二章 離れ離れの姉妹
喫茶店は商店街の端。数十メートル手前からパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。これは期待が持てそうだ。
カランカラン。「おはようございます。今日はお友達と一緒ですか?」
目の前に設えられたキッチンに立つ、四十前後の感じのいい女主人。フライパンでジュージューハムエッグを焼きながら挨拶する。空いた皿を持つ左手で、一人しか座っていないカウンター席を勧めた。
「はい。あ!ヤシェさん!?」
「ん?―――おや、坊や達にウィルベルク様、お嬢ちゃんまでお揃いで」クックックッ。「何か消毒薬臭いよ。まるでさっきまで大怪我で病院にいたみたいじゃないか」
「!?」
「なーんてねぇ。新聞記者の情報網で事前に知っていただけさ。そう臭わないから安心しな」
「からかうなよ。隣、いいか?」
「どうぞどうぞ」
鞄が置かれていたので一席開け、俺、誠、オリオール、リーズの順番に座る。
「ここのモーニングセットは美味いよ。特にトーストは絶品だ」
「お姉さん、パンケーキある?」
年配者に配慮しつつ少年が尋ねると、マスターはニッコリ笑って頷いた。
「勿論ありますよ。卵はスクランブルエッグか目玉焼き、ドリンクはコーヒーか紅茶から選んで下さいね」
一人きりの店主に手間を掛けさせるのもあれなので、少年の主食以外は全員同じにしてもらった。程無く四人分の紅茶と菜の花のサラダがテーブルに置かれる。
「ふぅ……」
三日振りに口にした飲み物が五臓六腑に染み渡る。サラダもほんのり苦味とシャキシャキ感が美味い。
「新聞記者のお姉さんは今から仕事?」
カップにたっぷりミルクと砂糖をぶち込みながらの質問に、記者は首を横に振った。
「いや、今日は休みさ。図書館で調べ物した後に龍商会へ行くから、ちょいと早目のブレックファーストって訳」
「龍商会で買い物?取材関係ですか?」
「流石にそこまで仕事熱心じゃないよ。家族に誕生日プレゼントを用意しようと思ってねぇ」
「ああ、成程」
「何を買うつもりなんですか?」
彼女は何時に無く真剣な表情で顎に手をやり、誠の頭を眺めてしばらく後、ポツリと呟く。
「簪……にしようかねぇ。今坊やの髪を見て思い付いた。やー、ありがとう。正直家を出て来たものの、全然候補が思い浮かばなくてねぇ」
「?あ、ああ。お役に立てたなら良かったです。あの、もしかして御家族って女性の方ですか?」
小首を傾げながら訊く。
「察しがいいねぇ。そう、妹だよ。坊やみたいによっぽど可愛い子なら、弟でも贈れるんだろうけど。ねぇウィルベルク様?」何故俺に振る!?
「そ、そうだな……欲しいなら今度買ってやるよ」
「おやまあ。殿下と違ってまだまだだねぇ」
やれやれと首を横にされた。藪から棒に何なんだこいつは?つか、何故お前は激しく頷いているんだ糞餓鬼?手前は脱水寸前のフラミンゴか。
「ヤシェさんの妹さんって、一体どんな子なんですか?」
リーズがカップから唇を離し、顎に指を当てる。
「美人、ではあるねぇ。並んでもちっとも顔は似てないけど。性格も……素直な良い子だよ。こんなスレた姉とは真逆さ」
「へー。一緒にシャバムで住んでるの?」サラダに顔を突っ込みながら少年も質問する。
「いんや。昔両親が離婚してねぇ、あの子は父親と一緒に住んでいるのさ。色々と他人の手間の必要な子だから」
「病気か?」
「健康には違いないんだけどねぇ。―――死んだ母親も臨終の床まで心配してたよ、あの子の事は」
シャバム新聞社のエース、『疾風のトルク』は不安そうな表情で食後のコーヒーを啜った。
「引っ掛かる言い方だな。問題のある親父さんなのか?」一瞬仲間の腕に刻まれた爪痕が脳裏を過ぎる。「児童虐待、とか」
「そんなんじゃないよ。ただ……子供を育てられるような人間でないだけさ、あいつは」
冷静な口調とは裏腹に随分な貶し様だ。妹を蔑ろにされている憎悪さえ垣間見える。一体どんな親なんだ?
「あの―――一緒には、暮らせないんですか?」
菓子包みを開け、チョコマカロンを配りながら誠が遠慮がちに口を開いた。焦げ茶色の円盤形を受け取りつつ、記者は睫毛を伏せる。
「少なくとも今は難しいねぇ。私も引き取るために色々調べてはいるんだけど……」
法律的な勉強、と言うニュアンスではない。大体血の繋がった娘にしてあの評価だ。ヤシェは新聞社の有名記者だし、良い弁護士を雇って養育権をもぎ取るぐらい簡単だろう。
「愛する家族が離れて暮らすのは……悲しい事です。きっと妹さんもそう……」
「坊や……そうだねぇ。あの子、昔から寂しがり屋なんだ。おまけに泣き虫で」
母親と離れざるを得ない彼にとって、彼女の話は感情的に重なる部分があるのだろう。
「そう……だよねぇ、うん。プレゼントと一緒に、そろそろ切り出そうかな……」
深い息を吐き出した後、感謝するよ、頭を小さく下げて言った。
「実は初めてなんだ、家族以外と妹の話をしたの。今ので胸のつかえが取れた、ありがとう坊や。その上お相伴にまで預かって悪いねぇ」カリッ。「うん、美味い。何処の店だい?―――へえ、お嬢ちゃんのお家の近くの。サンキュー」
俺も一口放り込む。サクサクの生地に上下を挟まれた濃厚チョコクリームが舌の上で踊る。自宅で作ると成功率の低いスイーツだが、こいつは完璧だ。今度オルテカに行ったら是非爺に買って帰ろう。(あ、そうだ)病院に戻ったら真っ先に無事の連絡をしないと。
カタン。「マスター、御馳走様。お代はここ置いとくよ」モーニングセットのトレーに数枚の硬貨を入れる。
「あんた達はゆっくりしていきな」
「いってらっしゃいヤシェさん」「またね」
四人分のスクランブルエッグを焼きながら、女主人も片手を上げて常連を見送った。
それから数分後。マカロンの最後の一つを、ジャンケンで勝った俺が口に放り込んだ時。ようやくトーストとパンケーキ、ケチャップの掛かったスクランブルエッグがテーブルへ。メインを前にして早過ぎる満腹の様相を呈し始めていた誠も、食パンの香ばしい匂いに思わず手を伸ばした。何も付けずにカリッ、もぐもぐもぐ……。
「美味しい!ヤシェさんの推薦通りだね」
微笑ましく思いながらフォークで赤斑の半熟卵を口に運ぶ。牛乳多めで丁度良い硬さだ。ケチャップは自家製らしくやや酸味が強かった。
誠の隣ではオリオールが蜂蜜とバターをたっぷり掛け、念願のパンケーキを頬張る。一方トーストに苺ジャムを塗りつつも、端の少女はぼんやりと物思いに浸っていた。