのに良く喋っていた。それを見る女子どもの嫉妬の目はちさへと向けられていたけれど、ちさはニヤリと笑い悪い笑顔を女子どもに見せていた
18時には練習を切り上げて自主練へと移行した。そこでは風香による試合評価と課題についてなど細かい指示を受け、全員で話し合うミーティングを行った
自主練はだいたい9時までとされている為、みんなそのくらいで切り上げていく。まこっちゃんと小川だけは8時ごろになると2人揃って帰ってしまう。家も近いので急いで帰る必要もないと思うのだが急ぎ気味にいつも帰っていく
自主練で足腰を鍛える地味できついメニューを渡された健太はこれから地獄のような筋肉痛との戦いの日々となるだろう