一章 現世への帰還
「……ん……っ」
眩し……カーテン閉め忘れたか?
ゆっくりと瞼を開く。白い天井がぼんやり見えた……何だか頭が重い……少し寝過ぎたか―――そうだ!誠とオリオールは!?
ガバッ!
「!?ここは……?」
消毒薬臭い真白の部屋。漂白されて染み一つ無いシーツの上で混乱する。
(病院……?)
窓の外には昇る最中の太陽。常夜の支配する“黒の星”では有り得ない光景だ。
(戻って来れたのか、俺は……?)
まだ寝惚けて、ないよな?すべすべのシーツの上の手の感触は普段通りだが、さっきの夢でも確か、
「うわっ!!?」
驚きの余り、危うくベッドから転げ落ちそうになった。心臓をバクバクさせながら、恐る恐る隣を観察する。
「…………ぅん……」
「……まーくん?」
な、何でこんな至近距離で寝ているんだ?ゼロメートルどころか、ほんの十数センチじゃないか!?
椅子に座りベッドに頭を預ける誠は、顔の左半分をこちらに向けていた。夢もそうだが現実はもっと可愛い。ドキドキしてしまう。
隣の空の病床はシーツが乱れていた。ベッド同士の間に置かれたサイドテーブルには、白いチューリップと霞草の生けられた花瓶。その横には輸血パックの掛かった点滴台、チューブは入院服姿の誠の左腕へ繋がっている。中身はまだ半分程度残っていた。
「あ」
白い袖から切断された筈の右腕が生えていた。試しに人差し指で血管と骨の浮き出た甲を突く。硬い。体温の低さも含め、すっかり元通りになっていた。続いて頬に触れる。
ぷに。ぷにぷにぷに。つい感触が癖になって連打する。
「………」反応無し。余程深く眠っているようだ。
(バレやしない、今なら)
何か忘れているような気がしないでもないが。
「っ………」
想像通り、柔らかくて冷たい唇。鼻で息をするのも憚られる程、甘い……何だこれ?キスって、まるで極上の砂糖菓子みたいだ。止められなくなる。
「は……」
たっぷり二分間はしていただろうか。離してやっと肺に溜まった空気を吐く。
夢と同じ艶やかな黒髪を撫でながら、自分の寝巻きの内側を覗く。胸には真新しい包帯が巻かれていた。触れると下のガーゼが引っ掛かり、ズキッ!まだ銃痕は完治していないようだが、この程度なら日常生活に支障無いだろう。
「何日寝てたんだ、俺……?」
誠の胴体と腕が既に再生されているのだ。少なくとも一昼夜程度ではない。
「丸三日ですよ」「!!?」
何時の間に入って来た?窓縁に片膝を立てて座るリーズ・ビトスはそう答え、朝の街を眩しげに眺める。
「そいつも夢使いの力か、エミル・アイゼンハーク?」
正体を隠す天才は答えず、よく“黒の星”から帰って来られましたね、とだけ呟いた。
「日頃の行いが良いからな。?どうした?」
「いえ……何でも」
表情を強張らせた少女に、一瞬本来の成人女性の顔がダブる。
「何時からいたんだ?」
「ウィルさんが素っ頓狂な悲鳴を上げる前からです。―――もしかしてファーストキスなんですか?まだ顔が真っ赤ですよ?」
「っ!?」慌てて両手で頬を覆う。
「やっぱり。晩熟なんですね、見た目通り」
「う、五月蝿い!」
クスクス。
「人の事よりリーズ。ケルフとはあれから話したんだろうな?」
「ええ……勿論」
何か奥歯に挟まる返答だ。まだ山と隠し事がありそうだな、この様子だと。
「じゃあ他に用があるので、私はそろそろお暇します。ちゃんと安静にしてないと駄目ですよ」
「え?あ、お」「待って!!」
窓縁を飛び降り、軽やかに病室を出る少女を呼び止めたのは、俺の横で寝ていた誠だ。どうやら夢現の中、聞き覚えのある友人の声に反応したらしい。
「誠君?ごめんなさい、起こしちゃったね」
強気な天才夢使い様も、無垢な天使の前ではただの女学生に戻らざるを得ない。
「いいよ、別に謝らなくても。おはようリーズ、そんなに急いで何処へ行くの?」きょろきょろ。「診察の先生が来てないって事は、九時よりは前だよね?」
「まだ七時半だよ。午後にはオルテカに戻らないといけないから、始発で二人のお見舞いに来たの」
「え?」
「お兄ちゃんと違って私、平日はずっと授業があって来れなかったでしょ?」両手を顔の前で合わせ、子供っぽく微笑む。「本当はもっと早く来たかったのに、ごめんね。お詫びにオルテカで有名なお店のマカロン持って来たから赦して、ね?」
ベッドの隅に置かれたピンクのファンシーなラッピングボックスを指し、可愛く頭を横に傾けた。
「そんな、気を遣わなくていいよ。ありがとうリーズ」
と、そこで自分の胸元を見て頭を下げる。
「それよりごめんなさい。あの火事で、リーズに貰った大切なお守りを失くしちゃったんだ……本当にごめん」
「ああ、何だそんな事。大丈夫。あれは々持ち主を守って、最後には壊れちゃう物だから。顔を上げて」
尚も申し訳無さそうな誠の頭を、リーズは四つ葉のリングを嵌めた左手で撫でた。
「今度雑貨屋でもっと可愛いの買って来てあげるよ。あ、それともウィルさんが選んであげます?」
「センス無いからパス。任せる」
俺は手を顔の前でパタパタ振った。ちっ、妙な気遣いやがって、このブリっ子め。
「そうだ、一緒に朝ご飯食べようよ。ウィルも私もお腹空いているし、急いで来てくれたって事は、リーズもまだなんでしょう?」
「う、うん。でもいいの?ウィルさん、今起きたばっかりだよね。何か口にする前に、先生に診せなくて大丈夫?」
「俺はもう平気だ。なあまーくん?」
「え?わ、私は診察してもらってからの方がいいと思うけど……」
「動いても別に平気さ。傷も塞がってるし、問題無い」
「でも……」
おろおろする提案者の手を引き、俺はベッドを出た。
「決まりだな。食堂行くか?」
「あ、それは駄目」小声で「まだ面会時間前なの。私、夢を通ってこっそり入って来ちゃったから、見つかったら確実に抓み出されちゃう」
「本当?じゃあえっと……そうだ。非常階段を降りて、外の喫茶店に行こうよ。あそこならモーニングもあるし、もう開いている筈」
「行った事あるの?」
「うん。ボランティアの休憩時間に看護婦さん達と。ちょっと待って―――はい、ウィル」
奥の狭いクローゼットを開け、自分は新品のいつもの黒服を、俺にはYシャツとジーンズを手渡した。
「ありがと」
「誠君、階段に鍵は?」用心深い夢使いが尋ねる。
「掛かってないよ。ここ最上階だし、今は『訳有り』の私達しか入院してないから」
「無用心なの。じゃ、先に外出てるね」
少女が病室のドアを開け、注意深く廊下を見回して出て行った。バタン。
(え、ちょっと待て?)
横目で誠を覗く。待ち合わせる友人に早く合流しようと、彼は寝巻きを脱ぎ去って下着姿になっていた。雪のように白い肌、女よりずっと細い手足に、何故猫のトランクス?普段履いてるブリーフより更に三段階は浮いてるぞ。上もマラソン中の老人みてえな色気の無いタンクトップだし。誰だよ、こんなダサいの与えたのは(と思ったら俺もお揃いを履かされていた)!?折角の可愛さが台無しだ。彼の母親、ファッションセンス抜群の“炎の魔女”なら発狂して火葬するレベル。せめて“黒の城”で着ていたみたいな、フリルのキャミソールにパンティとか―――って、まるっきり女物じゃないか!?俺のアホ!!
それからはなるべく背を向けて着替え、脱いだ寝巻きをベッドに畳む。手に取ったマカロンの包みに書かれていたのは、古今東西のスイーツに詳しい俺でも知らない名前だった。新しい店か?美味かったら一度行ってみないとな。
カチャン。「?まーくん、それどうしたんだ?」
彼が腰に差したのは紛れも無く剣だ。両手にも見慣れない黒のリストバンドを装着している。
「夢の中で燐さんに少し稽古を付けてもらったの。―――私だって、これからは自分の身ぐらい守れるようにならないとね」
あ、そうか。やっと別人格の事を思い出し、先程の行為に対する恥ずかしさから咳払いをした。
右手を上げ、バンドからキラッと輝く刃を抜き出す。
「これは燐さん用。靴にもナイフを仕込んであるんだよ」
「……なら一安心だな。さ、行こう」
努めて明るく言ってはみたが、内心は複雑だった。自分の力不足を突き付けられたようで。―――強く、ならないとな。これから。
貴重品を確かめ、リノリウムの敷かれた廊下に出る。非常階段へ出るドアには五階と書かれた看板がぶら下がっていた。
キィ。「準備出来たの?」「うん、お待たせリーズ。案内するね」
カン、カン、カン……。
「よし、下にも誰もいないな。今の内だ」手摺りから身を乗り出して確認する。
「何だか映画に出て来るスパイみたいだね、私達」子供っぽい笑みを零す。「ドキドキしてきちゃった」
立派な不法侵入者のくせに何言ってんだ、このオバサン。
バタンッ!
もうすぐ二階と言う所で、眼下のドアが勢い良く開いた。覗いた大きな蒼目と目が合う。
「あ!声がすると思ったら、やっぱり兄様達!!」
オリオールが小生意気に断言し、階段に出て来て扉を閉める。
「お兄さん!目が覚めたんだったらまず診察受けなきゃ!あれ?お姉さん、何処から入ったの?下の玄関は閉まってた筈だけど?って言うか、まだ面会時間じゃないよ」
訝しげな少年は降りて来た階段を見上げ、服も着替えてるし、こんな朝早くから何処へ行くつもりなの?と尋ねる。
「朝ご飯だよ、病院前の喫茶店で。リーズがお見舞いにお菓子持って来てくれて、お腹も空いてるから皆で」
「えー、ズルい!僕も連れてって!!」
言うなりピョン!と俺達の前に立ち、ほらほら早く!ナースさん達が来ちゃうよ!滅茶苦茶調子の良い事をほざく。
「付いて来ていいから騒ぐな。お前のキンキン声は意外と響くんだぞ」
「わーい!僕パンケーキね!」
一人増えて階段を降り終え、誠の先導で病院を離れた。
(平和な朝、だなぁ……)
またこいつ等と陽光の下を歩ける日が来るとは思わなかった。―――良い天気だ。今日はさぞや洗濯物がよく乾くだろう。暢気にそう思いつつ、商店街方面へ歩を進めた。